4-9 最も綺麗な魔法

「――ばっかじゃないの」


 語気の強い凜とした声に、死の淵にいたミハイルの意識が再び呼び戻された。鉛のように重い瞼を必死に押し開く。


「ばかばかばか! あんたみたいな底なし馬鹿、悪魔だって地獄の底から突っ返すわ!」

「ひど……くないか、それ」


 かすむ視界の中でぼんやりと浮かぶリーシャは、それこそミハイルの顔に止めどなくあふれる体液を振りまきながらのぞき込んでいる。


「鼻水……かけるなよ、リサ」

「は、鼻水なんか出てないわよ!」


 そう言いつつも心配になったリーシャは手の甲で鼻を拭う。やはり出ていないことを確認すると、ミハイルの肩をポカポカと殴った。


「ほら、出てないじゃないの――!」

「いた……。俺死にそうなの見えないのかよ……」


 そこでようやく、自分が死にそうなことを思い出した。意識を消失する寸前、白雷が迫っていたことを思い出してリーシャをじっと見る。どうやら無傷なようだ。その視線の意味を理解したリーシャは、涙でぐしゃぐしゃな顔で誇らしそうに笑って見せた。


「あんなの、刀ではじけば余裕よ!」

「そんなわけないだろ……」


 ライトニングスピアは上級魔法である。何の防御もなしに受ければ致命傷は免れないものを単に刀ではじくなど人間業ではない。ちらりとリーシャの持つ片刃刀を見れば、淡く紫色に発光している。紫色は太古から高貴な色とされており、それを纏う魔導具は使う者の技量に合わせて魔術をはじくという。どうやらミハイルの制御外で原初の魔法を使用できたらしい。


「ぼ、僕を……無視す……rn」


 声のした方を見れば、よろよろとゾーイがこちらに向かって歩いてきていた。だがその足取りはすでにおぼつかない。発する言葉も弱々しく、語尾が尻すぼみになったかと思うと、その顔がぐにゃりと歪んだ。


「え――?」


 間の抜けたリーシャの声がその場に響く。三人の間を縫うように激しい突風が一度吹いたかと思うと、ゾーイの顔はハラハラと砕けた。そしてそれは細かい灰となって風に散ってゆく。


「う……そ? どういうこと!?」

「ああ、そうか。リサはあのタブレット見てないのか」


 短い会話を交わしている間に、ゾーイの体はすべて灰となって消えてしまった。目を白黒しているリーシャを尻目に、ミハイルは召喚主とともに命つきた古龍を見た。


「悪いけど、古龍の肉を持ってきてくれないか。出来るだけたくさん」

「い、いいけど、何にするの?」


 問いかけてみたものの、ミハイルは答えない。ただ唇を少しだけ動かしただけだ。


「――ッ! 待ってて! すぐ持ってくるから!」


 リーシャは側に落ちていた刀を拾い上げると、古龍の骸へと一目散に走り寄った。普段は意地悪で理由を説明しないことが多いと思っているリーシャであったが、今回のはそうではないと分かる。説明したくても、もう出来ないのだ。

 さっきまではなんとか意識を保っていたが、もともと死にかけの身である。なんの治療もせずに回復することなどあり得ない。


「私に治癒魔術が使えたら――」


 リーシャは自分の馬鹿さ加減を呪った。魔力コントロールも出来なければ、治癒魔術の術式だって怪しい。ミハイルが最後にした願いの意味は計りかねるが、それに従うよりより他になかった。


 すべての感覚が消えた。

 光も、風の肌触りも、匂いも。さっきまでリーシャの走る足音が聞こえていたと思ったが、それも消え失せてしまった。何もない空間に独りで身を置くと発狂しそうになる。

 安らかに死ねるとは何だったのか。確かに痛みは感じないが、幸せだって感じない。死ぬ人間はこんなふうに感覚を奪われて、孤独に貶められて、どうして安らかに死ねるというのだろうか。


「ミカ、目を開けて! 持ってきたよ!」


 リーシャは自分の制服を古龍の血で真っ赤に染めながら、切り取ってきた肉片を側に置いた。

 再び失いかけていた意識が引き戻される。何も感じない世界の中で、リーシャの声だけは確かな輪郭を持って意識に割り込んでくる。


「手……握れ」

「――ッ」


 ミハイルの言葉にリーシャは困惑した。ミハイルにはもう手がないからだ。それすらも分からないほど、。キョロキョロと辺りを見回すと、リーシャはミハイルの胸の中心、心臓の真上に両の手を重ねた。


