1-4 最初の授業は女王様のお膝元で

 職員室での手続きはいくつかの書類にサインするだけの簡単なものであったが、書類に一カ所不備が見つかりやり直す羽目になってしまった。そのせいで思いのほかに時間がかかり、魔術史の教室に到着したのは開始時刻ギリギリだった。


「ええと……。どこに座ろうか」

「早くこっち来い! 死んじまうぞ!」


 教室を見渡して空席を探していると、階段教室の左後方から一人の青年が必死の形相で手招きをしている。鶯色がかった茶色の髪を振り乱してキョロキョロと周囲を伺う青年に、ミハイルは訝しみながらもその隣へと急いだ。


「助かったよ。ありがとう」

「マダムの授業にギリギリだなんて、何考えてんだよ。ん? 見ない顔だけどもしかして……」


 呆れた顔をして苦笑いをした後、青年は顎に手を当ててミハイルを凝視する。いろいろな角度から観察してくる青年に、ミハイルはやや引きつった笑顔を浮かべた。


「僕は今日から編入してきたミハイルだ」

「じゃあお前が噂の転校生の一人って訳か!」


 先ほどの教師も言っていたが、やはり転校生はもう一人いるらしい。押し寄せる不安をかき消すようにミハイルはかぶりを振った。そんなミハイルへ訝しむような琥珀色の瞳を向けた後、青年はすぐさま笑顔に戻って右手を差し出してきた。


「俺はリアム! リアム・ヨハンソンだ。 よろしくな!」


 屈託のないその笑顔に、つられてミハイルも笑顔になった。差し出された右手へ自分の手を重ねて挨拶をしたとき、教室の空気が一瞬にしてひんやりと冷たくなった気がした。


「――せいしゅぅぅぅぅぅくにぃぃぃぃぃぃぃ!」


 どこからともなく、爪の先で金属をひっかくような甲高い金切り声が耳をつんざいた。慌てて両手で耳を覆うが、その声は脳内に直接響いているらしく、手ではその音を封じることができない。


「女王様のお出ましだ!」


 険しい顔で高音に耐えていたミハイルを見て、リアムは意地の悪い笑みを浮かべながら声を張り上げる。だがリアムの張り上げた声など、この金切り声の前ではコインを落とした音同様にわずかなものだ。当然、ミハイルは唇の動きで何かを言ったことは分かったものの、その内容までは聞き取れなかった。


 高く長く続く不協和音がやんだかと思うと、教壇の中央の空間が不自然にゆがんだ。そしてそのゆがみからまず両の腕がにゅっと姿を現した。その腕はゆがみを内側から裂いて穴を広げていく。片方の手に豪奢な扇が握られているのだが、それが邪魔をしてうまく穴を広げられていない。痺れを切らしたその腕は、扇を先にゆがみの内側からこちら側へと投げ捨てた。そして自由になった両腕でゆがみを押し広げ全身をひねり出した。


 大きなお尻がつっかえていたが、左右に身を揺らすことでなんとか抜け出す。全身があらわになったその半透明の中年女性はじろりとあたりを見回した。

 胸元の開いたロングドレスに身を包み、長く白い髪をソフトクリームのようにうずたかく巻き上げている。


 コルセットで不自然に引き締まったウエストに手を当てて仁王立ちしているその貴婦人は、周囲を一瞥した後ふんっと言って、落とした扇を拾い上げる。そしてドレスの裾を持ち上げるとほこりを払うかのようにパタパタと上下させた。左右前後にほころびがないかを入念にチェックする。動く度にコルセットで盛り上がった乳房がたゆんと揺れた。


「あれは転移魔術か?」

「そんな高度なもんじゃないさ。あの人は――」


 リアムが解説をしようとした瞬間、ミハイルから見て教壇右横の扉が勢いよく開いた。


「――すみませんっ! 道に迷って遅刻しましたぁ!」


 そのうんざりするほど既視感を覚える声と光景に、ミハイルは頭を抱え込んで現実逃避をしようとする。だが、その既視感の主がそれを許さない。


「え、ミカじゃない!? 最悪!」


 ミハイルをまっすぐに指さし、ありえないとでも言いたげに口をあんぐりと広げている黒髪の少女は、どこからどう見てもミハイルのよく知るリーシャだった。


「んま、んま、ぅんまぁぁぁぁぁあぁぁ!」


 閉じた扇を両手で握りしめていた貴婦人は、震える不協和音を響かせるとその扇をボキッと真っ二つに折ってしまった。


「やばいぞ! マダム・ヒストリックのヒステリックが来る!」


 誰かがそう叫ぶと、生徒たちは机の上にのせていた教科書や羽根ペンを急いで鞄にしまい込む。そして全部しまい終わった生徒から、頭を抱え込んで机の下に避難した。ミハイルもそれに習って机の下に潜り込む。


