蝦蟇の穂

@R2310

 あぁ宵々。

 一匹の蛙がぬかるんだ溝を這って逃げ行く。茶トラがその後を執拗に追いかけ手を突っ込み、おいでおいでと手を振る。見事なほど大振りのアマガエルである。喰わんとする茶トラの目、輝けり。なかなかに旨そうな蛙である。蛙はぶよぶよとした体を一段と狭くなった穴にねじ込んで逃げた。猫はあきらめてその場所で座った。しっぽを揺らし、煌々とした諸目を帰る穴へ一心に向けていた。

 

 見たまえ、何か向こうからやって来る。豆粒ほどの大きさがどんどん大きくなり、それは女であることが分かった。赤い蛇の目傘を差した妙齢の女である。たっぷりと出した小豆色の半襟、白い牡丹を全面にあしらった着物を年の割には妙な尊厳をもって着こなしていたのである。

 茶トラは女の気配に気が付いて顔を向けた。女との距離は一丈ほどである。猫は毛を逆立て、雷雨のように荒い威嚇の声を上げた。半歩下がり、乳白色の牙に武器としての信頼を寄せ、くわりと口を開けた。女は前のめりに差していた蛇の目傘を後ろに引いた。青白い肌をした美しい女である。黒く濡れた目と髪が赤い唇を魅力的にさせた。女は微笑み、猫がする威嚇の真似をした。すると茶トラは鬼を見たような顔つきで一目散に逃げていった。

 女は傘を持ち直して、妖々ようようと歩いて行った。下駄がからんころんと地を鳴らす。


 都会から外れたこの村にはそれこそ田んぼやらは少ないが、街灯は少なく、娯楽も少ない辺鄙へんぴで不気味な場所であった。頭巾姿の前歯しかないような老婆が、黒豆のような目でじっと見つめてくるような、そんな場所。

 そんな場所を若い女一人で歩けば何かが起こるもので、女が一本道に入ると、首のもげた男が立っていた。男は女をじろじろと見ていたが、女は気にすることもなく目の前を通り過ぎる。男は未練がましく、小さくなって見えなくなるまでその背を見つめていた。

 そこからあと一寸歩けば周囲と断絶したように建っている屋敷が見える。庭には鬱蒼とした草本と枯れた木立が共存し、目立つところに誰かが掘り返した穴にただ水を張ったような池があった。あまり良い出来ではないその池が一等大事にされているように見えた。

 女は傘をさしたまま門をくぐり、変に湾曲した石畳を歩いていく。苔がまとわりついたそれは大層歩きにくいだろうに、女の足は羽のように軽やかである。色ガラスとすりガラスを組み合わせた装いの引き戸を開ければ、室内のぬっとした空気が抜け出ていく。

 履き物を脱ぐと一層足首の細さが際立った。ニスでつやつやとした廊下は三歩目で悲鳴を上げた。廊下は二股に分かれ、右手は庭に面した和室がそれぞれ押し入れを擁して二部屋横並びになっている。左手、一寸歩けば炊事場、通り過ぎれば和室の向こう側、居間につながる。それぞれの部屋が大きく割り当てられ、二部屋でこの村の標準的な家とそう変わらないのであった。

 女は右手を歩く。鍵付きのガラス戸は開け放ったままで、庭の様子がよく見えた。居間側の和室、雪見障子の戸を開く。漆塗りの鏡台がぽつんと、部屋の広さと比べても異存ない存在感はあれど、寂しいと鏡面が訴えかけてくるような、何とも言えぬ不可思議さである。

 女は鏡を覗き込む。首のない男が隅のほうで映り込んだ。

 女は悪戯っ子のようにぐにゃりと笑って振り返る。

 途端、男の胸元が膨れ上がり、肋骨が耐え切れぬと皮膚を裂いて飛び出す。肥大化した肺がぷるぷる震えて、そして割れた。ぱぁんと間抜けな音を立てて四方八方に臓物が飛び散った。

 どうもあの男、肉体は持っていなかったようで、血のにおいも、飛び散ったはずの臓物は跡形もなく消えていた。

 女は小首をかしげ、「悲惨飛散なぁ」とケケケと笑った。





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