3.リョーヤの絵

- まえがき -

声をかけられて、ほとりが目覚めた場所は、黒い水が溜まるダム湖だった。


しかし、その場所一帯から抜け出すことはできず、一人で暮らす蝶人リョーヤと出会う。




#砕かれたガラス瓶


 ほとりは、仰向けで意識を失ったまま、黒い水面に浮いていた。


 わずかな波に流されて、岸に辿り着く。


「こんなところに人が……」


 離れたところから女の声。


 砂を蹴って、駆け寄ってくる足音。


 すぐ近くまできた足音は止まり、波がゆるやかなに打ち寄せる音が聞こえてくる。


 穏やかな水の上を漂っていると思っていたほとりは、はたと、それが夢だと気づく。


「ちょっと大丈夫?」


 ほとりは、現実世界に意識が戻るように、ゆっくり目を開ける。ほとりと同じくらいの年齢の少女に顔をのぞき込まれていた。


「気がついた? 大丈夫? どっからやってきたの?」


「え、あ……」


 まだ頭がはっきりせず、ほとりはゆっくり上半身を起こす。黒い水を含んだ服から、さーっと水分が抜け、本来の天姫の白い生地が蘇った。


「そういえば、私……」


 意識が完全に戻ったほとりは、先刻までの記憶がフラッシュバックし、慌てて、腹部を見返した。


 服に穴が空いていたが、お腹には一切の傷はなかった。


 ――刺されたはずなのに。


 肩に掛けていたガラス瓶の袋に膨らみがなかった。海で落としてしまったのか。しかし、袋にも穴が空き、ガラス瓶は袋の中で、粉々に砕けてしまっていた。


「そんな……」


 唯一、元の世界に戻れる希望が壊れてしまっていた。ツバメに刺された時に、一緒にガラス瓶ともども刺されたのだと、ほとりは気づく。


 しかし、どうして体には傷がないの、疑問に思った。


 ――もしかして、ここは死後の世界?


「おーい」


 振り向くと、少女にきょとんとした顔で見つめられていて、ほとりは、また我に返る。


 よく見れば、セリカ・ガルテンの制服を着た少女だった。


「ここは、ウトピアクアですか?」


「そうとは言えないかな。ま、こんなところにいるのもあれだから、こっちにおいでよ」


 彼女は、意味深な笑みを浮かべ、砂の上を歩きだした。


 ほとりは、水から上がろうとして、初めて辺りを見回した。


 そこは、山に囲まれたダム湖で、湖は墨汁が溜まっているかのように黒い。見つめていると、深い闇の湖に引きずり込まれそうだった。


 空は、薄雲ではっきりしない淡い水色の空が広がっている。まるで、天井に絵が描かれているように止まって見えた。


 ――ここはいったいどこ。




#蜘蛛手良夜と絵


 案内された場所は、湖畔に建てられた手作り感満載の小屋。シリカの住処よりは、大きく立派だった。


 中には、描きかけの絵や作りかけの立体物ばかり。すべてが中途半端で、生活感はない。


「私は、蜘蛛手良夜。あなたは、蝶人よね? ウトピアクアって言ってたし」


 窓際に出された小さな椅子に座ると、彼女が言った。


「はい。蜘蛛手、良夜……さん。もしかして、ニタイモシリにいたあのリョーヤさん?」


 ほとりが聞いた。


「えぇ、そうよ。あなたもニタイモシリに?」


「はい――」


 ほとりは、自己紹介とこれまでの経緯を話した。


 良夜は、特段、理想水郷やインボルクの浄火の話に興味を示さず、ただ静かに聞いているだけだった。


「でも、そこへ戻りたいんです。インボルクの浄火に、私が何かできるかわからないんですけど」


 ほとりは、刺された場所が少し痛くなったように感じて、手で押さえた。


「残念だけど、戻ることはできないよ。ここは時間が止まった場所だから。


 私はここにどのくらいいるかわからない。でも、私の姿がまったくかわらないからさ。


 それに、ここから出ることもできない。本気で出口を探したこともないけど」


 良夜は言った。山はどこまでも山で、抜けられる気配はない。ダムも形としてあるだけで、水を流す装置はない。張りぼてだとも言う。


「そんな――それじゃ、ニタイモシリにいたのは」


「昨日のことのようだけど、ずっと昔なんじゃないかな。少しすれば、いろんなことがどうでもよくなる。あきらめることを教えてくれる場所さ」


 良夜は、まるで人ごとのように答えた。


「ただ、ここに人が来たのが、ほとりが初めてだからさ。ウトピアクアのことなんて、忘れていたよ。


 私にとって理想水郷とか、最初からどうでもよかった。でも、ニタイモシリは好きな場所だったよ」


 良夜は、笑った。


「どうして、そこからいなくなったんですか?」


「新しい絵を描きに出たんだ。でも、描き終えてすぐ、私はたぶん、殺された。気づいたら、湖の上に浮いて、ここにいたってわけ」


「じゃぁ、私も……」


 ほとりは腹部に手を当てる。


「そうかもしれないけど、体はあるし、ここには何もないけど、それなりに自由に生きれるよ」


 ほとりは、深く息を吐き出した。


 視線を移した先に、描きかけの絵があった。


「絵は、途中なんですか?」


「んー、自分でもどうしたかったのか、わからないんだよね」


 白い部分が多く、筆のかすれた跡が目立つが、闇雲に引いたものではないと、ほとりには思えた。


 良夜とほとりは、その絵の前に立った。


「大事な物を閉じ込めたいはずだったんだけど、それがなんだったのか」


「出来上がった絵が見てみたいです」


 ほとりが聞いた。


「ここにはないんだ。ここで描き上げたものは一枚もない。


 誰も見ないし、描かなくてもいいやと思って、筆を湖に投げ捨てちゃった」


 良夜はあっけらかんと言った。確かに、筆が一本もなかった。


「完成作品が見たかったです」


「ほとりは、絵に興味があるの?」


「え、はい。絵を描かなきゃいけない時に、こっちに来てしまったので」


「そうだったんだ。無事に最後の絵が残ってるなら、セリカ・ガルテンに置いてあるはずだったけど。


 ほとりは、目にしてないのかな、炎と水の絵」


 良夜は、思い出しながら言った。


 ――炎と水の絵。生徒会室に飾られていた絵だ。


「それなら、見たことあります。あの絵、良夜さんの絵だったんですね。


 ということは、本当にずっと昔の……」


「だから言ったじゃん。それにあれは、描き残しておきたい光景だったからさ」


 ――本当に想像で描かれたものではなかったんだ。


「どうしたら、あんな生き生きとした絵を描けるんですか」


「今の私には、残酷な質問だな」


 良夜は苦笑いを見せた。


「筆があれば、描けますか」


「描けるかどうかはわからないが、ないよりは描ける確率は上がるだろうけど、描ける自信も保証もないよ」


「それじゃ、筆を探しましょう」


 ほとりは、笑顔を見せた。

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