「え、え、なに!? どうなってるの!?」

「いいから君もしゃがめ!」


 促されるままその場で頭を抱え込んでしゃがみ込むリーシャ。うつむいている貴婦人の両肩が怒りにまかせて小刻みに上下する。生徒たちはぎゅっと目をつぶり、そのときをじっと待った。


「あぁぁぁぁたくしのレッスンに遅れてくる不届きぃぃぃいぃ者は許しませぇぇぇぇぇんことよぉぉぉおぉぉお」


 貴婦人の目が光り、巻き上げていた髪がほどけてメドゥーサのように放射状に広がる。そして同時にシャンデリアの電球六つが粉々になって割れた。その破片は空中を縦横無尽に飛び回り、壁や机に突き刺さる。


「きゃあッ――」


 思わず叫び声を上げるリーシャだったが、貴婦人の怒りはまだ収まらない。教室中に置かれているありとあらゆる物が宙を舞う。誰かがしまい損ねた羽ペンがリーシャの頬をかすめて背後の壁に突き刺さり、頬から一筋の血が流れる。持ち上がった教卓もリーシャめがけて飛んでいき、背後の壁にぶつかると大きな音を立てて霧散した。チョークは空を舞う物もあれば、黒板を撫ぜて耳障りな高音を発生させている物もある。


「――先生! 夏期休暇で先生が出された宿題を集めておきましたわ!」


 一人の女生徒が意を決したように声を上げながら立ち上がる。その声はほとんど叫び声に近かった。

 ピタッと、浮遊していた地球儀やらチョークやらが空中で静止する。そして貴婦人が女生徒の方を見た。


「――宿題?」

「ええ! きちんと全員分集めて紐を通してありますわ!」


 少女がレポートの束を掲げて貴婦人へと見せる。それを一瞥した貴婦人の髪がバサッと重力に従って落ちる。それと同時に、空中に浮いていた地球儀やチョークも床へ落ちた。


「すんばらしぃぃぃぃ! ミス・ストーンはいつも完璧ねぇ! それをこちらへよこしてちょうだい?」

「イエス、ユア・グレース」


 艶やかな赤毛を見事な縦ロールにしている少女は、ミハイルたちとは反対側の階段教室最後方から歩み出た。そして貴婦人の前にレポートの束を差し出すとそれらはふわっと持ち上がって貴婦人の目の前へと飛んでいく。手元でピタリと止まったレポート用紙をしげしげと眺め満足げに頷いた貴婦人は、空中でファスナーを下げるような仕草をする。ゆっくりと下げられていくそのファスナーに合わせて、。貴婦人が人差し指を振るとレポート用紙はふわふわとその亀裂の中に吸い込まれてゆく。完全にレポート用紙が穴に収まったのを見て、貴婦人はファスナーを閉めた。


「では座席に戻ってよろしいッ!」


 貴婦人に少女は膝を折ってお辞儀をすると、リーシャにこそっと手招きをして座席に戻る。リーシャもその少女の後について慌てて階段を上っていく。その間も貴婦人はリーシャのことを睨みつけていた。


「――マダムは激しい癇癪持ちだ。だからヒストリックをもじって学生間ではヒステリックって呼ばれてる。気をつけろよ」

「魔法を使ってたようには思えなかったけど、あの人は無詠唱で浮遊魔法が使えるのか?」


 ミハイルの疑問をリアムは鼻で笑った。貴婦人は全員が着席したのを見て黒板に向かい、人差し指を指揮棒のように振ると、チョークが浮遊して黒板に文字を書き始めた。


「ああ、違う違う。あの人は幽霊ゴーストなんだよ。さっきのはいわゆるポルターガイストだ」

「え、幽霊が教師なのか!?」


 ミハイルは目を見開いて貴婦人の背中を見つめる。その背中はやはり半透明で、黒板が透けて見えていた。


「別に幽霊を見るのが初めてな訳じゃないだろ? あの人はずっとこの世に存在してるから魔術史の教師としては最適なのさ」


 リアムが苦笑いしたとき、貴婦人はくるっと向きを変えて生徒たちを再び凝視した。そしてほつれた髪を撫でて再び巻き貝のような髪型へ戻すとにっこりと微笑んだ。その微笑は高貴な人物がみせる、とても優美なものであった。

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