第198話・そしてわたしの旅路の果てに その17
「ここんとこにさー、何があるの?」
先に起きてわたしの顔を眺めていたと思しきアプロが、おはようございますをわたしに言わせる前にこんなことを聞いてきました。わたしの胸を指差しながら。
「……あなたのものに比べればはるかに慎ましやかなのが二つほどですが、なにか?」
となれば、やさぐれてこー言うほかないってものじゃないですか。
えーもうそりゃあ麗しの恋人二人に比べれば無いも同然ですよかつては母なる大地の平面呼ばわりもされましたよでもですねさんっざんいぢくられた結果最近では多少なりとも
「いや、そーじゃなくって」
わたしのグチが長くなりそーなのを察したのか、慌てて体を起こして弁解するアプロです。その際ももちろんのこと、たわわに実ったアレがたゆんたゆんです。くっそぅ、見せつけおってからに。
「だからそーじゃないよ。アコの胸の奥にさ、なんかあるような気がして」
「胸の奥?……あー」
起き上がりかけたところに真意を告げられ、納得したわたしの頭は枕に落下しました。ばふん、ととてもいい音がしました。
アプロが指摘したのは、昨晩わたしの胸に頬ずりしてた時のことでしょう。「…なんか感じる」と言ってしばらくじっとしてたのですけど、その時わたしは辛抱たまらんよーになってたので、ってそれはどうでもよくってですね。
「多分、ここのあたりにいるんです」
「いるって、なにが?」
「わたしの、根源が」
未世の間にいた彼だか彼女だかは、今こうしてわたしと一緒に、同じ体の中にいます。アプロが感じ取ったのはその気配なのでしょう。わたしひとりにしか知れないのだと思ってましたけど…そうですか、アプロも…。
「んんっ?!…………んっ、アコ?おはよーの口づけにしてはえらくじょーねつ的なんじゃない?」
「わたしがそうしたいと思ったからですよ。おはようございます、アプロ」
「おはよ、アコ」
改めて、にっこりと笑いあいました。悪くない朝だったと思います。
・・・・・
…なんてことをやってたら、出発は朝も大分過ぎた頃になり、ブロウザさんのお見送りもややおざなりになってしまって、今は虹の柱に向けて飛行中です。
どういうわけか分かりませんが、あそこから出てくる幻想種はこちらからある程度近付かない限り襲ってくる様子も無く、近傍の街や村が今すぐ危険に晒される、ってことでもないんですが、これだけ「異世界の幻想」が流れ込んでくるというのなら、いずれ実物がやってくるのもそう遠いことじゃないんじゃないですかね。
「こわいこと言うなっての。でもさ、こうして目に見えた被害が無いんじゃあ、異世界から侵略じみたものがやって来る、なんて考えたくねーってもんだよな。人情的には」
「ですね…っとと……」
突風に煽られて飛行の姿勢を乱され、わたしは慌ててアプロの体にしがみつきます。最近慣れてしまって当たり前みたいになってますけど、考えてみたら体ひとつで空飛んでる上に、わたし自身はひとりで空を飛ぶ、なんて真似出来ないんですよね。くわばらくわばら。
「…来たな。アコ、あれなんだ?また見たことねーやつだけど」
「あー、あれはグリフォン、ってやつですね。いろんな動物の体混ぜたキメラ、ってのの一種ですよ。ちなみに空飛べます」
「実際飛んでるだろ。しかしまあ、違う動物の体組み合わせるとか気持ちのわりーこと考えるもんだなー、チキュウの連中ってのは」
実際嫌悪感丸出しの声と表情のアプロです。わたしは神梛吾子の感覚が残っているのでそうは感じませんけれど、この世界のひとにとってはキメラってのは理解し難い存在なのでしょうかね。
「なるべくなら近付きたくねーし、今日は徹底的に逃げに回るぞ、アコ」
「あい。存分にやってください」
鷲の上半身と猫科の下半身、とかいう言われてみればわけのわからん物体から逃れるように、一方では虹の柱とは少しでも距離を縮められるよう、アプロは進行方向を僅かにずらし飛行を続けます。わたしは相変わらず鎧に覆われたその体にしがみつき、なんだか昨夜の残り香が二人の間にあるような、そんな艶っぽい妄想にとらわれていました。
「で、アプロ?逃げ回るのはいいんですけど、どこまで行く気なんです?」
