第509話

「ずず……」

 啜る音。

「ずず……ず……」

 裂けた唇で血を啜る。

「ずずず……ず……」

 赤子が、自分と母の血を啜る。

 実に狂気染みた行いだろうけど。

(死にたく、ない……)

 漠然とだけれどそんな気持ちがあるとわかれば必然とも言える行為。

 血を啜ることへの忌避感もないだろうしね。というかなにを口にして良いかもわからなければ、道徳なんて学べるほど生後時間が経ってるわけじゃない。

 あるのは死にたくないって本能だけさ。

 そしてそれによって生後数十分後。はじめて生きるために口にした栄養が血。

 さて、その次に口にするのはなんだと思う?

「ぇ……ぁ……」

 端が欠けて、ど真ん中が裂けた舌を目一杯伸ばして舐めとったのは……砂。

 啜れる血は吸い付くして。渇いて固まった血を含んだ砂を口にする。

 歯が無いから噛むことはしないけど。なんなら顎も砕けてるから噛むことができないんだけど。

 とりあえずそこにあるから口の中にいれる。

 犬やらは散歩中砂を舐めたりするんだけど。あれはミネラル補給とも言われてるね。

 それに赤ん坊はなんでも口に入れて判断する。これは人間に限らず動物なら珍しい行動じゃないね。

 現代人の場合、野性動物と比べたら免疫がないから致命的なんだけれど。彼女の場合その心配もないね。

 岩に思いっきり叩きつけられて即死しないくらい丈夫だもの。

「……」

 さて、そうやって口と舌だけを動かして数週間。

 やっと……いや、もうかな? 彼女はハイハイができるようになりましたとさ。

 数週間の間に雨が降ったお陰で血も、寝込んでた間に出した汚物も流されて辛うじて砂まみれ程度には綺麗になった体。

 そんな体でハイハイしながら彼女がしたのは――。

「あ……はぐ」

 食事……と言って良いのかな?

 近くに生えてる草を。近くにいた虫を。とりあえず口に突っ込んでいく。

「あぐ……あぐ……」

 不思議なことに、既に歯が生えていたから咀嚼には困らないみたい。

 昆虫。甲虫。雑草を口にしてると。

「……っ。はぐっ!」

 同じ虫を狙ってたネズミを手を噛まれてしまって、痛みに顔をしかめながらもネズミの頭にかじりつく。

 内臓も抜かず。腸に排泄物が詰まってても。構わず食らう。

 だって、汚いとかわかんないし。内臓が危ないとかわかんないし。

 そもそも彼女にとっては危なくないから。そんなもの。

 美味しいとか不味いもわからない。あるのは味覚への刺激。口内の触覚。それらの差違。

 まずもって、彼女の目的は本能的に従った食事。食べれたらなんでもいいんだよ。

 なんでもいいし、大体の物は食べれる。

 彼女は強いからね。生き物として。

 それからも色々な物を口にしていく。

 木の根っこ。

 毒を持つ虫や動物や植物。

 獣の糞尿。

 小さな体で、ハイハイしながらひたすら食らう。

 数週間で傷は粗方塞がっていたけれど。ハイハイしてたら手のひらも膝も擦れていくし、ネズミやら好戦的な虫やらにも手を出してたら傷は絶えない。

「あぎやぁ! んぎゃあぅ!」

 地面にあった蜂の巣に手を出したときには全身毒針でブスブスと。

 全身パンパンに腫れ上がりながら蜂を引っ付かんでは口に突っ込んで。

 最後は蜂の巣を引きちぎっては口にいれていく。

(これ……すき……)

 危なかったけれど。そのときはじめて彼女は甘味を口にして。

 この時だけはちょっとだけ甘さが幸福感をくれた。

 ほんの、ちょっとだけね。

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