第29話

 もしも今彼女が他の選血者に見つかっていたら、間髪なんて入る余地なく殺されているだろう。言い訳する間もなく。瞬きする間もなく。例えその首に赤い首輪をしていたとしても。

「ぐふ……っ! はぁはぁ……。あ、ぐっ!」

 白い肌を自らの血で濡らす。彼女の臓器には折れ、砕けた骨が突き刺さっている。本来ならば痛みで歩くことはできないだろう。だが歩みを止めることを自分自身が許さない。許すことなんてできない。

(早く……。早く行かなくては……)

 時折意識が飛ぶ。それでもすぐに無理矢理意識を戻す。数瞬の意識が飛んでる時間も足を止めることはない。彼女にはそれを成し得るだけのモノがある。

 この世界で忠誠と呼べる美しいものはない。力と恐怖。それが本質とされている世界だからだ。それでもあえて言おう。


 ――彼女には何者にも揺るがすことのできない忠義がある


 彼女は幼い頃、とある庭にいた。その庭の持ち主である選血者は殺すのが趣味で、毎日毎日人間が殺されていく。生物の本能を踏みにじるような場所だった。

 ある日。その選血者は一度にもっともっとたくさん殺したい。そう思った。

 始まったのは駆逐。

 ただただ消費されていく命。日常が加速しただけ。世界から見たらいつもより少し多く減っているだけ。だが、当事者にそんなことが関係あるのだろうか? 目の前にある苦痛と恐怖に常識とか普通とかそんなもの関係あるのだろうか?

 必要……あるのだろうか?

 必要なのは救いだ。どうか助けてほしい。それだけが唯一望むこと。彼女も例外ではなく。願った。無駄だとわかっていても願ってしまう。だって、生きていれば死にたくないのは当たり前なんだから。

 現実は残酷だけれど。彼女には救いの手が差しのべられた。

 たまたまとある選血者が訪ねてきていたのだ。そして暴れる選血者を見て嬉々として襲いかかった。


 ――我のモノを勝手に壊しておいて呑気にお遊びか? クハハ! そんなに壊すのが好きか? だが壊してばかりでは飽きるだろう。一度壊れてみるといい。新しい刺激に目覚めるかもしれんぞ?


 彼女は初めて選血者が痛みと恐怖に歪む顔を見た。それと同時に、さっきまで笑っていたのに痛みと恐怖に支配された同族を詰まらなさそうな顔で見つめる選血者の顔がとても印象的だった。

 事が終わった後。彼女は選血者に近づいていった。それは無意識の行動で、本人もなぜそうしたのかは生涯わかることはないだろう。

 ただ、一つ言えることがあるならば。その選血者に惹かれたのだろう。この存在の傍にいたい。尽くしたい。それが生き甲斐だとなんとなく心の奥底で望んだのだろう。

 ドレスの裾をつまんで彼女は仕えたいと言った。普通の選血者ならば触れる前に殺すだろう。汚い人畜生が触れるどころか、近づくのさえ悪臭が酷く耐えられないからだ。

 でもその選血者は普通ではない。あらゆる次元を超越した生物である中でもさらに異質なその選血者はこう言ったのだ。


 ――人畜生にしては強いモノを持っているな。恐怖を乗り越えるだけの何かを抱えている。クハハ。良いだろう。面白いぞ。許してやる。ついてこい


 今にして思えば。感謝していたのかもしれない。彼女の親はすでに殺されていて、親の仇という概念が薄い世界でも、幼いが故に残った親への愛。奪った憎き相手を意図せずとはいえ懲らしめてくれて。そして汚い自分を気まぐれでも拾って、傍に置いてくれて。

 彼女の忠義は出会った頃から育まれ、時を重ねるごとに強くなっていった。

 生き甲斐なんて持てる方が希。いや皆無と言える世界で奇跡的に手にすることができた幸福。

 この幸福が失われることがあるとすれば、痛みに耐えられず主の為に足を動かせなかった時。意識を飛ばし主の元へ辿り着けなかった時。命を捨てれば果たせるであろうこの使命を遂行できなかった時。

(リリン様……。すぐに参ります……。すぐに参ります……。愚鈍で申し訳ありません……。殺していただいて構いません。貴女様から大切なモノを奪わせないことができたならば……私は……)

 もしも辿り着けたならば。伝えることができたならば。彼女は幸福を抱いたまま死ぬことができるだろう。

 目が霞む。だがわかる。どこを歩いているかわかる。目を瞑ったってわかる。なぜなら幼い頃からこの場所で尽くさせてもらって来たのだから。

(あと少し……。あと少しでリリン様の所に辿り着ける……。もう少しだけ。もう少しだけこの命の灯火よ。持ってください……)

「ん? 貴様何故死にかけている? それに才はどうした?」

(あぁリリン様。できるだけ急いだつもりなのですが、どれほど遅れてしまったのでしょう? ですがもう私にはもう彼の無事を祈り伝えることしかできません)