「どこまでと言われてもなー、行けるとこまで、としか言いようがないや。いい加減目に見える戦果残さねーと、おいてきたあいつらに顔向け出来ねーもん」
「そんな意地みたいなもので動いてもろくなことにならない気がするんですけど…」
「アコは反対か?」
懸念を伝えるわたしの声に、けれどアプロは前を向きながら不敵な笑みを浮かべてます。
まあ、そういうことであるなら。
「…じょーだんでしょ。言うこときいてくれなかったみんなの鼻をあかしてやりたいのは一緒ですよ」
「上等!」
わたしだって、みんなに失敗したところなんか、見せたくないですものね。
同意したわたしに心強さを得たように、アプロは速度を増していきます。
こちらに気がついて接近する構えを見せていたグリフォンは、距離をずんずん縮めてきていて、遠目にはでっけぇ猛禽類にしか見えなかった影は、下半身のライオンの様子まで分かるようになってきました。
「一匹、じゃねーのか。アコ、一発かまして目くらましにする。目つむってて!!」
「はいっ!」
わたしの返事を待ち、アプロは空を飛ぶ推進力を生み出していた剣を前に向けて振るったようです。それと同時に落下も始まりましたが、瞑った目蓋でさえも眩しさを覚えるような一瞬の煌めきのあと、落下感は浮遊感にとってかわられました。
「…けっこー効くのな」
「そうなんですか?……うわぁ」
感心したアプロの声に目を開けると、そこには苦しそうにもがきながら落ちて行くキメラの姿がありました。それも三体も。
「呪言みたいな直接的なのは効かなくても、ああいうのは効果あるんですかね」
「かもな。ガルベルグだってあんだけバカみてーな攻撃はするし、こっちの呪言も通らないくせに、堰を切った水には苦しんでたもんな」
「もしかしたら…」
「ん?」
もしかしたら、と思ったことをアプロに言ってみます。
幻想種というのが異世界の向こうから来たものだとすると、あるいは異世界には存在しない力は徹らないものなのかもしれない、って。
「でもこっちの力はチキュウじゃあちゃんと効果あったじゃん。そんな一方的な力あるってのも変な話だと思うけど…お、次のが来たぞ」
「ですねえ…あー、あれはちょっと分からないですね」
「ま、難しいこと考えても仕方ないって。その……くそー、また不気味なことではさっきのヤツよりも上をいくな。アコ、知ってる?」
「遠くてよくわかりませんけど…なんか翼竜みたいですね」
「ヨクリュウ?…んー、なんか言葉の響きだけで不吉な感じがしてきた。アコ、下の方くぐってよけるぞ」
「りょーかいです」
そしてアプロは今度は、恐竜図鑑に載ってるよーなでっかい空飛ぶトカゲよりも高度を下げ、代わりに速度を上げていきます。
向こうは、といいますとわたしたちに気がついたかそうでもないのか、ともかく悠々と空を滑空していました。
「……なんかあっちはあっちで呑気なもんですね」
「私たちに興味が無いんなら結構なこった。気がつかれないよーにもう少し低く飛ぶぞ」
アプロが一層高度を落とすと、雨期の終わりの近いことを感じされる青々した灌木が眼前に迫ります。手を伸ばせば届きそうな迫力に、わたしは思わず首を竦めました。
「こわい?アコ」
「…ちょっと、ですね。でもアプロが抱えてくれるからへーきです」
「まーた嬉しいこと言ってくれちゃってもー。アコ?今晩はまたたっぷり愛してやるからなっ」
「あなたもーちょっと臆面てものを持ちなさいってば。別にいいですけどベルをほっといて毎晩えっちしてたらヤキモチやかれますよ?」
「知らねー。いない方がわるいっ!」
開き直りも甚だしいことを叫びつつ、わたしたちは地を這うように空を切ります。
一度だけ、流石にこれは気をつけた方がいいかなー、と思って、背中の上空を振り返り確認はしましたが、こちらの方など完全無視なのか、ぷてらのナントカとかいった感じの翼竜は、姿が見えなくなっていました。
その旨をアプロに告げると、分かったと目に見えてホッとした様子でわたしの腰にまわした腕に力をこめてきて、そりゃもーわたしとしてはアプロの胸元のところに頬をすりすりすることだって大喜びでやろうってものです。金属の冷たい感触しかしませんでしたけど。
そして、そんなアホなことをやっていたときでした。
【アコは、うかつ】
はい?
