第57話side:父の後悔



 やはり、この婚姻は間違いだった。


 領へと戻る途中、娘が暗殺事件に巻き込まれたというとんでもない報せを受けて、サイラスは公爵家へと引き返していた。

 馬を駆りながら、己の過ちに打ちひしがれる。



 2年前に公爵家からカトレアとの婚姻の申し入れがあったとき、彼の母はひどく反対したものだった。サイラスも同じ気持ちだった。

 ヴラージュ公とカトレアでは、あまりに釣り合いがとれていない。公爵家夫人という肩書きは、元気と丈夫さだけが取り柄の娘には重すぎる。そもそも、公爵家城館を切り盛りしつつ他の高位貴族たちと渡り合うなど、彼女には土台無理な話なのだ。


 いくら好いてくれているからといって、ありがたやと娘を華々しく陰謀渦巻く上流社会に送り出せるほど、サイラスは楽天家ではなかった。

 

 ——しかし。

 2年前、婚姻の申し入れに来た公爵を、屋敷から追い払った後のこと。


 公爵が娘に惚れ込んだという怪奇にサイラスが思いを馳せていると、娘の悪事を伺わせる話し声が聞こえてきた。


「まあ、お嬢様! 何ですか、その格好は!」

「しーっ! 静かにして、テレサ。父様たちに聞こえちゃう」


 また何かやったのか、とため息をつきつつサイラスが娘の様子を伺いに行く。声のする調理場を覗き込んだところ、裏口から屋敷への侵入を試みる、泥の塊の姿が目に入った。


「……おい」

「げ」


 泥がびくりと硬直する。よく見ると、彼の娘だった。


「カトレア。今日は1日部屋で大人しくしていろと言っただろう。何をしていた」

「あの……ええと。困っている人を助けに……」

「その格好でか」


 見苦しい言い訳をもぞもぞ口にする娘に、サイラスは青筋を浮き上がらせながら目を釣り上げた。

落雷の予感に、カトレアが身構える。

 しかしサイラスが怒鳴り声を響かせるよりも先に、顔見知りの農夫たちが2人、庇うように裏口から顔を覗かせた。


「待ってください、領主様。お嬢の言っていることは、ほとんど本当です。ぬかるみにはまって立ち往生している馬車があって、それをお嬢が助けてやったんですよ」

「馬車?」


 農夫はうんうんと頷く。彼らの衣服もまた、泥まみれだった。


 馬車という単語に、サイラスの中で不安が膨れ上がった。こんな辺境の道を、馬車が行き来すること自体が滅多にない。だがつい先ほど、この屋敷を発った馬車があった。

 タイミングが、あまりに合いすぎている。


「……カトレア。もしかして、馬車の乗客と何か話したのか」

「御者の人とは話しましたけど、乗客の方はあんまり。目を合わせようとしないし、ぶすっと黙っているし、ちょっと感じの悪い人でした」

「でも、かなりの男前だったよな」


 農夫が補足する。

 男前という言葉に、泥の中に埋もれていた瞳がぎょろりと動いた。


「そんな……! どうして教えてくれなかったの。私も見たかった!」

「そう言われても。泥の中に突っ込んで、前が見えねえって言っていたのはお嬢だろう」

「男前ってわかっていたら、意地でも引き止めたのに。そうとは知らず、気持ちよく送り出しちゃったじゃない!」

「……」


 屋敷に通じる道を、馬車で通った男前。そんなもの、あの公爵以外に存在するわけがない。

 しかし彼がカトレアと言葉を交わした様子は、農夫たちの話を聞くかぎりないようだった。娘に関わるな、というこちらの頼みを、公爵はしっかり守ってくれたのだろうか。


 いや——


 サイラスは、床にべたべたと泥を振りまきながら、農夫たちに文句を垂れる娘の姿を見てそれはないな、と確信した。

 きっと、この姿を見て求婚する気も失せたのだろう。いくら明るい性格に惚れたと言っても、16にもなって泥まみれで通りを駆け回るいきものを娶りたいなどという物好きは、そういないはずだ。

 今頃あの公爵は、「とんでもないものを嫁にするところだった」と、胸を撫で下ろしているに違いない。


 適齢期の娘を相手にそんな考えが浮かぶのはなんとも虚しく悲しかったが、サイラスも分厚い胸を撫で下ろした。



 だが、それから2年後。強く断りを入れたにもかかわらず、公爵は再びカトレアが欲しいと、辺境にまで足を運んで来た。

 おまけに、「王妃一派に邪魔をされるかもしれないから、可能な限り早く結婚したい」などと、とんでもない要求まで添えて来た。


 王室絡みのトラブルはまずい。娘をそんな確執だらけの家に嫁がせるなど言語道断である。2年前のサイラスであったなら、相手が格上貴族であろうと、その体を引っ掴んで屋敷の外に放り投げていただろう。