「リ、リン……ざま……。ジュ、ド……ルーフざ、まが……。がれ……を、を……ざら……で……。わだじ、は……づだえる……よ、うに、いばれで…………」

(こんな時に。こんな時に限って舌が回らない。悔しい。悔しい……! どんなに頑張っても脆いままの自分の肉体が恨めしい。どうか伝わってください。どうかリリン様に伝わってください。何に祈っているかわからないけれど。この願いが届いたならばもう思い残すことは、な……い)

 限界を迎えたディアンナはその場に倒れ伏せる。もう意識もない。だけれど。

「抜かった……! ヴァンフォールが躾る前に動きおったかあのガキ!」

 彼女の願いは通じた。

「フム。しかしよく我の元まで辿り着いた。よくやったぞ。初めて心から誉めるという行為を望んだわ。同時にここまで憤りを感じるのも初めてだ……っ!」

 二百年の時の中で初めてリリンは心の底から怒っていた。怒ることが初めてなのではない。憤怒を覚えるのが初めてなのだ。

 リリンの肉体からマナが溢れる。感情が昂りすぎて制御できていない。

「ディアンナよ。望みはあるか? 我のできることならば叶えてやる」

「……」

「そうか」

 ディアンナは辛うじて生きてはいるが、最早人間の助かる領域ではない出血量。むしろリリンの元まで辿り着けたのが奇跡なのだ。

「であれば、褒美は勝手に決めさせてもらおう」

 リリンの影がディアンナの体のあちこちを貫く。

 その時。微かに揺らめいていたディアンナの命の灯火は、黒く塗り潰された。



 その世界に明確な名前はないが、つけるとしたら常夜の世界。

 星空絶えぬその星は夜でありながら明るさも兼ね備えていた。

 だがその世界も光が一切無い。完全な闇に包まれる時がある。

 たった一人の。たった一つの存在が、本気になってしまった時だ。

 ほんの一瞬ではあるが、その時は今訪れた。



 リリンの元へディアンナが辿り着く数分前。



「かはっ!?」

「やっと起きたか人畜生」

 腹への鈍痛で意識が戻ると、そこは何も見えないくらい真っ暗な部屋。頭がガンガンする。殴られて気絶させられたか? そのせいか変な浮遊感が……。いや、足は下にあるのになんにも触れてない。手も自由に動かせないし、俺の体は鎖か何かで吊らされているようだ。

「うがっ! げふっ!」

 さっきから数人がかりで殴られている。動けない相手に容赦ねぇな。超痛ぇぞボケ。

「フン。あのリリン姉様が気に入っているから特別な何かを持ってるかと思ったが、ただの脆い人畜生じゃねぇかよ。俺が直接ヤってたら一撃で死んでいたな。こんなののどこを気に入ったのかねぇ。ま、変人隠居老いぼれの考えなんてわかるわけもねぇけどよ」

 しゃべってるのはシュトルーフみたいだ。独り言の間も殴打は止まない。もしかしたらあちこちヒビ入ったかも。一応リリンのお気に入りってことになってる俺にこんなことするって全然懲りてなかったんだな。このクソヤンキー。

「フム。殺すにしても、傀儡にするにしても、やっぱ目の前でやってやりてぇな。じゃなきゃ姉様本気にならないかもだしなぁ。かといってちょっと小突いたの最初に見せてもなぁ。手足くらいは落としとくか?」

 殴打が終わったが、今度は金属が擦れる音がする。嫌な予感というかなんというか。確実にこれ刃物だよね? おいおい骨折くらいならまだ治療の余地はあるけど、切断は切り口によっては洒落にならねぇぞ。医学の進歩があるつっても最悪義手義足なのは今も昔も変わらないんだぞ!

 と、頭の中で思っていても痛みで体に力入らねぇし、そうでなくとも拘束されてるから抵抗なんてできねぇ。ヤバイヤバイヤバイ。怖すぎて漏れそう! あ、俺まだトイレ行ってねぇや。

「どのあたりが良いか……――な、なんだ!?」

 シュトルーフがほんの一瞬黙り、驚いたような声をあげる。いったいどうしたんだ?

「い、今のはなんなんだ!? なんだ今のマナの量と質は!? どんな化物がしでかした!?」

 あ~……なんか。察したわ。お前しかいないよな。選血者を脅かせるのなんてよ。


 ――ミツケタゾ


 建物を破壊するような大きな音と共に星明かりが差し込む。やっと回りの様子がわかる。

 拘束具とよくわからない形の刃物らしき物。あとは鈍器だろうか? それ以外特に何もない部屋に、虚ろな目の人間が十数人ほどズラッと並んでいる。全員が全員胸の辺りに傷痕が有りものすごく不気味だ。

「……」

 瓦礫が落ちる音とリリンの足音だけが聞こえる。光の角度が絶妙で、リリンの顔が影になってて怒った顔がさらなる迫力を持っている。先程起こったナニかも相まってシュトルーフは動けないでいた。