ここしばらくだんまりだった根源が、胸のうちで何か囁いた…いえ、間違い無く警句を発するように鋭い口調で言いました。あまりこの子にはない調子だったので、わたしは一瞬空耳かと思い、アプロの顔を見上げてしまいます。
【…くるよ。うえから】
え?と、今度はハッキリとした響き。
そしてその内容たるや、色ボケしてたわたしにも即座に危機感を覚えさせるもので、慌てて振り返り空を見上げてみたのですけれど。
「!アプっ…」
「え?」
時すでに遅し、でした。
さっき確認した時はきっとこちらの死角に入っていたのでしょう、やりすごしたかと思っていた翼竜が、もう覆い被さるような距離にいたのです。
こんなに接近されるまで気がつかなかったわたしたちは確かに、迂闊でした。わたしは呑気に遊覧飛行としゃれ込んでいた自分を心の内で罵りますが…。
「っ…!!」
アプロはそれでも世界に冠たる勇者。わたしの呼びかけに一瞬気を取られただけで何が起こったのかを察したように、一気に加速し、上空から飛びかかってきた翼竜の一撃を辛うじて躱したのです。
ほんの一瞬前までわたしたちのいた空間は鋭い爪を備えた翼竜の足に切り裂かれ、ほとんど落下するような勢いで翼竜は灌木を薙ぎ倒して地面に爪痕を残し落着しました。
それでホッとするかといえばそんなこともなく、急な加速の勢いによってわたしはアプロから振り解かれてしまい、あっ、という互いの声が聞こえたか、聞こえなかったか。
わたしに手を伸ばしつつも翼竜を避けた勢いに抗しきれず離れていくアプロを、わたしは見送るようにそのまま落下。
「きゃぁっ!!」
木の枝に体が引っかかったかと思ったら、そのままバキバキと枝を巻き込むようにして落ちてゆき、気がついたら土の上に転がっていました。
「あ、あいたたた……」
それほど高い場所から落ちたわけではないとはいえ、一瞬気を失っただけで起き上がることが出来たのはラッキーもいいとこです。体のあちこちが痛いのですけど、酷いケガなどはなく、身体を起こして高いとはいえない木々の間から空を見上げます。
「アプ、ロ……どこ…?」
焦りからか声は震え、取り残されたようにも思えて心細さが胸のうちを占めていくのですけど、アプロのことだからすぐに戻ってきてくれると考え直し、腰が抜けたようにへたり込むと、そう遠くない場所から響く、身の毛もよだつような恐ろしい声、というか音。
グゥゥゥルゥァァァァァ…!!
