真夜中の古事記 131話から140話

【登場人物】


氷川航(ひかわわたる)

45歳。最近、ホテルの夜間フロントのアルバイトを始めた。新人なのにおじさん。

家族はフルタイムで働く妻と小学1年生の娘がいる。


浅間陽(あさまひなた)

33歳。大学生の頃からホテルのフロントで働いている。趣味はスポーツ観戦。特に欧州サッカー好き。給与は手取りで18万円程度。同棲中の聖と結婚したいが低収入で決断に至らない。


橘聖(たちばなひじり)

29歳。陽の恋人で2人は同棲している。陽の同僚で日勤専属で働いている。


我孫子南(あびこみなみ)

関西を中心に古事記を広める活動をおこなっている。


五十嵐さん

45歳。ホテル業一筋23年。急遽上司が異動になり、とんでもない仕事量を抱えることになる。真面目人間。航の採用面接時の面接官の1人でもある。


米澤さん

58歳。入社以来36年間、総務課で働いていたが、2カ月前に急遽フロントへ異動してきた。


掛川さん

社会人3年目の若手フロントマン。電車が好き。

後輩の河村ちゃんに恋心を抱いている。


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「うわー、古事記ってなんなんだ!?


なほほんのこの感動はなんなんだ!?」


あたしもこなんさんに会いたいわー!!


ぬおーーー」


聖は立ち上がって頭をかきむしった。


「…聖、落ち着けって…。


でも、奈帆ちゃんのこのメッセージ。


なにかをつかんだというか、確信めいたものに触れたのかもしれないね」


聖はコクコクと繰り返し頷いた。


「うーん、それに比べて我々は…


古事記の冒頭から躓いておる。


このままでは、なほほんとの距離は広がるばかり…


ヨウ!絶対こなんさんのお話会に行こうね」


「そうだな。忘れずに休みの希望を出そうな」


聖は少し驚いた顔をした。


「ヨウ、本当に積極的だね」


「そっか?」


そう答えると陽は時計を見た。


「うーん、まだ早いかな?」


「え?なにが?」


「氷川さんに送るメッセージだよ」


聖は目をキラキラさせた。


「忘れていたでござる!


我らには氷川さんがいるのだ!


西のあびこなん!


東のひかわん!


待っておれよ、なほほん!!」


「ひかわんって誰だよ…


そんなこと言うとさすがに怒られるぞ」


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21時30分


ピリリリピリリリ


「時間か…」


夕食後、1時間ほど眠った。こういった小さな睡眠が意外に大切だったりする。


航はスマホのアラームを止めた。


「おや?」


スマホに新しいメッセージが届いていた。


「浅間さんか。


仕事のことかな?」


航は陽からのメッセージを開いた。


21時35分


ブルルブルル


枕元に置いたスマホが震えた。浅い眠りに入りかけていた陽は一瞬で覚醒し、すぐスマホを手に取った。


メッセージの差出人は航だった。


「おい、聖…」


そう言いかけて陽は慌てて口を閉じた。聖は隣で静かな寝息を立てていた。


陽は聖を起こさないよう静かに寝室を出て、リビングへ移動した。照明を点け、冷蔵庫から発泡酒を一本取り出し、ソファに腰掛けた。


プシュ


「浅間さん


メッセージありがとうございます。


古事記の冒頭部分はつまずく人がとても多いと思います。最初にぶつかる古事記の壁ですね。


神様の名前は覚えなくて大丈夫です。とりあえず、『だんだんと世の中の成り立ちが出来ていったんだなー』くらいの認識で良いと思います。そのまま読み進めてください。


今度、機会があれば解説しますね。これから夜勤です。


おやすみさない。


氷川」


陽はすぐに返信した。


「ありがとうございます。


お仕事がんばってください」


陽はソファに置いてあった「古事記まんが」を手に取るとページを開いた。そして自分なりに整理してみた。


「つまり…たくさんの神様が生まれ世の中の成り立ちが整い、最後にイザナギとイザナミが生まれた。


こういう解釈で良いってことかな?」


そして、発泡酒を一口飲んだ。


「イザナギ、イザナミ…


どこかで聞いたことのある名前ではあるな…」



陽の眠気は完全に吹っ飛んでいた。陽は続きを読み進めることにした。


陽は「古事記まんが」を読み進めた。


「えーっと、なになに?


イザナギとイザナミはドロドロした地上を整えるように命じられ、矛を渡された?


