5 捜一の刑事(デカ)長


 大牟田おおむたいさおはイノシシのような男だった。

 四月に入ってもう十日以上も過ぎたというのに冬物のツイードジャケットを着て、焦げ茶のウールのスラックスを穿いていた。日焼けしたラグビーボールのようにごつい顔に黒々と量の多い髪、太く濃い眉、その下で切れ長の瞳が不気味に光っている。固く結ばれた口の周りの無精髭は、厳しい労働の結果なのか本人の意志なのか、どちらとも判断がつきかねたが、醸し出す空気の荒々しさを構成する大きな一つとなっているのは間違いなかった。こんな男と取調室で二人きりで対面したら、気の小さな人間ならチビってしまいそうだと鍋島は思った。

「――岡本信哉の事件なら、管轄外やないのか」

 大牟田は横柄な態度をあからさまにして言った。府警本部捜査一課でもう十五年以上も殺人に関わってきた叩き上げの刑事で、所轄署の刑事に対して明らかな侮蔑心を抱いているのが見え見えの権力主義者だ。

「ええ。ただ、今うちで行方を捜している人物が、その事件に関わっていたか、もしくはどこかで繋がりを持っていた可能性があるので、参考までにどんな事件だったか知りたいと思いまして」

「名前は?」

「はい?」

「捜してる人間の名前や。名無しか? ネットの掲示板みたいに」

「佐伯葉子」芹沢がつっけんどんに答えた。

「おらんな。関係者にそんな名前の人間は」

「ええ、おそらく事件に直接関与しているわけではないとは思ってるんです。ですが、いまのところ手掛かりはその事件だけなもので」

 大牟田は腕を組んで椅子の背に身体を預けた。本部の捜査一課にある三坪ほどの会議室で、鍋島と芹沢はここでずいぶん待たされた。

「直接関与はしていないというのは、どういうことや」

「佐伯葉子という女性はフリーライターです。その彼女が、坂口郁代の名前を残して突然姿を消したんです。誰かからの脅迫を受けて。ですから、この事件の関係者がライターの取材を受けていたという話を耳にされたことがないか、あればそこから何か掴めるんやないかと思いまして」

「ないな。被疑者否認の案件やから、ある程度はマスコミの関心を買ってたようやが」大牟田は面倒臭そうなため息をついた。「同姓同名やないのか」

「かも知れません。ですが彼女は今までにも殺人事件の被疑者を数多く取材しています。だから今度も、その事件の坂口郁代のことを指していると我々は見ています」

「かと言うて失踪した記者を捜すのに、本人の追いかけてた事件をいちいち洗うのか? 気の遠い話のような気がするがな」

 大牟田は呆れたような笑いを浮かべた。

「ええ、ですから今のところ、他に手掛かりがないもので」

 鍋島は我慢強く説明した。

 大牟田はまたふっと薄笑いを浮かべると、勿体付けるようにゆっくりと話し出した。

「――岡本いう男は、まともなミュージシャンやあらへんかった。自分では『』たら名乗ってたけど、わしらに言わせたらただのヒモや。水商売やら風俗の女に限らず、若いOLやら名前だけの女子大生やら、とにかくあいつに金を貢ぐアホな女がぎょうさんおった。ほれ、そこのあんたみたいに綺麗な顔しとったからな。そんなもん、本人の努力でも何でもあらへんけど」

 大牟田は言うと芹沢を見て、また続けた。

「坂口郁代もその一人やった。岡本が定期的に出演してたライブハウスと同じビルのラウンジに勤めてて、一番親密やった。仕事が仕事やから、学生や会社員と違って金を持ってるやろ。岡本はそこをよう分かってて、坂口をもっぱらの金づるにしてた。以前に一度、岡本がバンドの機材を買うとか言うて坂口から百五十万借りたことがあったんやが、そんなもんまるっきりの嘘で、競馬と女遊びに使いよった。坂口もそれを誰かから聞いて知ってた。で、犯行のあった前日にまた岡本から金の無心をされて、坂口は断った。それだけやのうて、だいぶ説教もしたらしい。それでも岡本にはまるで悪びれたとこがないんで、最後には相当怒ってたと、二人の口論を目撃したラウンジのママが証言してる」

