Scene 56. 忌み名と、出世。

「ロングネーム」に「純血種」。


随分と長い間聞かなかった単語を聞いて、ヴァースの中に生まれたのは嫌悪の感情だった。それは公に言葉にする事が憚られる事は誰もが知っているのに、ひっそりと生き残った差別と皮肉の言葉だった。無垢な子供がそれを初めて聞いて何のことなのかと母親に聞いた時、説明もされずに二度と口にしてはいけないと言われ、逆に記憶に鮮明に刻まれてしまう様な、そんな言葉だった。



地球上を旋回し、それぞれの役割を果たしている船艇はいくつかあった。マザー・グリーンはその一つだ。人類の英知の結晶である空中船艇に乗り、その一員になる事は、多くの人にとっては誇りであり特権だった。そして、そこで代を重ねるとなれば、その誇りはより強固なものとなった。故郷に強い思い入れを持つ事は当たり前で、純粋な空中船艇への親しみの情は、しかしいつしか地上に生きる者への差別に繋がった。


最早どの様に事が始まったのかは、推測する事しか出来なかった。小さな、しかし全員の顔は知らない社会で近親婚を避けるためか、それとも地上の出身者と我が子の立場の違いを明らかにするための優越感から来る処置か、同じ立場の者にそうと知らせるためだったのか、いつしか空挺住民たちは我が子に両親それぞれの姓を名乗らせた。そして婚姻により名を加えたり、三世代目以降の者はより権力を持つ側の祖父祖母の名を残したりして、やがて世代を重ねた空挺住民たちは、三つの姓を持つ事がお馴染みとなったとされている。


空挺住民である事の誇りを、そうで無い者たちへの優越と混同した者たちは、三つの姓を持たない者たちを軽蔑をこめて「ショートネーム」--- 「短名者」と呼び、自分達が「ロングネーム」--- 「長名者」である事を敬われるべき事だと信じる様になった。元は単なる数値的な比較であった筈のその区分けは、いつのまにか頻繁に自分達を特別な者だと主張する為、そして相手に対する侮辱の為に使われる様になり、そう意図しない用途であっても、聞く者に複雑な感情を引き起こす様になった。


その区分けは公に認められている事では無くて、公然にその言葉を口にする者は非難はされても、人々が無意識にそれを自分に当てはめ、ロングネームがショートネームより同類との関わりを好むのは誰の目にも明らかな事で、ショートネームもそれは当たり前の事と捉えている節があった。



「純血種」と言う言葉は、更にたちが悪かった。マザー・グリーンでヴァースの家系だけに対して密かに使われるその言葉は、マザー・グリーンの設立当時から船艇上で途切れる事なく代を重ね、殆どの場合ロングネームだけと血筋を繋いできた事を表す為に、周りの者が使い始めたものだった。



個人的に、ヴァースはこの言葉が大嫌いだった。


勿論、ラッザリーニはそれを知っていて、自分が「ショートネーム」である事も利用してヴァースを挑発する為に話題に持ち出していた。ラッザリーニの親は、片方だけが母艦出身なのだ。



「先に言っておくが、」


ヴァースは穏やかに言って身を起こすと、自分の盃に手を伸ばした。隣に座っている女の一人が黒い酒瓶を手に取り、その口を氷のかけらの様な盃にあてがって酒を注ぐ。清水の様な液体が、僅かに窪んだ盃に滑り込んだ。


「艦長の座に戻りたいとは微塵も思っていない。貴方の出世の妨げにはならんだろうから、安心してくれ。」

「はっ。それには俺こそ興味は無いな。」


ラッザリーニは鼻で笑って即答した。


「母艦の艦長なんざ退屈でたまらんだろうさ。俺には遠征先で好き勝手やってる方が性に合ってるんだよ。」


それを聞きながら、ヴァースは特に驚くこともなく、注がれた酒を煽った。何度も口に含めば慣れてくるもので、その刺激は既に衝撃を失っていたが、身体の中を焼く熱の心地良さは変わらなかった。


「悪いが頼まれても母艦の長を勤める気は無いな。時が来れば俺は地上へ引退させてもらう。美味い酒を毎日飲んで、文字通り溺れてあの世に行きたいもんだぜ。はっはっはっ!!」

「はっ、これ程美味い酒ならそれも悪く無いかもしれないな。」

「はっはっ!生意気な事を言う!!これで分かったつもりになるなよ?貴様は良い酒のこれっぽっちも知らんからな!」

「違いない。」


機嫌良く言うラッザリーニに、ヴァースも笑って返した。


「まぁ、ショートネームが艦長を務めるなんざ前代未聞だ。まず俺が推薦されるなんざあり得ないだろうさ。」

「貴方が最初の一人になれば良い。」

「は、言ってくれるな。天下のアクレス殿が推してくれるのかい。」

「私にその権限は無さそうだがな。」

「はん、お前がその気になりゃフラーも言うこと聞かざるを得ないだろうが。お前の事を何でも屋なんて言ってはいたがな。」


ソファーの背に肘をついた方の手に頭を預け、一つしかない目をニヤニヤ細めながらラッザリーニは言った。


「利用してるのはどっちだ?あぁ?」


まだ皿に残っていた生魚を摘み上げて、ヴァースはそれを口に運んだ。こちらは慣れたと言うより、捌いて時間がかかってしまったからなのか、最初の一口よりもその風味は穏やかなものだった。それでも噛むたびに溢れてくる独特の旨味を、ヴァースはゆっくりと味わった。


「何にせよ、母艦の艦長なんざ御免だな。ラピーテンにめでたく初の女艦長をお勤め頂くか、無難にデューモにまかせりゃ良い。俺じゃあ退屈で気が狂っちまうぜ。うぇ。」


フラーの言っていた艦長という職務の本質を突いたような事を言って、ラッザリーニは不味い物でも口に入れた時の様に少し大袈裟に呻き、女達が少し笑った。

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