つまり、世の中の成り立ちは出来てきたけど、まだ地上は固まっていなかったということなんだろうな。


でも…矛でどうやって地上を整えるんだろ?」


陽にはその理屈がわからなかったが、イザナギとイザナミはドロドロした地上に矛を突き刺しグルグルとかき混ぜた。


そして、矛を抜くと先端から雫が滴り落ち、やがて固まりオノコロジマが誕生した。


「オノコロジマ?


ま、地球のことだと思えばいいのかな?」


イザナギとイザナミはオノコロジマに降りるとまず柱を立てた。柱を立てることで2人は天界の神と繋がることが出来ると「古事記まんが」には書かれていた。


「あ?そういえば…


龍橋神社の巫女さんが「ハシ」という音は繋ぐという意味があると言っていたな…。


だとすると、ハシラは神様と繋がるということなのかなぁ」


その後、イザナギとイザナミはそれぞれの身体を観察していた。


「え?なにこれ?」


イザナギはには出っ張った部分があり、イザナミにはへこんだ部分があるという。そして話し合いの末、イザナミの凹みをイザナギの出っ張りで塞ぐことになったと書かれていた。


「こ、これ…


つ、つまり、そういうことだよな???」


陽はその赤裸々な内容にびっくりした。


「こんなの子供に読ませられないだろ?」


2人は柱を回り、出会ったところでイザナミが声をかけた。「なんてステキなイケメンなんでしょう」。それに答えるようにイザナギが言った。「な、なんて可愛い女の子なんだ」


そして2人は結ばれた。しかし、生まれてきたのはグニャグニャとした不完全なヒルコや泡のように消えてしまう泡島だった。


「うーん、こりゃ前途多難なようだな」


陽は呟いた。そして「古事記まんが」を読み進めた。


イザナギとイザナミはこの世の成り立ちを支える宇宙の神々に相談した。


すると宇宙の神々は占いをおこなった。


陽は笑った。


「神様が占いに頼るって…いったいその占いに答えるのは誰なんだろ?


それにしても…


なんかこう…頼りない神様たちだよな。普通、神って絶対的な存在じゃないのかな?」


神々が占いをしたところ、不完全な子が生まれるのは「女性であるイザナミが先に声をかけた」からのが原因らしい。陽は思った。


(原因らしい…か。明確ではないわけだ。


それにしても、この記述…男尊女卑ってやつだよな?)


女性から声をかけてはいけない…今でこそ男女平等が世間では当たり前の風潮になったが、昔は…特に古事記が書かれたような古代には男女差別が顕著だったのだろう。


「あれ?そういえば…」


陽は呟いた。


「少名彦コーヒーで氷川さんが言ってたな。


確か「プロポーズは男から。それが自然の摂理」だって。


氷川さん、このことを言っていたのかなぁ…


つまり、この事象をオレは男尊女卑と捉えたけど、氷川さんはそうは捉えなかったわけだな、きっと。

「結局…


聖に言い出すタイミング逃しちゃったなぁ」


軽い自己嫌悪に浸ったのち、陽は古事記まんがを読み進めた。


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22時45分


「おはようございます」


航は出社した。フロントバックに入ると、すぐに五十嵐さんが近づいてきた。


「氷川さん、ヨネさんが体調を崩しちゃって。代わりに今日は私が勤務に入りますから」


「え?米澤さん、大丈夫なんですか?」


「大したことはないみたいなんですけど、大事をとって休んでもらいました」


「そうですか。五十嵐さんも大変ですね。無理しないでくださいね」


「ありがとうございます。私は大丈夫です」


その時フロントから掛川さんが顔を出した。


「氷川さん、今夜もよろしくお願いします。


引き継ぎやりましょうか?」


「はい、よろしくお願いします」


今日も長い夜が始まった。


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1時15分


「掛川君、先に休憩に入っちゃっていいよ」


五十嵐さんはパソコンの画面から目を離さずに言った。


「大丈夫ですか?


五十嵐さん、お昼からの勤務ですよね?


