Scene 75. 視線と、次。

パシン、と音がして、ミィヤははたと我に返った。



見れば、左の足を上段蹴りの打撃位置で拘束されていた。ヴァースの左手が、むんずと足首を掴んでいたのだ。大きな骨ばった手でがっちり固定されてビクともせず、動かせる気がしない。


(……え?)


状況が理解出来ず、ミィヤは目をパチパチさせて暫し混乱した。そうして混乱している間も、その手はミィヤの足首を離す気配すら見せない。



基本、テコンドーの試合で相手を掴むのはルール違反だ。その証拠に、瞬時にそれを察知した判定用AIシステムのセンサーが、金網のフェンスの支柱で黄色いランプを点滅させ、ピッピッピッと控えめな警告音を発している。それでもヴァースは動かなかった。


テコンドーの試合では通常起こりえない状況にどう反応して良いか分からず、ミィヤは途方に暮れてヴァースを仰ぎ見た。ルールはわかっていると言っていたけど、もしかして何か誤解があったのだろうかと考えながら。


そして凍り付く。



ヴァースは掴んでいるミィヤの足首越しに、横を向いて、目線より少し高い位置を睨みつけていた。



眉間に皺を寄せ、明らかに憤りの感情が見て取れる表情は、忌々しげとでも言えるほどだった。その視線は刺すように鋭い。もしそれが直接向けられていたなら、ミィヤは恐怖に震え上がっていただろう。それがこちらを向いていない今ですら、その不穏な様子にミィヤは身を竦ませた。左足は相変わらず振り上げた状態で固定されているが。


だがその視線の先に何があるのかを確かめようと同じ方向を向いて、ミィヤはまた混乱する。


何も見当たらないのだ。


当然、その先にはフェンスがあるが、ヴァースが見ているのはもっと先のようだった。しかし、その先には空間と、終わりには壁があるだけ。マイクとロブソンがいるのは反対側だ。


(?)


一体どうしたのだろうと、ヴァースの方に視線を戻そうとした瞬間、左足が急に自由になった。



(!!)


それと同時に、全身が、危険を感じた時の条件反射でまた凍りついた。気がついた時には、無意識に掲げたのであろう両手のガードの内側、左側頭部のすぐ横に、ヴァースの右足があった。


とん、と、拍子抜けするほど軽い衝撃が、ミィヤのヘッドギアに伝わる。判定システムが、ビッ、と音を出した。


「一本、だな。」


呆気に取られたままのミィヤに、足を掲げたままそう言ったヴァースは穏かに微笑んでいて、先程の剣呑な様子など、微塵も伝わって来なかったのだった。




「悪いが時間切れだ。続きはまた今度な。」


言いながら足を引っ込めると、ヴァースはまだ呆然としているミィヤの頭をヘッドギア越しにゆさゆさ撫でて、さっさとリングの外に向かった。


「ええっ?もうおしまいっすか?先輩。」

「悪いな。この後も仕事だ。また今度チャンスをやるよ。」

「マジっすか!?絶対っすからね!?」


リングから降り、ヘッドギアとグラブを外しながら、相変わらず食い気味で話しかけてくるロブソンを軽くあしらう。



一体さっきのは何だったのだろうと釈然としないまま、ミィヤもリングから降りて、装備を外す。


「おつかれミィヤ。大丈夫?」

「え?あぁ、うん……」


声をかけてきてくれたマイクに、ヘッドギアを外してついた髪の乱れを直しながら、つい曖昧な返事を返す。


さっきのヴァースの様子に、マイクは気づいていたのだろうか?どう考えても、あれは戦略的なフェイントだとは思えない。そもそも、実力差からしてそんなことをする必要など無い。明らかに、何かに注意を削がれたようだった。でも一体何に?ミィヤは改めてリングのある室内を見渡したが、見えるのは壁や天井、照明だけで、特に思い当たる物は目に止まらなかった。



「施錠するぞ。お前ら先に出ろ。」


既にヘッドギアとグラブを元あったところに戻して、ヴァースが三人に退出を促した。ミィヤも慌てて防具を透明なロッカーにしまい、出口に向かった。




ロブソンとマイクの後に続いて、出入り口の左側で待機しているヴァースの横を通り過ぎ、扉を潜ろうとした時だった。



「!?」



口元に何かが覆い被さり、ぐいと後ろに引っ張られたかと思うと、ミィヤの目の前でシュン、と、窓の無い自動扉は閉まってしまった。



顔の下半分を包む大きな手と、そこに重ねた自分の両手、シャツ越しの背中から伝わってくる人の体温の温もり。それに左の肩越しに伸びる腕と、その先のドア横の認証用スキャナに置かれた手を見て、背後から抱き止められているのだと一瞬遅れて気付く。


「次の休みは?」


左の耳元で囁かれて、ミィヤは思わず両手で顔を覆っていたヴァースの右手を引き剥がし、そちらに顔を向けた。少し屈んで、何処か眩しそうにミィヤを見つめているヴァースと目が合う。吐息が感じられるほどの距離だった。


その両眼の複雑な色彩–––飴色の縁に、緑が混ざり、中央に行くほど濃い青になる–––に、つい見惚れてしまって何も言えないでいると、大きな手が掴んでいたミィヤの指をゆっくりと絡め取った。暖かい。回された腕の力が抜けて、ミィヤの肩に心地よい重みを感じさせる。顔が更に近くなって、こつりと額と鼻先が触れた。ふんわりと、両耳と首元がヴァースの温もりに包まれる。



ふ、と笑われて、ヴァースのぬるい吐息がミィヤの唇をくすぐった。


「覚えていないのか?」

「え?」

「それともまだ分からないか。」


笑いながら低い囁き声で言われて、うっとりしながらも何の事だろうと疑問に思って、やっとミィヤは質問されていたのだということを思い出す。


(休み!!ええと、次の休みは……)


視線を逸らして必死に思い出している間も、絡めている指がゆっくりとミィヤの指を撫でていたし、背中と肩から直接、そしてほんの僅かな空間越しに伝わってくる熱が心地良すぎた。運良くここしばらくのスケジュールが単調なものになっていなかったら、ミィヤは集中出来ずに思い出せなかったに違いない。


「……み、三日後です。」



恐る恐る言って、ミィヤはヴァースの様子を伺った。ヴァースも視線を逸らして、少し考える様な様子を見せる。


「……その次は?」

「そのまた三日後……」


ミィヤは今や祈る様な気持ちだった。

どくんどくんと、緊張で胸が高鳴る。



だって、予定を聞いてきたっていうことは。



ヴァースが少し顔を引いて、また目が合った。


「その日に予定は?」

「ありません。」


ニッ、と微笑まれた。


「決まりだな。」


緊張では無い胸の高鳴りで、呼吸が詰まる。


「正午に連絡船広場で会おう。」


そう言われてぐい、と引き寄せられたかと思えば、不意にこめかみの辺りでちゅっ、と音がして、急に温もりが遠ざかった。目の前の扉がまた開いて、通路の照明が少し眩しい。


左肩にポンと大きな手が置かれる。


「また、動きやすい格好でな?」


耳元でそう聞こえて、今度は背中を優しく押されて、ミィヤは呆然としたまま扉を潜ったのだった。




この時、ミィヤの頭はこの数十秒間で起こったことを理解しようとするのに精一杯だった。


だからヴァースがミィヤの後に続いて通路に出た時、その後ろで扉が閉まるまで、彼が誰もいない室内を睨みつけていた事なんて、これっぽっちも気がついていなかった。

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