第65話 姫殿下の暗殺者 その3
この少年には何かがある。何かとんでもない秘密を隠している。絶対に剣を交えてはいけない。この冴えない少年は、私の人生を破壊する災厄そのものに違いない。
サイクスの頭の中で激しく警鐘が鳴り響いていた。危険に対する嗅覚と異常なまでの用心深さ。その二つが貧民街生まれの飢えた青年を、わずか十年ほどのうちに騎士団長の地位にまで押し上げたのだ。ゆえに少年の不敵な笑み、そこに含まれる絶対の自信。それを鋭敏に感じ取って、彼の臆病な本質がしきりに騒ぎ立てていた。
だから――
「はははははっ! やった! やったぞ!」
床に仕掛けておいた落とし穴が開いたその時、少年の頬が盛大に引き攣るのを目にして、サイクスは絶叫にも等しいほどの快哉を上げたのだ。
そんな彼の目の前で、少年は必死に手を伸ばし、足元に空いた穴、その
「ぐううっ! この……クソ野郎っ、やりやがったな!」
サイクスは少年を見下ろして、勝ち誇ったような薄笑いを口元に貼り付ける。彼はスーッと深く息を吸いこんで目を閉じると次の瞬間、悪鬼のように顔を歪め、人が変わったかのように、少年の上へと罵声の雨を降らせた。
「ははははっ! アホが! まんまと引っかかりやがった、この間抜け! だあれが、貴様みたいな小汚い暗殺者を右腕なんかに欲しがるものか! 身の程をしれ! 薄汚い野良犬の分際でこの私を、この私の輝かしい未来を脅かそうとはおこがましいにも程がある! 死ね! 死ね! 死ねよ、バカ野郎!」
「……下品な地金が覗いてんぞ。そんな……はぁ……こっちゃお里が知れる……ぜ」
荒い呼吸、早くも噴き出す汗。イルは無理やりに余裕ぶった笑顔を浮かべるも、誰がどう見たって強がり以外の何物でもない。そんな彼をサイクスはニヤニヤと見下ろしながら、再び口を開いた。
「ははは、これは失礼。だが、私の本質は貧民街の裏通りで
「はぁ、はぁ……運で
「運だと? 貴様には分かるまい。私がどれだけ苦しみ抜いて、ここまで昇りつめたのか。好きでも無い年増の慰みものとして何年もの間この身を差し出し、愛玩動物のように囲われて、寵愛という足掛かりを得た後は、殺し殺される戦場だ。そこで地を這い、泥をすすりながら手柄を立ててみれば、今度は汚物を煮詰めたような汚い政治の世界だ。知ってたか? この世界ってのは、クソで出来てるんだぞ」
「ああ、可哀そう、可哀そう。クソはテメェだ、バカ野郎! テメェが王になるだと? 笑わせやがる。テメェは逃げて、逃げて、逃げた先がたまたまこんなところだったってだけの臆病者だ。はぁ……テメェは王なんて器じゃねーよ。あの小っこい姫さまにだって及ばねぇ。アイツはあの小っこい身体で、震えながら逃げもせずに踏みとどまろうとした。汚ぇもんからも目を逸らさずに、それが王族の『義務』なんだと
「この期に及んで姫殿下の騎士のつもりか、小汚い暗殺者が!」
「騎士じゃねぇ、暗殺者さ。オメェみたいな、でっかいクソを片付ける掃除屋さ!」
サイクスのこめかみに血管が浮き上がる。
「言わせておけば! よかろう、姫殿下には僧院にでも入って貰えば良いとそう思っていたが、気が変わった。事がなった
「はっ! 小娘にビビりやがって恥ずかしいったらありゃしねぇ」
「黙れっ!」
怒り任せにサイクスはイルの
「ぐあっ!」
「はははははっ!」
苦悶の声を漏らすイル。
だが、サイクスが下品な笑い声を上げて彼を見下ろしたその瞬間――哄笑するような表情のままに彼は凍り付いた。少年がニヤッと笑ったのだ。
「危なかったぜ、テメェがキレてくれなきゃ終わってた」