「え、なに?なにが……あ」
木々を薙ぎ倒すような音と供に、わたしの位置からでも木の梢のさらに上に、裂けたように大きな口を備えた怪物の頭。いえ、先ほどわたしたちを追い回していた翼竜の、です。
それが、巨体をものともせず大きく羽ばたく様が見えて、まさかこちらに気付いたのか、とゾッとするわたしになど目もくれず、羽ばたく勢いを更に増し、耳障りな金属質な鳴き声をあげると、飛び立っていきます。
…翼竜はその巨体が災いして自分から空に飛び立つことは出来ないと言われてる、って神梛吾子の記憶にあるのですが、あれは実際にいた恐竜ではなく、地球住民の想像が形をもった幻想種。そういうことも出来るのでしょう、と驚くわたしに気がつくこと無く、翼竜は再び空の住人となり、嘶きで存在を誇示するように飛んで行ってしまいました。
「……よかった……じゃない、アプロっ?!」
そうです。安堵してる場合じゃなくて、アレがまた飛んで行くってことはアプロがわたしを探しに来られないってことです。
ヤバい。めたくそヤベーですっ!こんなとこに一人放り出されて、仮にアプロがあの翼竜を退けられたとしてもわたしを見つけることが出来るのか……あわわ、えらいことになってきた…。
【おちついて、アコ】
「これが落ち着いていらりょうかっ!……あ」
誰とも無い声にツッコミを入れたところで気付きます。そーいえば今はこの子が一緒にいたんでしたっけ。
【あわててもしかたない。いまはゆうしゃのぶじをいのろう?】
「いえ、そうは言いましてもね…ここら一帯、幻想種がうろうろしてるってのに、アプロの無事は当然ですけど、わたし自分の安全も祈らないといけない立場なんですが」
とはいえ、当面の我が身の危機からは逃れ得た、ということで気の抜けたわたしはぬけた腰をどーすることも出来なくて座り込む以外にやれることもないのでして。
「…まあアプロならなんとかしてくれるとは思うんですけど」
何せ未世の間だろーが異世界だろーが、わたしの居場所を見つけ当てて駆けつけてくれたんですから。
【…そうだね】
「なんです、その口振りは。なんだか他にも不穏な気配でもありそーな感じじゃないですか。いいですか?そーいうのフラグって言って、口にするとまず間違い無く余計なことが起こる呪いなんですからね」
そういえばマーフィーの法則、って死亡フラグの集大成みたいなものだなあ、などとしょーもないことを考えるわたし。
それにしても、ガルベルグを消失させてめでたしめでたし、とはならないのは分かってましたけど、相変わらず苦労してますよね、わたしたち
幻想種とかいうワケのわからないものまで跳梁跋扈する事態になってますし、時間の猶予もないし、魔王を倒して世界は平和になりました、なんてホントお話の中にしか無いってもんですよ。
【ぐちをいてるうちはだいじょうぶだね】
「んなわけねーでしょーが。でも愚痴を言ってる場合じゃ無い、っていうことが言いたいなら同意します。とにかくアプロがアレを退けた後のこと考えましょうか。この場所をさっさと見つけてもらえるように…火ても焚いてみます?」
【げんそうしゅにみつかるほうがはやいんじゃない?】
また反論しづらいことを言うー。そりゃわたしだってその心配はしますけどね、とにかく準備くらいはした方がいいかと、役に立つ道具でも探そうかと鞄の中を探り始めます。
といったところで、火を熾す聖精石はアプロが持ってますし、わたしの荷物なんて今日一日分の食料に水筒と水を集める聖精石に、いつもの針一式だけ。これでそーやって狼煙を上げれっちゅーんですかもう。
【なにかみつかった?】
「あなたわたしの目で見てるんだから分かってるでしょうが……あ」
わたし、余計なことに気がつきました。
その、ですね。今の今までどうして気付きもしなかったのか、そっちの方が驚きと言いますか我ながらヌケてるにも程があると言いますか。
【どうかした】
