50:旅立ちの日(出発)
春風がそよぐ道を、ガタゴトと四台の馬車が進む。山脈へ向かうかのように見える一座の馬車だが、実際は町を迂回して、マシューの牧場へ向かっているだけだった。
一座の大きな馬車は、山道に近い牧場の端に停められた。山脈越えのために借りた荷物満載の荷馬車も、一座の馬車と共に停まる。御者と護衛を兼ねて雇われた案内人たちは、荷物の見張りをしながら野宿する事となった。
案内人は、手際良く
「えっと……ただいま」
「ニース⁉︎」
涙ながらにニースを見送り、仕事も手に付かず、しんみりとしていたマシューたちは、帰ってきたニースを見て驚いた。何か忘れ物をしたのか、急に旅に出たくなくなったのかと、一家は大騒ぎで迎え入れたが、理由を聞いて唖然とした。
「筋肉痛? それで出発出来なかったのか?」
「うん。でも、宿ももういっぱいだから、一晩でいいから泊めてほしいんだ」
騒つく家族を横目に、ニースから事情を聞いたマシューは、一行を泊める事を快諾した。一家は呆れていたものの、誰も異議を唱えなかった。旅立ちの前にニースと過ごす日が、思いがけず一日増えたのだ。歓迎すれど、断る理由はなかった。
グスタフ、ジーナ、メグ、マルコムは家に泊まる事となり、ラチェットは、案内人と野宿しながら馬車で眠る事となった。グスタフは何度も何度も、マシューに頭を下げた。
「いやぁ、本当に何から何まですみません」
「いやいや、いいんですよ。これから長旅になるのに、身体が痛いのは辛いでしょう」
「このご恩は一生忘れません」
さすがにマシューの家では雑魚寝となるが、それでも屋根の下で
話がまとまると、昼食の支度をしていたリンドが、台所から声を上げた。
「メグさん。野宿の方々に、良かったらこれを届けてあげて」
「ニースのお母さん、ありがとうございます!」
リンドから、出来立てのお弁当を包んだ布をメグが受け取り、ラチェットが暖かいスープの入った鍋を持つ。二人は気の毒な案内人たちへ、少し早い昼食を差し入れに向かった。
落ち込んでいた三人の子どもたちは、出発の延期で元気を取り戻した。ルポルが、嬉しげに笑った。
「ニース、せっかくだし遊ぼうぜ!」
「ルポル、あんたは羊舎の掃除があるでしょ」
「姉貴、代わりにやってくんない?」
「い・や・よ!」
これ幸いと仕事をサボろうとするルポルを、ヘレナが捕まえた。その様に、エミルが小さく笑った。
「ヘレナに逆らうなんて、ルポルはいい度胸してるよなぁ」
「エミル、何か言った?」
「別に。何も言ってないよ」
じろりとヘレナに睨まれて、エミルは、そそくさと家を出た。エミルは、シェリーと一緒に羊の放牧へ出かける。ニースは、賑やかなやり取りに微笑んだ。
「ルポル、一緒にやろう? 二人でやれば早いよ」
「ニースは本当に真面目だなぁ……。仕方ない、やるか」
ニースはルポルと一緒に羊舎へ向かった。グスタフはマシューと話し終えると、ベッドで横になるジーナにせっせと湿布を貼りはじめた。マルコムは、何か手伝うことはないかと、納屋にいるダミアンの元へ出かけた。
――最後に、楽しくなったなぁ。
マシューは、思いがけず訪れたニースとの一日に笑みを浮かべると、少しでも長くニースと過ごすべく羊舎へ出かけた。突然騒がしくなった家に文句を言うように、庭に住み着いた鳩が、くるっぽーと鳴いていた。
旅立ち前、最後の夜は、前日の祭りと違い、静かなものだった。ニースの部屋のベッドは、痛みに苦しむジーナへ貸し出され、メグはヘレナのベッドで二人で眠り、グスタフとマルコムは一階の暖炉の前で、毛布を被り眠った。
ニースはマシューの部屋のベッドで、マシューと身を寄せ合った。
「おじいちゃん、もう寝ちゃった?」
「いいや、まだだ。眠れないのか?」
「ううん。もうちょっとだけ、おじいちゃんとお話したくて」
照れくささの混じるニースの声に、マシューは嬉しげに、顔をほころばせた。
「ああ、いいぞ。たくさん話そう」
ニースとマシューは、そのまま夜遅くまで時間を惜しむように話した。喋り疲れたニースは、マシューの腕の中で眠りに落ちた。
