第十一章:失意の果てに/01

 第十一章:失意の果てに



 ――――ACM訓練があった日の、夜更け頃のことだ。

 いいや……時間帯的に、もう翌日と言ってしまった方が適切かも知れない。もう後一時間も経たない内に夜明けを迎えるような、空が東の方から既にまどろみ始めているような、そんな頃合いのことだ。

 当然、翔一は床に敷いた煎餅めいてペッタペタに潰れた予備の布団に横たわり、穏やかな寝息を立てていたのだが。しかし、キィッと戸が軋む音が微かに聞こえてきて。その後で誰かが玄関扉を開け、家の外に出て行く気配がしたものだから、翔一はそれで目を覚ましてしまった。

「…………?」

 普段なら、寝ぼけた頭では今の些細な物音も気に留めなかっただろう。しかし翔一は、今日に限って今の音と気配が気になってしまい、布団に横たわっていた格好からゆっくりと身体を起こす。

「アリサ……?」

 そうして、自分の横にあるベッド――――本来は彼の物だったはずの、今はアリサが寝起きに使っているそこをチラリと見てみると。すると、そこにあるべき彼女の姿は見当たらず。そして部屋の何処にも気配は無い。当然、部屋の外や下の階で何かをしている気配もだ。

(今のは……そういうことか……?)

 誰かが出て行く物音に気配と、そして見当たらない彼女の姿。その二つの事象が示すことは……たったひとつで。そしてきっと、この推測は間違ってなんかいない。

 翔一はこれらの事実から、彼女が――――アリサが、何を思ってかこんな夜更け、いいや夜明け前に家を出て行ったのだと判断した。

 それでも、普段ならばそこまで深刻には考えなかっただろう。彼女には何か出掛けなければならない用があったりだとか、或いは統合軍の関係で蓬莱島に出向かなければならなくなったとか。きっとその辺りの理由なのだろう……と、普段の翔一ならば考えたはずだ。

 だが、今日の翔一はそうではなかった。

 単純に気掛かりだったのだ、彼女のことが。考えてみればアリサ、ACM訓練が終わった辺りから少しだけ様子が変だったような気がする。少しだけ、ほんの少しだけだったから、その時は翔一もきっと疲れているのだろうと思っていたが。しかし……どうにも引っ掛かるのだ、あの時のアリサのことが。奇妙なまでに深い影色を差していた、そんな彼女の横顔を思い出すと……どうにも、引っ掛かって仕方がない。

 そのことを思うと、アリサのことを思うと。翔一の身体は未だ寝ぼけた頭で考えるまでもなく、自然と動いていた。

 布団から起き出し、手早く身支度を整える。とりあえず軽く顔を洗って目覚まし代わりの気付けにしてから、いつもの私服へサッと着替える。履き古しのジーンズには最低限の紙幣やらを適当にポケットへ突っ込んでおき、着慣れた黒いTシャツの上から、蒼く裾の長いパーカージャケットをバッと羽織る。邪魔な袖は肘上辺りまで折り曲げてしまい、手にはバイク用の黒革の指ぬきグローブも忘れずに、だ。

 左手首に巻いたメタルバンドの頑丈な腕時計に一瞬チラリと視線を落とし、三本の針が刻む時刻を確認してから。翔一は自室のデスクの上へ雑に放ってあったキーを掴み取り、足早に家を出る。

 そうして向かう先は、やはりガレージだ。閉まっていたシャッターを開け、その中に収まっていた相棒……渋いネイキッド・スタイルの蒼いバイク、一九九九年式スズキ・イナズマ400にキーを差し込み、セルモーターを回して油冷エンジンに火を入れる。

 スターターを回してやると、こんな時間に叩き起こされたせいか……少しだけグズりもしたが。しかし翔一の渋い面持ちに彼女もまた何かを感じ取ったのか、イナズマ400はあるじの期待に応えんと目を覚ました。低く唸るような油冷エンジンの音色が、ガレージの中にズッシリとした重量感を伴って木霊する。

 何だかんだと年代物に片足を突っ込んでいるバイクだ。普段ならば、じっくりとエンジンを暖めてやるところだが……アリサのことが何よりも気掛かりだから、暖機運転は必要最低限の時間で済ませる。

 そうして相棒を急かした翔一は、イナズマ400をガレージの外に押し出して。さあ出ようと、シャッターを閉めようとして開いているシャッターに手を掛けた……のだが。

「…………」

 そうした時、彼はふと眼が合ってしまったのだ。暗いガレージの中でひっそりと息を潜める、黒く大柄なボディと。一九六九年式のダッジ・チャージャーR/T――――アリサの、愛車と。

 広く暗いガレージの中で息を潜めるチャージャーは、何処か寂しそうに翔一の眼には映っていた。連れ添った相棒を欠いた彼女の姿が、何処か寂しげで。そして同時に、彼に訴えかけているようにも思えたのだ。彼女を……アリサのことを、頼むと。まるで自分に、そう告げているかのように。

「……アリサが何を思って出て行ったのかは、僕にも分からない。けれど……このまま放ってもおけないよな」

 ――――だから。

「僕が必ず見つけ出す。見つけ出して……一度、話を聞いてみるよ。僕に何が出来るのかは、分からないけれど。それでも……動かないよりは、ずっと良い」

 翔一は独り言を呟くように、しかし確かに答えを告げるかのように……目の前に佇む彼女の相棒に、そっと語り掛け。そうして、今度こそガレージのシャッターを閉める。

 ドロドロドロ……と低いアイドリング音を奏で続けている相棒、蒼のイナズマ400に跨がり、引っ掛けておいたフルフェイス・ヘルメットを頭に被る。少し長めな深蒼の髪をすっぽりとヘルメットで覆い隠してしまうと、翔一はサッと左手でバイザーを下ろし。そして何度か軽く空吹かしをして相棒の具合を確かめてから……スタンドを蹴り飛ばし、ギアを入れ。乾いた唸り声を上げさせると共に、猛然とした勢いで走り出していく。

「…………僕に、出来ることがあるのなら」

 もしかしたら、彼女からしてみれば余計なお世話かもしれない。要らぬ気遣いなのかもしれない。こんなこと、アリサは全く望んでいないかもしれない。放っておいて欲しいのかもしれない。独りにしておいて欲しいのかもしれない。翔一になんて……関わって欲しくないのかもしれない。

 それでも、もし自分に出来ることがあるのなら。ほんの少しでも良い、些細でも構わない。彼女に対して……アリサに対して出来ることがあるのなら。自分が何か、彼女の力になってやれる、その可能性がゼロでないのなら…………それだけで、走り出す理由になる。

 桐山翔一は、そういう男なのだ。どうしようもなくヒトがくて、冷たくなりきれなくて。ただただ真っ直ぐな……そういう人間なのだ、彼は。今日日きょうび珍しすぎるぐらいに純粋で、真っ直ぐな心の持ち主。それが――――彼なのだ。

「余計なお世話だったなら、派手に引っぱたいてくれれば良いさ。……それならそれで、十分だ」

 夜明けを間近に控えた街の中、未だ眠りのまどろみに漂い続ける天ヶ崎市の中を、彼と……彼を乗せた蒼の愛馬が駆け抜けていく。テールランプの赤い軌跡と、乾いた油冷エンジンの甘美な音色だけを後に残し。冷えたアスファルトを切り裂き、風を切って走り抜ける。ただ真っ直ぐに、彼の心を体現するかのように。

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