「いいよ、ミカ!」


 リーシャの声を聞いたミハイルは、大きく一つ深呼吸をした。肺に穴が空いているのか、思うように息が吸えない。呼吸をする度にピーピーとおかしな音がするが、リーシャの声以外は耳に入らなかった。

「〈神の吐息は命を吹き込み、土塊つちくれむくろは目を覚ます――」


 一言一言、丁寧に紡がれた言葉に合わせて、リーシャが触れていたところから目を見張るほどの光が迸った。どこからともなく風が吹き抜け、ミハイルの中へと吸い込まれていく。


「〈彼の者は肉を与え、また血を分け与える――」


 ミハイルの全身を包んでいた光が、らせんを描いて側に置いてあった古龍の肉塊へと流れていく。瞬く間にその肉塊も淡い光を帯びると、ほろほろと崩れた。そしてミハイルへ吹き込む風に乗ってその元にたどり着くと、ミハイルの欠損した傷口に次々と重なり合っていく。


「わ……あ」


 こんな綺麗な魔術は初めて見た。肉塊と欠損した体という歪なものを結んでいるのに、その光と風は恐ろしいほどに優しく健気だ。それはもはや慈愛ともいえる優しい魔術で、今まで見たどんなものよりも美しい。


「〈死の淵は遠のき、以て芽吹いた体躯は駆け抜ける〉――」


 最後の一節を唱え追えると同時に、ミハイルに吹き込んでいた風が今度はあふれ出した。体を包んでいた光の粒もプチプチと弾け、発光する。吹きすさむ風は激しいけれど心地よく、リーシャの髪を撫ぜていく。

 ひときわ大きな風が吹き光があふれると、そこにはいつものミハイルが眠っていた。四肢はつながれ、腹部に空いた大穴は塞がれ、土気色に染まっていた肌は血色よく輝いている。


「……ミカ?」


 そんなミハイルを前に、リーシャは小さく声をかける。その言葉で呼び戻されたようにゆっくりと瞼をもたげると、真っ青な瞳がリーシャをじっと見つめた。


「……馬鹿はお前だ、ばーか」

「さ、最初にいうのがそれ!?」


 リーシャは泣きはらして赤くなった瞼を数度瞬くと、眉をつり上げて怒った。初めは呆然とリーシャの小言を聞いていたミハイルだったが、次第に意識がはっきりしてくると、その形相に思わずぷっと吹き出した。


「あー! 人が本気で説教してるときに、何笑ってんのよ!」

「いや、悪かった。悪か……ぶふっ」

「もう! 信じらんない!」


 一度面白く見えてしまうと、人はなかなか切り替えることが出来ない。リーシャが真剣に言えばいうほど、ミハイルは面白く感じてしまって笑いを止めることが出来なかった。


「――仲がいいお二人には、とっておきのプレゼントをしようかな」


 ふと、明後日の方から轟いた低い声音に、リーシャは小首をかしげた。


「え――?」

「リサ! 振り向くな!」


 先ほどまで大笑いしていたミハイルは、突然その顔を青ざめさせると這い起きた。

 だがその声は間に合わなかった。

 背後を振り向いたリーシャの眼前には、右目に眼帯をしている女の子がにっこりと微笑んでいる。鼻先同士がふれあいそうなほどの距離。


「〈愛しの銀鑰ぎんやく〉――」


 少女のささやきと共に漏れ出た吐息がリーシャの首筋にそっと触れたかと思うと、彼女はなめるように口づけをした。


「――なあッ!?」


 咄嗟のことにその身を硬直させたリーシャだったが、刹那、すぐ脇から氷の刃が放たれる。その切っ先は眼帯の少女を一瞬捉えたものの、少女が飛び退く方が早い。結局一欠片ひとかけらもかすることはなく、そのまま後方へと跳躍してしまった。


 リーシャを気にするあまり、ミハイルはその背後に迫る人物に気づくのが遅れた。


「〈儚き鎖鑰さやく〉――」


 どこからともなく現れた左目に眼帯をした少女は、音もなくミハイルの背中へとすり寄った。ねっとりとその耳朶じだに唇を這わせると、まるで苺を頬張るかのように淡く噛み――ミハイルは側に落ちていたガラス片で噛まれた箇所を切り落とした。そして瞬時にリーシャを抱き寄せると、飛び退いて二人の少女から距離をとる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます