Scene 58. 謀と、忘却。

辿り着いたのは小さな宿泊施設だった。


人のいる受付は無く、建物に入るとすぐにエレベーターだった。中に入ると、空いている部屋の内装を映したホログラムがいくつか現れる。女が迷わずにそのうちの一つに手を伸ばし選択すると、その部屋の映像だけが大きく映り、後の部屋は小さくなった。女は映像の上部に手を伸ばして、「確定」のアイコンを選択する。ヴァースは後ろから女の腰に手を回し、耳元に唇を寄せた。女はクスクスと笑った。


動き出したエレベーターが止まると、入って来た扉とは別の扉が開いた。女はヴァースの腕の中でするりと振り返って、ヴァースの首に両腕を絡める。ヴァースはそれに促される様に頭を垂れ、女の額に自分の額をつけた。上から被さる様に女の顔を覗き込んだまま、部屋の中に足を踏み入れる。密やかな笑い声が、お互いの口から漏れる。


エレベーターの扉が閉まった横で、ヴァースは壁に向かって女に覆い被さった。片手を女の手に絡めて、拘束するように顔の横で壁に押し付ける。反対側の手で女の髪を梳いて避けると、耳から首筋へと唇を僅かに触れて、吐息と共にくすぐった。手を背に回して腰のあたりから強く擦り上げる。


女は力を抜いてその愛撫に身を任せ、恍惚の溜息をついた。



突然、腕をぐいと引かれて、女は一瞬何が起こったのかを理解出来なかった。次の瞬間、気付けば目の前に壁があり、背中で片腕を抑えられていた。そして、もう片方の手が壁にぺたりと押し付けられているのを見て、やっと全てを理解する。


その手が押し付けられている部分には、室内管理端末への認証を行うスキャン装置があったのだ。全身の血が一気に引く。


「やめて!」


女は叫んで身をよじったが、屈強な身体の軍人に、力で敵うはずなどなかった。


「やめて!離して!!」


緑の光の線が、ヴァースの手で抑えられた女の掌をスキャンしていく。それが終わると、スキャナの隣にあったUIのスクリーンが起動し、薄暗い部屋でぽうと明るく灯る。女はまだ逃れようと抵抗していたが、無駄な努力だった。


起動したスクリーンの片方にはPAIのメニューが表示されていたが、もう片方には四角い枠に囲われているウィンドウが映っていた。そこに映っていたのは、ジャケットを着た長身の男の後ろ姿。ウィンドウの角で、赤い丸が点滅している。


「録画とは、なかなか過激な趣味だな……」


映っているのは、ヴァース自身の姿だった。天井の隅にでも、隠しカメラがあるに違いない。


ヴァースは女の手を指でつまんでその背に回し、押さえつけているもう片方の手と一緒に掴んだ。細い両腕を抑えるのは、片手で十分だった。空いた手をスキャナに乗せ、今度は自分の手をスキャンさせる。それが終わると、スクリーンの一部がぽうと黄色に灯った。


「ジェイスン・トラヴァース・アクレス・ウォーカー」


自分の名を言ったヴァースの声に反応して黄色の光が震える。ヴァースは空いている手で、逃れるのはもはや諦めたのであろうぐったりとした女の顎をくいとあげると、子供にでも話しかける様に優しく囁く。


「言うんだ。」


促されて、女は今にも泣き出しそうに震える声で言った。


「に、認証……」


黄色い光が、ピコンという音と共に緑に変わった。それを確認して、ヴァースは女の手を離す。女は脱兎のごとく、部屋の反対側にあるもう一つの扉に向かって走った。階下に向かう専用のエレベーターのボタンを押す。だが、


「施錠。」


と言ったヴァースの声の方が、一瞬早かった。エレベーターのボタンの色は変わらない。震える手で何度も叩く様に押すが、意味を成さなかった。女は信じられないという様に扉を見つめて立ち尽くした。