いえ、どーかしたといいますか…この子、わたしの見てるものがそのまま見えてるとゆーことは……ですね………その…アプロやベルとー……えっちしてる時のことって…。
「ひひひとつきききますけどっ?!あのあの…昨夜、わたしとアプロがそのぉ、ごにょごにょしてるときのことってぇ……」
【……さあ?しらないけど】
「……そですか」
流石に羞恥心とゆーか、気まずさを覚えたような気配。うう、気付くんじゃなかった。今晩からどーすりゃいいんですか、わたし。
【こんばんのしんぱいしてるばあいじゃないとおもう】
そりゃそうですけど。
とにかく、なんとか目印を点けてどうにかしないと。あるいは木に登ってアプロを探すか、ってわたしに木登りなんか出来るわけないと思うんですが。
…まあでもやってみてからでもいいか、とこの近くでは一番高そうな木を探して近寄り、天辺の方を見上げます。
「やれなくはない…かな?」
【………】
だんまりでした。やれるものならやってみろとでも言いたいのか、わたしの運痴っぷりを本気で心配はしてるけど下手につつくとわたしが意固地になりそーだから黙っているのか。なんとなく後者のような気がしてムカつきます。
…よござんす。どっちにしてもここでぼけーっとしてるわけにもいきませんし。
わたしはそこそこ覚悟を決めて、まず一番下に生えた枝に手を伸ばそうとして。
「………届かないんですけど」
諦めました。
いやそりゃー飛び跳ねれば指先くらいは触れられそうですけど、それで木登りが出来るかというと、わたしの運動能力で続きが出来るはずもないのでして。ああもう、こんなとこまで神梛吾子の特徴引っ張ってこなくてもいいじゃないですか。ベル並みとまではいかないまでも、もう少しなんとかならなかったんですか、
【じょうだんいってるばあいじゃないとおもう】
んなこたーわかってます。とにかく木登りがダメなら他の手を…。
【そうじゃない。はやくにげて】
「え?あのー、逃げると言っても別にそんな必要は…」
と言いかけたわたしの耳に届く、聞いたことを後悔するような、不吉なうなり声。グルルル、とかウー、とかいう敵意満載の犬のもの、によく似た音が三つほど。わたし、恐る恐る振り返ってみます。
「見るんじゃなかったーっ?!」
そこにいたのは首が三本あって、首から下こそ犬のようですけどサイズ的には犬なんてカワイイものじゃなくてとにかく何ですかこれケルベロスとかいうやつですかっ?!あーもー、本格的になんでもありになってるんですがどーしてくれんですか責任者出てこーいっっっ!!
【だからじょうだんいってるばあいじゃないって】
「冗談のつもりは露程も無いんですけどっ!!」
傍から見れば漫才みたいなやりとりの間にも、わたしは危機を乗り越えるべく首を巡らし何か助けになるよーなものを探しますが。
「…ってそんなもの都合良くあるわけないじゃないですかっ!自分でなんとかするしか、もー!!」
【なんとか、って?】
「んなもん決まってます!……逃げの一手!」
【…だとおもった】
根源の声は呆れたようでもあり、ほっとしたようでもあり。
察するに、わたしが冷静さを欠いてむしろこっちから飛びかかったりしないだろーか心配してた、ってとこなんでしょうけど、あいにくこちとら自分の実力とか腕っ節とかは、よぉく自覚してますからねっ。ムダなことは最初からするつもりは無いのです。
そして、決断したわたしに三本首の犬は「どうれ、そろそろおまえを取って食おうか」みたいな舌なめずり。しかもご丁寧に、三つの首が同じ動作しやがんの。気の合うことで結構ですが、折角だから一本くらいはわたしの味方してくれませんかね。
そんなアホなことを考えながらわたしは、じりじりと後ずさります。目を逸らしたらその瞬間飛びかかってくる…かどうかは分かりませんが、なんか背中向けたらヤバそーな気がしまして。熊とかもそうじゃありません?
