45:旅立ちを前に1(ラチェットの企み)

 月明かりに照らされた牧場に、穏やかな夜風がそよぐ。ニースは、賑やかな夕食を終えると、昼にマルコ達からもらった大量の餞別を整理しようと、自室へ向かった。

 エミルたちは子ども部屋におり、大人たちは暖炉の前でくつろぐ。パチパチと炎の爆ぜる柔らかな音の中、庭でシェリーが、わんと嬉しそうに吠えた。マシューは伏せていた目を、ゆっくり開いた。


「誰か挨拶に来たみたいだな」

「ニースは人気者ね」


 リンドが微笑み、立ち上がると同時に、玄関扉が叩かれた。扉を開けると、ラチェットが立っていた。


「あら。ラチェットさん」


 リンド夫妻は、ニースが旅の一座と共に旅立つと聞いてから、すぐに一座の元を訪れ、挨拶をしていた。ラチェットたちは、これから家族と暮らすはずだったニースを旅に誘ってしまった事に、申し訳なさを感じていた。


「夜分にすみません。ニースのお母さん」


 気まずそうに挨拶をしたラチェットを、リンドは笑顔で招き入れた。


「いえいえ、お気になさらず。ここのところ昼も夜も関係なしに、挨拶に来る人が多いんですよ。気にしないでくださいな」

「ああ、そうでしたか。なんだか、かえってすみません。息子さんを連れ出すことになりまして」

「いえいえ。ニースが決めたことですから。まあ、楽しみにしていたニースとの暮らしがなくなってしまって、残念ですけどね。ほほほ」

「あ……ええ、はい。すみません……」


 わざとらしく笑うリンドに、ラチェットは、たじろいだ。気を利かせたダミアンがニースを呼びに行き、助け舟を出すように、マシューがラチェットに椅子を勧めた。


「今夜は、公演はなかったのですかな?」

「いえ、今日も公演はあるんですが、座長たちにお願いして、僕だけ抜けさせてもらいました」

「ほう、何か問題でも?」


 眉をひそめたマシューに、ラチェットが慌てて返事をしようとした時、ニースがやってきた。


「ラチェットさん、こんばんは。何かあったんですか?」

「あ、ああ。ニース、こんばんは」


 ラチェットは安堵の笑みを浮かべ、言葉を継いだ。


「いや、何かあったわけじゃないんだ。ただニースと少し、したいことがあってね」


 ラチェットは、パチリと片目を瞑った。ラチェットが何かいると気づいたニースは、ラチェットを自分の部屋へ誘った。


 ニースの部屋は綺麗に整えられており、旅に必要のないものは木箱にしまわれ、部屋の隅に寄せられていた。

 ニースの旅の荷物は少ないものだ。大きな布袋と、背負い袋に小さな肩掛け鞄。あとは腰に直接ぶら下げるものだけだった。それらは綺麗にまとめられ、机の上に置かれていた。

 ニースは、ラチェットに椅子を勧め、自分はベットに腰掛けた。リンドが様子を窺いながら温かいハーブティを運んできたが、その時のニースたちは、ただの世間話をしていた。肩を落としたリンドに、ニースは苦笑いを浮かべた。


「お母さん。扉の前で立ち聞きはしないでね?」


 ニースに釘を刺されてしまい、リンドは渋々一階へ降りた。その様子を見てラチェットは、ふっと笑みをこぼした。ニースは満足して、微笑みを浮かべた。


「ラチェットさん、もう大丈夫ですよ。それで、何をすればいいんですか?」

「はは。敵わないなぁ、ニースには。もうお見通しみたいだね」

「いえ。何なのかは、わからないですけど。何かラチェットさんが、思いついたんじゃないかと思って」

「ご名答」


 ラチェットは、にっこり笑ってカップをサイドテーブルに置くと、懐から一枚の紙を取り出した。


「これはね、だよ」

「楽譜? これが……」


 ラチェットがニースに渡した楽譜は、ニースの歌のパート譜として、主旋律を書いたものだ。後からラチェットたちが伴奏で合わせやすいように書かれていた。


「ニースは楽譜を見たことは?」

「いいえ。初めて見ました」

「んー。それじゃあ、歌は今まで耳で聞いて覚えていたのかな」

「そうです」


 ニースが歌う歌は、即興を除けば、伯爵家にいた頃に歌い手から習った石歌だけだ。しかし歌い手たちは楽譜を持たず、口伝で石歌を伝えている。ニースは楽器の演奏もした事がないため、楽譜が何なのかは知識として知っていたが、実際に見るのは初めてだった。

 ニースの返事を聞いて、ラチェットは小さく呟いた。


「そうか。間に合うかな」

「間に合うって、これで何かするんですか?」

「実はね……」


 ラチェットは、ニースの耳元に顔を近づけ、そっと囁いた。ニースは驚き、声を上げた。


「え⁉︎ 今からですか⁉︎」

「あ、そんなに大きな声出さないで」


 ラチェットの言葉に、ニースは、はっと口を手で塞いだ。ラチェットは、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。


「どうかな? 時間はないから難しいと思うけど、無理かい?」

「んー、どうでしょう。やってみないとわからないですけど……」

「明後日には、僕たちは町を出る。だから、その前にニースの感謝の気持ちなんかを、家族や町の人たちに伝えられたらいいなって思ったんだ。さよならの代わりにね。ニースがやるなら、僕は精一杯手伝うよ」

「……わかりました。やってみます」

「その意気だ」


 ニースが真剣な眼差しで答えを返すと、ラチェットは笑みをこぼした。


 二人は、リンドとマシューに断って家を抜け出すと、庭の片隅に向かった。空には膨らみを増した二つの月が輝き、柔らかな風が草を揺らしていた。

 牧場と庭の仕切りになっている背の低い柵に、二人は並んでもたれかかった。ラチェットは懐から、小さな穴がいくつも空いた横に長い楕円形の物体を取り出すと、上部に伸びた細長い穴から音を確かめるように息を吹き込んだ。

 その不思議な丸い笛の音は、まるでフクロウの鳴き声のように夜空に響いた。


「それって、なんですか?」

「これかい? オカリナって言うんだ。陶器で出来ているんだよ。南の国で買ったんだ」

「へぇ……。ぼく、初めて見ました」

「吹いてみる?」

「いいんですか⁉︎」


 目をキラキラと輝かせるニースに、ラチェットはにっこり笑みを浮かべ、オカリナを渡した。ニースはラチェットの真似をして、包みこむようにオカリナを持つと、ふっと息を吹き込んだ。


「あれ? 音が違う……」

「持ち方や吹き方で、色んな音色に変わるんだよ。ほんの少し口に咥えるように持って……そうそう。手はそんなに包むんじゃなくて、こう……そして、舌先を歯茎に当てるようにして、息を吹いてごらん」


 ラチェットに教えられた通りに、ニースが息を吹き込むと、心地良い音色が響いた。


「わあ、出ました!」

「上手だね。これを使って、ニースに楽譜のメロディを教えるよ。ここには、ピアノもオルガンもないからね」

「いつも持ち歩いているんですか?」

「そうだよ。メロディを思いついた時に、実際に音に出して確かめて曲を作るんだけど、オルガンは大きすぎて持ち歩けないから」


 ニースは、オカリナを数回吹いて楽しむと、ラチェットに返した。ラチェットは、オカリナで何度も旋律を奏で、ニースはそれを覚えていった。

 その日、夜遅くまで二人は練習を続けた。羊舎にいる羊たちは、風に乗って聞こえてくるニースの歌声とオカリナの音色を聞きながら、心地よい眠りへ落ちていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る