「ね、姉様……。い、今のまさかあんたがやったのか?」

「当然だろう。愚かで脆弱で鈍感な貴様ごとき虫けらでも肌に触れれば理解できるようだな」

「クハ。クハハ。な、なんだよ。なんなんだよ! 同じ血族じゃないのか!? なんで!? なんでここまであんたは違っているんだ?」

「知るか。それにどうでも良いことだろそんなことは。重要なことはただ一つだろう?」

 リリンが俺の姿を見るとさらに眉間のシワを深くした。楽しそうな表情も詰まらなさそうな表情も怒った表情も見たことはあるが、ここまでブチギレた表情を見るのは初めてだ。俺に対してじゃないとしてもめちゃめちゃ怖い。

「そう。重要なことは一つなのだ。貴様は我を怒らせた。その事実だけが重要なのだ」

 身体中のあちこちから影が溢れ、揺らぐ。心なしか威圧感がどんどん増していく。

「た、たかが人畜生でそんなに怒るのかよ。確かに怒らすつもりでやったことだが。どうしてそこまで……」

「何度も言わせるな塵滓ごみかす。我がそいつを気に入ってる理由なぞ最早どうでも良い。問答もいらぬ」

「ひっ! か、傀儡共! その化物を殺せ!」

 シュトルーフが命じた途端虚ろな目をした人間たちが一斉にリリンに襲いかかる。恐らくシュトルーフの能力は他者を操る類いのもの。俺にも傀儡にするとかなんとか言ってたし間違いないと思う。

 だけどもしそれが戦力の大半を占めていたら。リリンとは最悪の相性だな。高範囲を一気に制圧できるリリンの影相手じゃただの人間じゃ力不足だ。ま、そもそも相性の良し悪し以前だろうがな。強すぎで。案の定まったく意に介さず全て影で飲み込んでしまった。

「本当に愚かだ。相手の力量が測れんだけでなく。自らを過信し。さらには殺せ、か。我らは不死身だというのに」

「うわぁぁぁぁあぁあぁぁあああ!!?」

 リリンの影がシュトルーフの体を飲み込み始める。体の末端を飲み込んでは絞り上げていく。骨の折れる音も肉が潰される音もしない。音すら影が飲み込んじまってるみたいだ。

「い、いてぇ!? な、なんで。痛覚は遮断してるのになんで痛いんだよぉ!」

「痛覚とマナを知覚する神経は異なる。マナの知覚は我らとて塞ぐことはできん」

「そ、そんな……。ね、姉様! ゆ、許してくれ! も、もうあんたには関わらないから! あんたの席を奪おうなんて思わないから!」

「本当に愚かだな。貴様。どうでも良いのだよ。もうどうでも良いのだよ。貴様は永久に苦しめ。それが強者を怒らせた弱者の償いだ」

「い、嫌だ! ふざけんな! 俺は! 俺は!」

 影がシュトルーフを飲み込み。圧縮していく。豆粒ほどの大きさになるとリリンは影を外へ伸ばしていった。

「お前はあ~いうのが苦手なようだからな。知らないところで処理しとく。もう二度とこちらでお前を脅かす存在には出会うまいよ」

 あ、俺に気を遣ったのね。グロいのやめろって前に言った気がするし。覚えてたんだな。

「フム。傷は浅いとは言い難いが、すぐ治る範囲だろ」

 俺を拘束から解き、影でゆっくり床に寝かせてくれる。ちょっと痛かったが、文句は言えねぇ。口が回らなくて物理的に言えねぇ。

「口は開くか? ほれ、飲むと良い」

 頬を撫でながら顔を近づけるリリン。お、おい。まさかお前!?

「や、やめ……っ! いつつ」

「大人しくしろ。これが一番手っ取り早い」

 そ、それはわかってるけどよ……。気が進むわけないだろ! つか骨折程度なら向こうで普通に治療も――。

「ん」

「むぅ……っ!?」

 抵抗虚しくまたしても唇を奪われてしまう。二回目だからか落ち着いて感触を味わう自分もいてそれがまた自己嫌悪を加速させる。超柔らかいよこいつのちっちゃいお口は。おまけにいつも通りの良い香りもあるよ! クソ!

 強いて今回良かったことをあげるとすれば、舌を絡ませてこなかったことだ。お陰でまだ気持ちは楽。ただ注がれる血を飲み込んでいくってのもかなり特殊な行為だけどな。

「……ふぅ。こんなものか」

 リリンが口を離した時には全身の痛みはほとんど消えていた。体を動かすのにも支障はなさそうだ。

「すげぇなお前の血。売ったら儲けられそう」

「阿呆。お前以外で下手に血を取り込めば即侵食し尽くされる。我が意識せずともな。それに、干渉しつつ血を送り込んだからそこまで早く回復できた。でなくては人畜生の治癒能力では無理があろうよ」

 なるほど。色々あるんだな。で、一つ思ったことがあるんだけど。

「干渉しつつ血を取り込ませたら治るのはわかってたんだよな? なんでキスした?」

「我がしたかったからだな。他意はない」

 つまり必要性はないってことじゃねぇか。ふざけんなこの痴女。次怪我したときは絶対血だけいただいてやるからな!

 ……まず怪我したくないって話だけどさ。

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