「しかしその坂口という女性は容疑を否認しているそうですね」

「ああ。でたらめなアリバイを主張してな」

「どんな主張を?」

「それがもう、どこをどう捻ったらそんな話が出てくるのかっていう稚拙なアリバイや。以前、自分が一緒に部屋を借りてた同居人――ルームメイトとかシェアメイトとか言うらしいな。その同居人の知人と、高槻たかつきの駅前で偶然会うて挨拶を交わしたと言うんや。ええか、同居人本人やのうて、その知り合いと、やぞ。いかにも曖昧なアリバイで、そういうのがかえって信憑性を持つとでも思たんか知らんが、あっさり崩れた」

「その同居人の知り合いという人物が否定したんですか」

「もちろんや。当日のアリバイだけやのうて、坂口本人のことも知らんと言うた」

「そっちの方が嘘をついている可能性は?」

「ないな。その人物が当日一緒にいた別の人物の証言も取れた。そもそも、その人物が嘘をつく根拠がない」

 そう言うと大牟田は身を起こし、岩のような顔を二人に突き出した。「なにか。きみらはこっちがそんな手抜かりをやらかすとでも思てんのか」

「いいえ、ただ、念のために」

「白々しいことを言うな。俺はそっちがまだ体育の時間に女子の着替えを覗き見しようとしてた頃から、ここで人間が人間を手に掛けるのを見てきてるんや。まともな経験もないのに試験に通っただけの巡査部長に、念を押されるほど能無しやない」

「失礼しました。申し訳ありません」鍋島は無表情で頭を下げた。

「その証言者というのは大手商社の部長や。おそらく坂口は、かつて店に来た、社会的信用のある人物の名前を咄嗟的に口にしたんやろうが、そんな人物が同情だけで動くとでも思たんか、とにかく浅はかな女や」

 大牟田の嘲り笑いを無視して、芹沢が訊いた。

「その部長の名前と勤務先は?」

「訊いてどうする」と大牟田は芹沢を睨みつけた。「また『念のため』か?」

「いいえ。世間でも名の通った人物だったら、その坂口って女性が出まかせを言ったってこともあり得ると思いまして」

「せやからそうやと言うてるやろ。あの女のでっち上げや」

 大牟田は腹立たし気に立ち上がった。部屋の隅にある電話の受話器を取り、ボタンを押した。「――ああ、大牟田や。班長いてるか」

 鍋島と芹沢は硬い表情で大牟田を見据えていた。

「――班長、あのな、一月に東梅田署で起こった殺しあったやろ――ああ、それや。あのとき、被疑者のホステスのアリバイ主張を否定した商社の部長とその部下の名前、分かるか」

 大牟田は電話の横に備え付けてあったメモ用紙と鉛筆を引き寄せ、素早く走り書きをした。「おおきに」

 電話を切った大牟田はメモ用紙を引きちぎり、二人に振り返った。

「――坂口のアリバイ主張を否定したのは東栄とうえい商事取締役物流事業部長、峰尾みねお昭一しょういち

「ミネオショウイチ……?」

「そのミネオと当日一緒にいたのは?」

「峰尾の部下の内田うちだ啓介けいすけや」

 大牟田は吐き捨てるとメモ用紙を机に叩きつけ、ドアに向かった。「もうええやろ。これ以上まだ知りたいことがあるんやったら、捜査記録を読め」

「はい。ありがとうございました」

 鍋島の晴れ晴れとした挨拶に、大牟田は足を止めて振り返った。

「ええか。これだけは言うとく。おまえらが誰を捜そうとこっちのあずかり知らんことやから勝手にやればええが、事件を掘り返すようなことはするなよ。おまえら半人前の若造にはまだ分からんかも知れんが、刑事にとって一番我慢ならんのは、自分の捜査を他人にいちゃもんつけられることや。しかもそれがよその管轄の刑事となると、もう一つ余計に我慢ならん」

「文句をつけるつもりはありません。自分たちは失踪した女性の足取りを掴みたいだけです」

 鍋島は挑戦的な眼差しを大牟田に投げかけ、さらに言った。「それとも大牟田さんは、俺たちにこの事件を調べられては都合の悪いことでもあるんですか」

「……貴様」と大牟田は鍋島に近寄った。「所轄の鼻たれが、聞いた風な口を利くな」

「あなたと同じ巡査部長です」

「……ふん。親の七光りでなれたくせに」

 鍋島が険しい表情で大牟田を見返した瞬間、芹沢が口を挟んだ。

「どこにそんな証拠があるんですか」

 大牟田は二人を交互に睨みつけた。それからふんと鼻を鳴らして不敵な笑いを浮かべ、「西天満署やな」とだけ言って出て行った。

「くそっ……」

 鍋島は机を叩いて悔しがった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る