「こんな商業施設でも、将官の特別権限は有効らしいな。」


ヴァースの低い声に、女は振り向いた。ヴァースは背を向けたまま、スクリーンを操作している。ぴ、ぴ、と、機械音が何度かした。


「気をつけた方がいい。相手によっちゃ非常に危険だ。閉じ込められる可能性がある。しかしPAIを設定してあるなんて、君は随分この部屋がお気に入りの様だな。」


そうゆっくりと言って振り向いたヴァースと目が合って、女は震え上がった。控えめなスクリーンの明かりに照らされて闇に浮かび上がる、この世のものとは思えない様な美しい造形の顔で、突き刺さる様な冷たい視線が女を捉える。女は後ろに後退って、ドアと壁の角に背を付ける。恐怖に乱れた呼吸で、かろうじて言葉を紡いだ。


「ご、ごめんなさい……許して……お願い……」


ヴァースはふうと息を吐くと、上着を脱いで大きなベッドに放り出し、その横にあった一人がけのソファーにどさりと腰を落とした。図らずも、女と正面から向かい合う形になる。片方の肘掛に肘をつき、首をかしげる様にして指の背で頭を支える。もう片方の手をサイドテーブルに乗せると、軽く握った拳でテーブルを打ちながら、許しを請う女を見つめて穏やかに語りかけた。


コッ。コッ、コッ ---


「ここにはよく来るのかい。」

「お願い、許して……誰にも言わないから……お、お願いよ……」


コッ。コッ、コッ ---


「まぁ、連れてくる相手によっては録画は良い考えかもしれないね。」

「ごめんなさい、本当に……もうしないから……」


コッ。コッ、コッ ---


「弱みを握っておけば、いざという時に役に立つだろうから安心だろう。」

「ごめんなさい……」


コッ。コッ、コッ ---


「なかなか居心地の良い場所だ。」

「……」


コッ。コッ、コッ ---


「ここならきっとリラックス出来る。」

「……」


コッ。コッ、コッ ---


「ゆっくり休めそうだ。」

「……」


コッ。コッ、コッ ---


「そう、ゆっくり……」

「……」


コッ。コッ、コッ ---


コッ。コッ、コッ ---



コッ。コッ、コッ ---


「眠れ。」


と、低く密やかに言って、ヴァースはテーブルを打つ代わりにぱちん、と指を鳴らした。



かくん、と、女は頭を垂れて、そのままずるずると壁を背に座り込んだ。



「そう、深い眠りへ……深く、深く……」


優しく語りかけるヴァースの言葉に従う様に、女は膝を折って床に腰を下ろすと、くたりと両腕を投げ出し、座り込んだまま動かなくなった。


「良い子だ……そう、深い、深い眠りだ。とても深い、とても……」


ますます深く俯いた後は、女はピクリともしなかった。



少しの間の後に、ヴァースは静かに言う。


「……君は深い眠りについたままだ。だけど俺の声は聞こえている。そうだね?」


「……ええ。」


俯いたままの女から、ぽそりと小さな呟きが漏れる。ヴァースはまた、子供をあやす様な調子で語りかける。



「良い子だ……そのまま、俺の質問に答えてくれるね?」




「ええ。」






翌日、聖樹に出勤した女は同僚に問い出たされていた。


「姉さん!!酷いわ自分だけ!!昨日アクレス元艦長と二人きりで出たでしょう!!」

「あら、ふふ。何のことかしら?」

「もうっ、とぼけないでよ!……ねぇ、それで、どうだったの?」


年下の同僚は興奮はそのままに、今度はニヤニヤと口元に企むような笑みを浮かべて聞いてきた。


「うーん、そうねぇ……きっとお疲れだったのね。」

「ええっ?どう言うこと??」

「どうもこうも無いわよ。」


女は呆れた様に首を振って、大したことじゃ無いとでも言う様に手を広げて同僚に返した。



「宿に着くなり寝ちゃったわ。ぐっすりよ。少し飲み過ぎたのかもね。」

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