【しらないよ】
それもそーですね、なんて和んでいる場合でもなく、こちらの下がる距離よりも犬の方から詰めてくる距離の方が上回ってる状況では、目を逸らしたら負けなんてルールがなくても目を離せるわけがありません。
わたしはへっぴり腰のまま後退を続けていましたが、こーいう時のどんくさいひとのお約束…そう、木の根だか地面から顔を覗かせてた岩だかに足を引っ掛け、ものの見事にすっ転んでしまいました。
グワァッ!!
これまたお約束通り、そんなわたしの醜態を見逃す相手でもなく、一声だか三声だか唸りを上げて、三本首の犬が駆け寄ります。
「ちょっ…来るなばかぁっ!」
慌てて振り払うようにわたしは腕を回すと、狙ったわけでもないのに真ん中の首を横からヒット!…ってそんなもん何の役に立つってんですか!
わたしの無様な抵抗なんて無かったように、代わりに右だか左だかの首がわたしの喉笛に噛み付いて、あわれ針の勇者の短い一生は一巻の終わり………。
「…あれ?」
頭をかばってうずくまっていたわたしは、いつまで経っても巨大な犬の躯体がのし掛かってきたりしないことに戸惑って、恐る恐る顔を上げてみました。
そしたら、わたしのワンパンでぶっ飛ばされたと思しき四足のワンコが(でも頭は三つ)こちらを警戒するように体を低くした姿勢で身構えているのです。
「……なんで?あ、まさかわたしの拳がクリーンヒットしてなんか急所とかに当たっていい感じに?」
…そんなわけありますかい。わたしは自分の力を過信しないことにかけても定評があるのです。
でもこれは紛う方無きチャンス。
【にげよう】
「逃げますよっ!」
わあ、珍しく意見が一致。
わたしは自分の意志と内なる相方の声の双方に逆らわず、すぐさま立ち上がり駆け出します。
逃げるって何処へ?とかどーでもいいことは考えないのです。むしろ考えてる暇などない!明日へ向けて一途にダッシュ!!
ところがわたしが走り出したことで、少しは怯むところのあった犬が「コイツは弱い!」とでも思ったのかまた勢い込んで迫ってきます。これだから本能だけで動くやつはっ!と口の中で罵りながら、わたしは迫る足音にビビりつつ必死で手足を回転させるのでしたが。
「あだっ?!」
根本的に運動神経に深刻なバグを抱えるわたしの手足が、自分の思うほどに動いてくれるわけもないのです。従いまして、前向きに走っていよーが、後ろ向きに後ずさっていよーが結果は同じ事。先ほどと同じようなパターンでまたもやずっこけるわたし。
【アコ!】
「分かってます!」
けれど慌ててるわけにもいきません。転がった勢いを利して、好機とばかりに襲いかかって来た四肢をどうにか避けると、目の前にあった物体に手をかけて。
「どりゃぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
…と、一気に這い上っていくのでした。
ええ、つまるところさっき諦めた奴よりもよっぽど登りにくそーだった、木に。
【やればできるじゃない。かじばのくそぢから?】
「なんであなたそんな言葉知ってるんですか。あとクソ力じゃありません。馬鹿力です」
似たようなものでしょ、と根源の声はシラケた様子でしたけど、言われる方にしてみりゃ重要なんですから言わせなさいっての、と梢も目に入りそうな高さまで一気登りしたわたしは、張り出した枝の上に立って息を吐きます。
そーですね、メートルにすれば七、八メートルってとこでしょうか。下を見ると、ケルベロスもどきはこちらを見上げてなんだか悔しそうにしてました。うん、やっぱりイヌ科だけあって木登りは出来ないようです。くふふ、ざまーみー。
「…ふう、これで少しは落ち着けそーですね。アプロの姿見えませんかね」
先ほどよりは上空の視界も良好にはなりましたが、この辺で一番高い木というわけでもないようで、木々の間から周囲を望む、というわけにもいきません。
「………」
それと、今気がついたんですけど。
【アコ、おりるときどうするつもり?】
「…ですよねえ」
ええ、降りる時のことを全然考えていないのでした。いえまあ、そんなもん考えてる場合じゃなかったんですが、こーなると本格的にアプロに見つけてもらわないといけなく…。
グゥルルルルルゥゥゥ……
ばっ、と音のしそうな勢いで下を見ます。まさか、という想いでした。そしてその「まさか」が……。
「ちょ、なんで犬が木を登ってくるんですか嘘でしょっ?!」
犬の頭と顔(しつこいですが三本)した四本足がこちらを睨め上げながら木を登ってくる図というのは結構シュールでした。いえ、それに追い込まれてる立場からしたら呑気に感想語ってる場合じゃないんですけどっ!
