第13話 そして、少女は堕ちた。

(……緑色)


 それが、通された部屋についてのシアの感想であった。


 壁一面を覆う緑の布。その表面には東から斜めに差し込む朝日が、布地の向こう側にある窓の形を浮かび上がらせている。石畳の床には窓枠の影が、平行四辺形を形作りながらゆらゆらと揺れていた。


 そこにポツンと置かれた小さなテーブルが一つ。椅子が二脚。椅子の一つにはシアが腰を降ろし、その正面のもう一脚には女が一人、静かに腰をかけていた。


 それは、フードを目深まぶかに被った白いローブの女。先程からずっとうつむき気味で、口元にしかその表情はうかがえない。


 緊張した面持ちのまま、長い長い沈黙に耐え切れず、シアが思わず目を伏せると、女は静かに口を開いた。


「……悪いことは言わない。考え直した方が良いわね」


「わ、私では売り物になりませんか?」


「そうじゃないのよ、お嬢さん。奴隷に身をとすという事が、どういうことなのか分ってないんじゃないかと思ってね」


 女の口調は終始穏やか。大きな抑揚はないもののわずかにだが、体温を感じさせる優しい声だ。


「誰かに自分の生殺与奪の権利を握られるということの意味を、本当に理解している?」


「そ、そのつもりです」


 そう、そのつもり。覚悟をしてきたつもり。弟の将来のために、自分の身を投げ出すつもり。……なのだが、あらためて問われると、奥歯が音を立てそうなほどに身体が震える。


「重労働なんていうのはかわいいもので、変な男に買われれば、身体をもてあそばれるかもしれない、暇つぶしに殺されるかもしれない、殺されるよりももっと悲惨な目にあうかもしれない。そこまでちゃんと考えてきた?」


「はい」


 短く答えて、シアは口元を引き結ぶ。


「悲しむ人はいるんじゃないの?」


「泣いてくれる人はいます。……いると思います」


 一瞬、リムリムの泣き顔と、イルの呆れ顔が頭をぎった。出会って数日だというのに、こんな時に思い出されるのがこの二人だということに、シアは自分でも少し驚いている。


「でも……私は弟が幸せになってくれることを望みます」


 女は小さく溜息をつく。


「いいわ。あなたを買いましょう」


 女の名はクリカラ。このサン・トガンの街でも名士の一人に数えられる資産家。そして奴隷商だ。


「銀猫!」


「……はい」


 クリカラがパンパンと手を叩くと、シアの背後で声がした。


 感情を感じさせない平板な声に、シアは思わず振り返る。すると、誰もいなかったはずのそこに、少年が一人佇んでいた。癖の強い銀髪におどおどとした瞳。常に肩を竦めているかのような酷い猫背の少年の存在に、シアは思わず身を仰け反らせる。


「契約書を用意しておくれ」


「……すでにそこに」


 少年がゆらりとテーブルの方を指さす。シアが慌てて目を向けると、いつのまにやらテーブルの上には羊皮紙の書類が広げられていた。


 思わず目を見開くシアに、クリカラはクスクスと笑う。


「さあ、お嬢さん。ここに署名すればその瞬間からあんたは人じゃなくなる。ただの商品に成り下がる。だから、今のうちにアンタとちゃんと言葉を交わしておこうと思う。これが引き返す最後のチャンスよ」


 シアは、思わずゴクリと喉を鳴らす。


「ここに署名すれば、お金は必ずアンタの弟に届けてあげる。このクリカラの名に懸けて必ず。そして、アンタには人間をやめさせる。それもまた、このクリカラの名に懸けて必ず」


 そこまで言って、クリカラは言葉を区切る。シアの反応を確認しているかのような視線を感じる。小さなため息とともに、再びクリカラが口を開いた。


「署名が済めば、アンタは隷属の首輪を嵌めてもらうことになる。そうすれば、主人の望むことは、どんなことでも喜んで受け入れることになる。股を開けと言われても、淫らに奉仕しろと言われても、子を孕めと言われても。そして、死ねと言われても……ね」


 それは、なんとも違和感を感じさせる物言いだった。どうにかして、シアに思いとどまらせようとしているようなそんな思いが透けて見える。


 噂に聞く冷酷な奴隷商人の印象からは程遠い。そんな気がした。


 だが……もう決めたのだ。


 堕ちるところまで、堕ちようと。


「……お願いします。私を買ってください」


 クリカラの小さなため息が壁にぶつかって、地面の上を転がった。


 そんな気がした。

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