3-10 ミモザの君

 ここ数日は空気がひんやりと冷たく冬の訪れをだんだんと感じ始めていたが、今日は久しぶりに暖かい陽気にあふれていた。秋晴れの空は高く澄み渡っており、気持ちを高揚させてくれる。憂鬱な気持ちで足を運んでいたミハイルであったが、少し心が和らぐような気がした。


 門に一歩足を踏み入れただけで、消毒液の匂いが鼻について離れない。庭園には遠出できない患者が飽きないようにと、様々な木々や草花が植えられている。その小道を家族に付き添われながら、車椅子で散歩している老女とすれ違った。老女はミハイルの存在に気づくとにこやかに会釈した。ミハイルも見ず知らずの人ではあったが、丁寧に会釈を返す。同じ病院にお世話になる者同士、なんらかの絆を感じているのかもしれない。


 ミハイルを待っている人物が好きだったミモザの花を手に、ミハイルは大理石の廊下を進む。ミモザの開花時期は本来春先であるが、学校の温室では時期を問わずに咲いていた。薬草学のエンゾ先生に訳を話すと、快く分けてくれたのだ。


 廊下の隅まで到達すると、その角部屋の前でミハイルは立ち止まった。そして小さくドアをノックする。返答はない。だがそれはいつものことである。ミハイルは気にすることなくドアを開けて室内へと入った。


「具合はどうだ、フランチェスカ」


 室内にはベッドとサイドテーブル、そして椅子が一つずつ置かれている質素な作りだった。看護師が開けてくれたのか、窓から心地のよい風が入り込んでいる。真っ白で清潔感のあるレースのカーテンが、風が吹き込む度にひらひらと揺れた。


 ミハイルはサイドテーブルに置いてあった花瓶にミモザの花を挿した。その花瓶をベッドに寝ている人物が見えやすい位置へ置くと、ベッドサイドに置いてあった椅子に腰掛ける。


「少し前髪が伸びたね。今日切ってあげようか」


 もう数年来目を開けることのない妹の、伸びきった前髪を優しくかき分けながら、ミハイルは微笑んだ。ミハイルと同じプラチナブロンドの髪は艶やかで、天然パーマなのか緩いウェーブがかかっている。長く伸びた後ろ髪はサイドで軽く結ばれている。看護師が結んでくれたのかもしれない。


 ミハイルはフランチェスカのパジャマの一番上のボタンが空いていることに気づいた。体温を測る際に外したまま、止め忘れたのだろう。そっと手を伸ばしてボタンを留めようとしたとき、ちょうど胸骨の真上の位置に浮かび上がった痣が見えた。ミハイルはその痣を見てとても悲しそうな顔をした後、ボタンを留めて痣を隠した。


 痣と呼ぶにはあまりに人工的である。体内から内出血によって浮かび上がっているので痣であることに間違いはないのだが、それは紛れもない魔法陣である。これはミハイルが六歳の時に、離ゆく妹の魂をなんとか体と結びつけるために施した決死の魔法陣であった。


 ミハイルの父、アルフレッドは実は王弟である。兄である現国王が王位を継承した際に、父は公爵位を賜った。そして妻ドリュー、ミハイル、フランチェスカの四人と、公爵家としてはそれほど多くない使用人と共に領地で慎ましく暮らしていた。


 アルフレッドとドリューは当時の貴族にしては珍しい恋愛結婚だった。出会った経緯はとうとう聞きそびれてしまったが、なかむつましい夫婦として評判だったらしい。魔術血脈ではあるが平民出身の母は華美なものがあまり好きではなく、アルフレッドも王族にしてはおとなしい性格をしていたので、山の中の静かな土地でゆったりと生活をするのが性に合っていた。


 だが、ミハイルが六歳、フランチェスカが三歳の時に悲劇が起きた。アルフレッドとミハイル、フランチェスカの三人で馬車に乗り湖畔へピクニックに赴いた際のことだ。その日ドリューはアルフレッドの母、つまり国王の母君に呼び出されて王宮に赴いていた。母を恋しがった幼い妹を慰めようと、執事の提案で父と共にピクニックをすることになったのだ。


 しかし、これが間違いであった。湖畔への道中に一カ所だけ崖の側を通らなければならない道がある。そこをちょうど通ったとき、いつもはおとなしい馬が突然暴れだしたのだ。馬車はそのまま横転、崖下へと落ちていった。


 恐らく父は即死だったのだろう。気づいたときには息をしていなかった。薄れる意識の中妹を探すと、妹の命も燃え尽きようとしていた。体から魂が離れていこうとしているのが、感覚的に分かった。