次の瞬間、突然サイクスの目の前で、少年の身体が浮き上がる。いや、違う。少年が浮き上がったのではない。サイクスが落ちたのだ。入れ替わる因果。『落ちるイル』と『落とすサイクス』その存在が挿げ替えられて、二人の居場所が瞬時に入れ替わったのだ。
「うわぁあああああああああああ!」
サイクスには何が起こったのか分からなかったことだろう。彼がイルの指を踏みつけたその瞬間、
サイクスは確かに用心深かった。だが、常人が想像できる範囲のことなどたかが知れている。最後の最後で彼は詰めを誤ったのだ。
暗闇の中へと滑り落ちていくサイクスの視界の中で、口元を歪めるイルの姿が遠ざかっていく。二十ザール(二十メートル)ほどの縦穴ゆえに、次の瞬間には、彼の身体は固い石畳の底に叩きつけられ、甲冑の金属のひしゃげる音が、縦穴を反響しながら上へと昇って行った。
「う、うぅう……」
サイクスは暗闇の中で呻きを漏らす。下半身の感覚がない。穴の中は暗すぎて、自分が今どうなっているのかもよく分からない。ただ、はるか上の方に四角い光が見えて、そこにサイクスの方、穴の底を覗き込む少年のシルエットが浮かんでいた。
「全く、くだらねぇ。くだらねぇ男だと思って話を聞いてりゃ、やることなすことくだらねぇ。そもそも姫殿下の騎士だぁ? 俺をテメェと同じ騎士って枠で捉えようってのがそもそもの誤り。暗殺者は暗殺者、騎士の枠で測りゃあ、そりゃはみ出すに決まってる」
「……た、たすけてくれ、謝る、謝るから」
「……しゃあねぇなぁ、俺だって鬼じゃねぇ。勝負は付いたんだ。これ以上てめぇに何もしねぇよ」
その意外な返答にサイクスは、おもわず目を見開き、ホッと息を吐く。
「りょ、両足が折れてるんだ。誰か助けを呼んできてくれ」
「アホか、何もしねぇって言ってるだろ? えっと、ああ、この敷石の下にボタンがあんのか」
「ま、待てっ! 待ってくれ!」
「昇るのは得意なんだろ? 自分の才覚だけでまた昇り詰めりゃいいだろうが。それが自慢だったんだろ? 運が良けりゃ誰かに見つけてもらえるかもしれねぇぜ」
サイクスは思わず目を見開く。
誰かが見つけてくれる? そんなことはあり得ない。サイクスは用心深いのだ。その彼が声が外に漏れるような、稚拙な落とし穴を作るはずがない。この罠の存在を知っているのは、サイクスと罠を作らせた職人だけ。ただしその職人はすでにサイクスが始末している。グレナダやベルモンドにも教えていない。サイクスは誰も信用などしていない。そもそもこれは、先々、彼らに使うつもりでつくらせた罠なのだ。
「せいぜいそこで、てめぇのくだらねぇ欲のために死んでいった連中に詫びな、じゃあな」
イルの声が降ってきてすぐに、ギシギシと音を立てて真上で落とし穴の扉が閉じていく。
「ま、待て! 待ってくれぇえええええええ!」
だが、その叫びはどこにも届かない。光一つない深い闇の中で、ただ虚しく反響した。
◇ ◇ ◇
「さて……と」
イルはパンパンと手を払うと、サイクスの執務机の方へと視線を向けて、面倒臭げに口を開いた。
「そこに隠れてるやつ」
「ひっ!?」
途端に執務机の下で、ガン! と大きな音がする。慌てふためいたディクスンが、天板に頭をぶつけたのだ。
「テメェの始末は俺の仕事じゃねぇ。俺は帰るが、そこの穴に落ちたクソ野郎を助けようとか思うなよ? 死ぬぞ?」
すると、執務机の下から蚊の鳴くような声で返事がある。
「わわわ、わ……わかりました」
「ふん」
イルは
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