<既読の妖精>

 もう日が高くなり、窓から直接光が差し込んでいないとはいえ、リビングは照明を点けなくても明るい。なんとなしに手のひらを見れば、最近落ちてきた視力をフルパワーで稼働させなくても手相が見える。手のひらの中央から少し親指寄りの位置で分かれた謎の線が手首のそばまで伸びているのがわかった。

 ソファーに伏せるように両肘をついている体勢でくつろぐ私は、手のひらをソファーの上にそっと置く。

 視線を下に向けると、私の両肘の間で米村が小さな背をこちらに向けてスマホに文字を打ち込んでいる。両手でキーを操作する様子はなかなか慣れているように見え、華奢な腕が素早く動く。力加減が適切なのか、米村の手が小さくて柔らかいためか、画面に触れる瞬間の音は耳に届く前に消える。


「うーんと」


 画面を見る米村の小さくつぶやく声がはっきりと聞こえた。

 室内はただ静かだった。テレビは朝食をとるときに見たきり消していたため、この部屋から発せられるのは空調が涼やかな風を送り出すときの微かな吐息に似た音と、ダイニングとリビングの中間の壁にかけてある時計が軽やかに時を刻む――まるで彼方に見える高い雲のゆるやかな歩調のような――音だけだった。

 窓の向こうでは遠くで蝉が鳴いているのが聞こえるが、冷房を効かせるために閉め切っているせいかもしれない。夏の熱気とがやがやした鳴き声が反対側にあることを思うと、このまま家から一歩も出る気がしない。


「よし、と」


 そう言って米村がメッセージをみこっちに送信した。

 私は上から画面をのぞき込む。


『パスタは返事がきて満足したんですね

 とてもパスタらしいのです

 みこっちさんは今日はお部屋でゆっくりですか?

 米村はそうです

 くすぐられたりして大変ですが、のんびりしてます』


 すぐに〈既読〉と表示され、みこっちが米村のメッセージを読んでいることがわかる。

 返事はすぐにきた。二つ続いている。


『すぐ返事きてうれし~

 もうね、あの既読の妖精はぜんぜん返事しないんだよ?

 既読のままスルーなの!

 米っちゃんからも言ってあげて~』

『今日は開店前から並んでゲーム買った!

 あとめっちゃたこ焼き食べた!

 それから帰って焼きそば食べた!』


 ――また妙な表情の猫のスタンプが続いている。


 誰が〈既読の妖精〉だい。

 米村が体を反らせるようにして顔を上を向けた。


「だ、そうです。ちゃんとお返事してあげてください」

「うーん、努力しよう。しかし、毎朝くる『朝ごはん食べた』に対して私はちゃんと返事できるだろうか。なぜか一日二回くるときもある」

「……それは大変かもしれません」

「わかるかい。――いや、諦めたらいけないか。なんとかスタンプだけでも返せるよう努めよう」


 みこっちは私から見て不思議な人間で、もはや妖精の仲間かと思い始めている。

 ――実家が人間界にあることは知っている。

 それでいて気づくと一緒にいるタイプなので謎が深まるばかりだ。

 ふと時計を見ると、長剣と短剣が丁度合わさり正午を回った。


「うーんと、ではお休みは米村がスマホ当番するのはどうでしょう?」

「いいの?」

「さっそく米村もスタンプを使ってみようと思います」


 米村は妙な表情の猫のスタンプを送った。

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