 そしてミハイルは、死んだ父から魔力を借りることにした。

 人は死ぬと、まず最初に魂が抜け出る。だが魔力は体に蓄積されたものなので、すぐには消え失せない。徐々に放散されていき、いずれはゼロになってしまうが、即死した父にはまだ大量の魔力が残されていた。


 父、すなわち王族は十傑である。純血の中でも多量の魔力を有する血族だ。だがこのときすでに魔力はないと診断を受けていたミハイルは、自分の魔力を当てにすることは出来ない。父の魔力を使うことで拒絶反応を起こし自分が死ぬこととなっても、妹だけは助けたい一心だった。


 ミハイルは自分のことを顧みることなく、魂をつなぎ止めるための召喚術式を発動させた。

 ドリューの家系は召喚に特化した家系であり、小さいときから研究者である祖父母から召喚術式の手ほどきは受けていた。ミハイルは魔力こそなかったが、魔術式の吸収は人一倍であったので、祖父母は面白がってどんどんと詰め込んだ。その知識が役に立ったのだ。フランチェスカの魂はすんでのところでつなぎとめられ、そしてミハイルは拒絶反応で死にかけた。


 結論をいえば、血縁者の魔力だったおかげか死ぬことだけは免れた。一年ほど生死の境をさまよい、副作用で体が弱ってしまったが、生活できる程度までは回復した。しかし妹はかろうじて魂と肉体がつながっているに過ぎなかった。死んではいないけれども生きてもいない。この十年間、一度も目を覚ますことはない。


「待ってろよ。兄ちゃんがいつか必ず――」


 それから先は声に出すことがはばかられた。誰かが聞けば不敬罪で処刑されかねないからだ。


 事件があったあと、重傷の幼い兄弟を残したままドリューは王宮から帰ってくることはなかった。あの日、父アルフレッドが死ぬとすぐに、ドリューは現国王と結婚した。


 ここからは推測でしかないが、おそらくドリューを欲しがった現国王が、邪魔な弟とその子供の暗殺を企てたのだろう。ドリューはとても美しい人で、国王もたいそう気に入っていたそうである。きっと弟の妻としてではなく、一人の女として気に入ってしまったのだろう。


 母を現国王にとられ、妹は目を覚ますことはない。その事実に直面したとき、ミハイルは王宮で仇討ちをして死のうと考えた。

 やっと体が動けるようになったといってもまだ七歳である。そんな子供が王宮に乗り込んだところですぐに殺されてしまうだろう。だがそれでもよかった。生きている意味が見いだせないミハイルは死ぬ理由を探していたのだ。


 そんなミハイルを見かねたドリューの弟、マークがミハイルを訪ねてきたのはこの頃である。幼い兄弟の後見人になることを名乗り出てくれたが、ミハイルは死ぬつもりであったのでその提案を突っぱねた。


 マークはなんとしても生きていて欲しかったのだろう。ミハイルの生きる意味になるようにと、してはいけない提案をしたのだ。


 それが『魂の召喚式』である。


 それは太古より禁術とされており、また実現不可能なものの代名詞として語り継がれてきた。一度切り離された魂の断片さえあれば再び体へと召喚し直せるという、いわば死人を生き返らせる魔術だ。

 それは不可能だと誰も研究はしなかったのだが、召喚士の間では実は可能かもしれないと言われていたのだ。


『ただそれを実現するためにはあと一歩理論が及んでいない。現時点で判明している理論を教えるから、ミハイルが完成させて妹を呼び戻してはどうか――』


 ミハイルが生きる意味を見いだすために咄嗟にいった方便であったが、ミハイルはそれを信じた。そしてマークから教わった未完成の『魂の召喚式』を研究し、ついにそれを完成させてしまったのだ。


 だがそれを実行するためには肝心なものが必要であった。


「必ず王室直属魔導師団に入って、あの王子の魂を奪ってやる」


 それは血縁者の魂である。召喚する魂と血の濃い魂を生け贄にすることで完成する。

 初めはドリューの魂を使おうと思っていたのだが、国王とドリューに奪われる悲しみを味合わせてやりたかった。そのため、二人の間に生まれた王子の魂を使うと心に決めているのだ。


 王室直属魔導師団の任命式は王族の眼前で行われる。そのときが最初で最後のチャンスだ。その場で術式を発動させ、王子の魂を奪ってやる。

 恐らくミハイルは殺されるだろうが、妹が生き返るのならば何だっていい。自分の命は妹を助けようと思ったときに、とうに捨てているのだ。


 ミハイルはサイドテーブルからはさみを取り出すと、ハンカチを額に当てた。そして伸びきった前髪を少しずつ短くしていく。短くなった前髪から、開けることのないつぶらな瞼が姿を現した。


「もう少しだからな。待ってろよ」


 ミハイルは可愛い妹にそう告げると、その額を優しく撫でた。


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