 だが、公爵の真剣な瞳と言葉を前にして、サイラスの脳裏に2年前の娘の姿が想起された。


 ——あれを見ても、まだ諦めないのか。


 100年の恋も醒めるような泥だらけの姿。父親のサイラスですら「これはないだろう」と思ったのに、赤の他人である公爵は、それでもカトレアが好ましいと言う。


 ヴラージュ公爵は良い青年だ。やや影があるが、己の権威を振りかざす高慢さはなく、辺境貴族に過ぎないサイラスにも敬意をもって接してくれる。それでいて、人に謙るような卑屈さはない。

 フィラルド卿の愛弟子ということだけあって、剣の腕もたつらしい。彼に憧れる少女は大勢いることだろう。


 その彼が、よりによってカトレアが良いと言っている。これは、ほとんど奇跡だ。この奇跡を、父親の自分が娘の了解もなしに足蹴にしていいものなのか。



 カトレアはその猪突猛進ぶりから、幼い頃より大人たちの心配と不安を一身に集めていた。


 女子であっても武術の鍛錬を課すのがバルト家の慣習であったのに、「戦いを覚えさせたら、この子はすぐに命を落とします」というガルデニアの一言で、カトレアは武術の教練を一切禁じられた。皆、同じ様な懸念を抱いていたので、この決定に異を唱える者は本人以外1人もいなかった。


 ガルデニアは態度にこそ出さないものの、孫たちの中でカトレアに最も期待を寄せていた。その彼女が、カトレアが武術を学ぶことを禁じた。

 そこに何か別の思惑があるようにも感じられたが、彼女の真意を確かめる術は、今やもうない。


 とにかく、そうした経緯でカトレアは武と関係のない道を歩むこととなった。

 しかし、戦いから一歩離れた場所に置かれても尚、カトレアは危なっかしい子供だった。

 迷子の子供を探して自身が森で3日間遭難したことがあったし(子供は半日で帰って来た)、氾濫する川に溺れかけた犬を見つけて飛び込み流されたこともあった(これは下流の倒木に引っかかって無事生還した)。

 屋敷の馬小屋に忍び込んだ馬泥棒と鉢合わせて、国境付近まで大捕物を繰り広げたことまである(馬泥棒と一緒に国軍に捕まり無事保護された)。


 彼女を武の道から遠ざけるという決断は間違いではなかったと、サイラスは今でも思っている。


 だが、親たちの判断でカトレアから人生の選択肢を一方的に奪ったことも事実だ。

 馬鹿で無謀ではあるが、カトレアには戦いを見る目と妙なセンスがある。鍛えれば、いずれは一角の剣士になったことだろう。

 というか、性質だけ見るならカトレアは根っからの武人だ。そんな彼女に、普通の令嬢らしさを求めること自体、元々無理な話だったのだ。

 その無理を押し通そうとした結果、あのように不思議ないきものが出来上がってしまった。


 そこに来て、天から降って来たような破格の婚姻申し入れ。それをまた、「器ではないから」と親が勝手に跳ね除けるのは、あまりに過保護で勝手が過ぎるのではないか。いやそれより、この先娘に良い縁談など一生舞い込んでこないのではないか——。


 だから、悩みに悩んだ末、サイラスはカトレアに「お前、ヴラージュ公爵と結婚したいか?」と訊ねた。即座に「はい」という答えが返って来た。


「……カトレア。公爵家ともなると、家のような弱小貴族には想像もつかないような重責が課せられることになる。これまでのように自由に過ごすこともできないし、様々な悪意に晒されることになるかもしれないぞ」

「それは大変ですね」

「公爵家について、あまりいい噂を聞いたことがない。あんな家に嫁いだところで、普通の幸せが望めるとは到底思えん。お前も、一生を他人に蔑まれながら過ごすことになるのは、嫌だろう」

「そうですね。一生馬鹿にされっぱなしなのは我慢なりませんね」

「なら、ヴラージュ公との婚姻は」

「ぜひお願いします!」

「……」


 こいつ、絶対に何も考えていない。きっと「噂の美形公爵と結婚できるの? やったー」とでも思っているのだろう。父親であるサイラスには、娘の安易な思考が手に取るように理解できた。


 だが、素直に喜ぶ娘の姿を見ては、もう婚姻の話をなかったことにはできなかった。

 幸せになってくれるなら、もうその過程も条件もどうでもいいと、投げやりな気持ちで、カトレアを嫁にやることにした。



 ——それが、結婚当日に暗殺騒動に巻き込まれるとは。しかも、相手はかつて国を震撼させた夢喰い。その1人は、なんとカトレアの侍女の中に紛れ込んでいたという。


 どうしてカトレアは、こうも取りこぼしなく面倒ごとにぶち当たるのか。そこに一種の才能すら感じられる。


 だが、危険だと分かっていながら公爵家に娘を送ったサイラスにも、責任がある。

 こうなったら、例え周囲から後ろ指をさされることになっても、娘を連れ戻さねばならない。


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