マシューは、すやすやと寝息をたてるニースの寝顔を目に焼き付けるように、明け方まで見つめていた。優しい夜が、二人を包んでいた。
山の端から日が昇り、夜が明ける。今度こそ本当に、ニース旅立ちの日だ。
ジーナは馬車の揺れに耐えられる程度には回復し、一行は早朝のうちに身支度を整えた。リンドが用意した朝食を手早く食べ終えると、グスタフたちはニースを残して先に馬車へと向かった。馬の世話など、出発前にしなければならない事がいくつもあるのだ。
ニースは、家族との時間を惜しむように朝食を食べ、忘れ物のないように確認すると、玄関の扉を開いた。朝陽が庭を照らす中、ニースは家族と向き合った。
「ニース。本当に気をつけてね」
うっすらと涙を浮かべながら、リンドは手製の弁当をニースに渡した。前日に引き続き二度目の別れの弁当だが、ニースにはずっしりと重く、温かく感じられた。
「お母さん……ありがとう」
弁当をしっかり抱えるニースの頭を、ダミアンは、くしゃりと撫でた。
「ニース、元気でな」
「はい。行ってきます」
ニースは、しっかり頷いた。ダミアンの横から、ヘレナが涙声で語りかけた。
「学校に着いたら手紙書いてね。一座のみなさんが、また王国に来たら届けてくれるって言ってたから」
ヘレナの隣から、エミルとルポルが声を挟んだ。
「熊や狼に気をつけろよ」
「悪い女にも気をつけ……いたっ!」
最後の最後まで、ルポルはルポルだった。リンドから拳骨をもらったルポルは、涙目でニースに別れを告げた。ニースは、ルポルが叱られるのも見納めだと思うと、切なさを感じた。
「みんな、ありがとう」
絞り出すようにニースが答えると、シェリーが尻尾を振り、駆け寄ってきた。ニースが屈み、シェリーを撫でると、シェリーは別れを惜しむようにニースの顔を舐めた。
シェリーと別れの挨拶を終えたニースに、マシューがゆっくり近づいた。
「ニース、元気でな」
「おじいちゃんも、お元気で……」
マシューは、ニースの温もりを刻み込むように、しっかりとニースを抱きしめると、ニースの目を見つめながら頭を撫でた。マシューとニースの別れの抱擁も、前日に続き二度目だが、マシューに三度目はないだろう。二人の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
マシューは、ニースから手を離すと、小さく頭を振って俯き、鼻をつまんだ。ニースは、手のひらで涙を拭う。リンドがニースの手を取り、優しくさすった。
「ニース。たくさんの人に歌を届けてくるのよ」
「うん。世界中の人たちと、歌ってくるよ」
リンドは、ぎゅっとニースを抱きしめてから、笑顔でニースを送り出した。馬車で待つ一座の元へ歩き出したニースだったが、途中で立ち止まり、振り返ると大きく手を振った。
「お父さん、お母さん! エミル、ヘレナ、ルポル! 行ってきます!」
ニースは大きな声で叫ぶと、俯き、息を大きく吐いた。そして、ぎゅっと目をつむると、顔を上げ、ゆっくり目を開いた。
ニースの目は涙で濡れていたが、その黒い瞳にはしっかりと意志が宿っていた。
「おじいちゃん、お元気で! 育ててくれて、ありがとうございました!」
ニースは笑顔を浮かべ、ぺこりとお辞儀をすると、くるりと背を向けて走って行った。マシューたちが手を振り見送る中で、ニースの後ろ姿は、朝陽に包まれるように溶けて消えていった。
「ニースのやつ……最後の最後に、お父さんって……」
涙ぐむダミアンの隣で、マシューは涙を滲ませながらも微笑んでいた。シェリーがさよならを言うように、ニースに向かって、わんと吠えた。
ニースが馬車へ乗り込むと、馬車はゆっくり動き出す。庭に住み着いた真っ白な鳩が、旅の無事を祈るように青い空へ飛び上がった。
柔らかな風が優しく吹いて、草花を揺らす。それはまるで、クフロトラブラの町が、またね、とニースに囁いているようだった。
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