男の名は神戸幾三郎と言った。

 代々続く地主の長男坊で、村一等の権力者であった。そんな男が嫁に貰ったのはどこの馬の骨か知れたもんじゃない美しい娘だった。家柄はないが、それ以外は揃っていた大変魅力的な女であった。

 いつ何時知り合ったのかはわからぬ。

 幾三郎の見目はお世辞にも良いとは言えず、そんな男に天女のような女が嫁ぐと言う。あれだけしつこく娘を嫁にと鳴いていた者どもも、その美貌を見たら一同腰砕けになってしまったものだから表立って反対する者はいなかった。

 幾三郎も女に夢中で、女の妊娠を知った時の喜びようには狂気を感じるほどだった。

 ところが娘を生んで数か月もしないうちに女は病に倒れた。連日高熱にうなされ、白目をむいてうわ言と繰り返す有様だった。あれだけ好いていた女がそんなになってしまったものだから、金と権力を振りかざすなら今だと彼は名医を各地から集めた。そんなすぐに治るとも思えなかったが、効き目なしと判断すれば幾三郎はヤブ医者呼ばわりして追い出し、挙句の果てには怪しげな呪術にもすがった。

 そして三か月経ったある雨の日、何が効いたか知らんが女はあっさりと回復した。

 あまりのことに皆度肝を抜かれたが、それでも奥様が回復されたと女中らは喜び、ひとまず死なないで良かったわと安堵した。ところが幾三郎は、回復したばかりの女を指さして、「こいつは違う、こいつは違う」とのたうち回った。

 あれだけ好いた女を幾三郎は親の敵だと言わんばかりにあしらった。あまりのことに周囲は幾三郎は気でも狂ったかと噂したが、当の女はそれを気に留める様子もない。なんだか奇妙な笑顔で、発狂する幾三郎を笑った。

 それ以降二人の仲は冷え切って、言葉を交わさず、目も合わせずに一日が終わるのが当たり前になった。

 男はそれから女の着物をアテに晩酌するのが日課になった。時折、着物のにおいの奥底まで執拗に嗅ぎ、自分の慰み物にした。幾三郎は妻にまったくの関心を示さず、その代わり娘をその対象として見るようになった。娘は病に伏せる前の女によく似ていると、やがては娘の着物で自身を慰めた。

 

 そしてとある朝。女と娘もろとも消えた。


 女は夜が明ける前に華弥子と家を出た。

 見事なまでに女は気配と足音を消していた。それは人というより獣がなせる芸当だった。華弥子はまぁ母様は忍び足がお上手ね、とさほど気にすることはなかったけれど。

 女は懐にいくらばかりの金と小刀を隠し、いかにもちょっとそこらまでといった装いで華弥子の手を引いた。

 日が昇り始めた頃には、いくつかの田畑と通り過ぎて山麓に差し掛かった。屋敷はこの山を背景に庭がつくられているものだから、夕暮れ時なんかはいくら家庭が破綻している事実があろうとも、山は赤い日を帯び、そこから漏れた光を庭の草木が受けている様は素直に美しいと思えた。

川のせせらぎに混じる鳥の鳴き声が聞こえた。腐りかけの落ち葉は湿り、ひんやりとした空気を含む。シダの胞子と混ざり合った朝靄は、白ずんだ美しさ。かすかに川が緩やかに流れている音が聞こえてくる。華弥子は母の生白いぬるっとした左手を掴んで、辺りをきょろりと見渡した。一羽の鳥が木々を斜めに横切った。何を土地狂ったのか大木の幹に義気突してそれは死んだ。

いくらか歩いているうちに華弥子の足は疲れた。母は下半身が蛇でできているような、ぬるぬると疲れのない足取りで華弥子の先を行く。やがて川にかかる橋が見えた。丸太を並べて結わえてできた少し我が身を賭けるには頼りない橋である。水気をたっぷり含んだそれには苔が生えていた。

「母様」

 振り向きざまに矢が飛んできた。女は手のひらをかざして、その矢じりを受け止める。女の手を貫いた鋭い端は女の目を射抜けとばかりに光っていた。

 橋の向こうに男が見える。黒い靄をまとった男だ。女は華弥子を背後に隠した。白い椿をあしらった紺色の木綿がおずおずと動く。

 途端、猟犬が吠えた。女は思わず振り返る。犬歯をむき出しに、身をかがめて飛び掛かるのを耐えている。しっぽを激しく振って、がんがんと吠える。夫が猟師をけしかけたに違いない。あの男はやたら敏いから。

 夫は妻の胸元を掴んだ。なんて臭いだ。性根でも腐っているか。

 妻は甲から平に貫いた矢じりで夫の頬をかいた。一本赤い筋が走る。夫の頭に角が見えるし、醜い唇を己の牙が差している。ぎょろりとした目、こぼれそうなぐらいに見開いて夫は妻のこめかみを打った。

 あれはもう鬼だ。娘に欲情し、あまつさえ妻を殺そうと狙うから人間には戻れぬ。邪心と欲の塊だ。どうしてこの男と結婚したか。

 一撃で視界が揺らいだ。ふらついたところを男はためらいもなく女の腹を蹴飛ばして橋から落とした。姿勢が後ろに投げられ、いよいよ頭から落ちるという時に、

「母様、——を忘れた、すまない華弥子」と女は笑った。そしてそのまま白い波にもまれて、あ、流れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蝦蟇の穂 @R2310

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