「どどどうしましょうっ?!」
【どうといわれても。なんとかして】
ええいくそ、肝心な時に相変わらず役に立たない相方ですね!
こうなったらわたしに出来ることなんてただ一つしかありません!!
わたしは大きく息を吸い、それから天にも届けとばかりに背筋を伸ばし顔を上げ、叫びます。
「ア──プロ──!!た─すけてくださ─い──っっっ!!」
【…なにそれ】
うるせーですね。どーせわたしがじたばたしたって何も出来やしねーんですから。
これでもダメだったらいい加減腹括りますけど、かっこ悪い真似するならまだ余裕のあるうちに限るってもんです。
悪い意味で開き直ったわたしは、助けが来ることを期待して空を見上げ続けます。ちなみにそろそろケルベロスの「フー、フー」といううなり声が直に耳に届く距離です。ぶっちゃけマジやべーです。
そしてそんな中、何かが起こるかといいますと…。
【こないけど】
だろうと思いましたよちくしょー!いくらなんでもそんな都合の良い展開あるわきゃねーですってばもう!
「ええいもう、こうなったら…」
【どうするの?】
ここから飛び降りる勢いで蹴りでも食らわすしかねーでしょーがっ、と高さを計算して飛び降りるタイミングを計ってるうちに。
【やらないの?】
「も、もう少し助けを待ってみようかと…」
ああっ、わたしのドヘタレの愚図ののろまのおバカっっ!
結局びびって腰が引けてるうちに次に前足伸ばしたらわたしのいる枝に届く距離に来てしまったじゃないですかっ!!
「く、くるなばか、こっち来んなぁぁぁぁ……」
木の幹にしがみついて片足だけぶんぶん振るだけの無様なわたし。
ああ、なんか具体的な危機が目の前にあるぶんガルベルグの前にいたときよりピンチな気分…アウロ・ペルニカでの時だって他にマイネルやグランデアがいたってのに、今のわたしはひとりきり……もーあかーん!!
【いちおうぼくもいるんだけど】
あなた何の役にも立たないじゃないですかっ、と文句を言おうとしたそのとき、ケルベロスの真ん中の頭が一瞬鎌首をもたげるように後ろに引かれ、え?と思った次の瞬間。
がぶっ。
…って感じにわたしの左足に食いついたのです。
何度も何度も言ってきましたが今度こそ本当の本当にわたしオワタ、と思って覚悟を決めたのですけど。
「………かー…」
目をつむったわたしの頭上から何かが聞こえました。
もう絶望しかねー、と完全に諦めていたわたしでしたが、それでもと目を開いて天を仰ぎ見ます。
そうしたら。
「アコに何しやがんだテメェ──────ッッッ!!」
「アプロっ?!」
そうです。もう、声の届かないところに行ってしまっていたかと思ったアプロが。
わたしの、最高の恋人で何度も何度もわたしを救ってくれた勇者が。
「往生しやがれっ!」
愛剣を振りかぶり、一個の殺意のカタマリとなってわたしの足にかじりついていた犬を、たたき落としたのです。
ああ、アプロ……今度こそ本当に、最後だと思っていたっていうのに……あなたって子はもう……。
【いいことのようにいってるけど、すこしまえのアコはさいていだった】
……うるっさいですね。反省すべきところがあるって自覚はあるんですから、ほっといてください。
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