僕は夕方からだから、五十嵐さんが先の方が良くないですか?」


「うん、キリのいいところまでやっちゃうからさ、先に休んで」


「…わかりました。じゃ、先に休憩入ります」


「お疲れ様です」


航が掛川さんに声をかけると、彼はぺこりと頭を下げて出て行った。


航は五十嵐さんと勤務で一緒になるのは2回目だった。彼は基本的に昼間のシフトにしか入らない。今回のように病欠が出たり、どうしても人が足りない時に夜勤に入ることがあった。


カチャカチャカチャカチャ


五十嵐さんはひたすらパソコンと向き合っていた。


「あーー、もう!」


五十嵐さんは時折、大きな声を出した。


航は気を使い、五十嵐さんに話しかけるようなことはしなかった。航は自分のやるべき業務を淡々とこなしていった。


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2時05分


ひと通り業務を終えた航は静かに椅子に座っていた。航は時計を見た。遅い、時間が流れるのがとにかく遅い。そこにいるのが息苦しいくらいだった。


「氷川さん」


突然、五十嵐さんが声をかけてきた。


「は、はい?」


「業務が終わったら休みに入っちゃっていいですよ」


五十嵐さんは目をこすりながら言った。たしか航と同い年のはずだっだが、目が窪み、肌は乾燥し年齢以上に老けて見えた。


「五十嵐さん、大変そうですね」


航は思わずそう言っていた。


「ははは。


ヨネさんのことは予想外でしたが…


でも、帰れなくなったおかげで仕事が捗りますよ」


五十嵐さんは自嘲気味に笑った。そしてそれがスイッチになったのか堰を切ったように話し始めた。


「答えのわかる仕事なら、例え大変でもそれほど苦にはならないんですけどね。


相談できる相手もいないし、正直、参っています。


三木部長は、私に東大を受験しろと言ってるようなもんですよ。


三木部長のような切れ者がなんでこの組織にいるのか…私にはわかりませんよ。


ああ見えて、氷川さんと大して年齢変わらないんですよ」


その言葉は少し嫌味がかっていた。しかし、航は五十嵐さんが抱えているプレッシャーを察した。そして、アルバイトの自分は気楽なものだなと思った。


五十嵐さんは言った。


「すみません。ちょっと八つ当たりみたいになってしまいましたね。


さ、氷川さん、休憩に入っちゃってください」


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失敗続きのイザナギとイザナミだったが、宇宙の神様のアドバイス通り「男性であるイザナギから先に声をかける」と事態は好転した。


まずイザナミは日本の国土となる島々を産んだ。これを「国産み」というらしい。


「ははっ


島を産んじゃうなんて…


ちょっと想像できないな。


ふーん…四国は4つの顔がある神様なのか」


陽は島が神様という発想に驚いた。そんなことを考えたこともなかった。


「あっ、そういえば…


広末さんが高杉晋作の話をしていたな。


確か長州藩が下関の戦争で外国勢に負けて、領土を差し出すように要求されたけどゴネ通したって話だったな」


その時、高杉晋作がそらんじたのが古事記だと広末さんは言っていた。島々が神様だとしたら…


「神である島を渡すわけにはいかない」


陽は高杉晋作のそんな気持ちが少しだけわかるような気がした。


「まぁ、オレにはそんな根性はないけど。


争うくらいなら渡しちゃった方がいいかな。


そうすれば平和なんだからさ。


もしかしたら、神様もその方が喜ぶんじゃないかな?」


「国産み」を終えたイザナギとイザナミは、次に「神産み」をおこなった。


石や土や砂…


門や屋根や建物…


そして風。


海や川、泡や水面。


木に山に野原。


「うーん、この神様の多さはどうしたもんかな…」


あまりの多さに陽は神様の名前を覚えるのは諦めた。そして、とりあえず先を読み進めることにした。

そして事件が起きた。


火の神を生んだ際、イザナミは大火傷を負ってしまったのだ。


「えっ、なにこの展開?


どんだけ親不孝者なんだよ、コイツ」


大火傷を負ったイザナミは病に伏した。するとイザナミの吐瀉物、尿、便からも神様が生まれた。


「・・・・・


なんだ、この汚い話…


ゲロが鉱山の神、おしっこが水の神、ウンチが土の神になりました…だって?


なんとも受け入れがたい…」


横たわるイザナミを前にしたイザナギの動揺っぷりは尋常ではなかった。イザナミの枕元で足元で腹ばいになって心配したと書かれていた。


「ぷっ、なんだこれ?


イザナギ、動揺しすぎだろ?


それでも神かよー

でも、もし、イザナミが聖だったら…」


動揺するイザナギの姿を最初は情けなく思っていた陽だったが、少しずつ感情移入するようになっていった。


陽は首をブンブンと横に振った。


「聖がイザナミだなんて…


そんな縁起でもないことを考えるのはやめよう」


陽がさらに読み進めると、イザナギの看病も虚しく、ついにイザナミは死んでしまった。


「え?そうなの?


死んじゃうの?


助からないの?


イザナミ、神様なのに死んじゃうの?」


陽には神様が命を落とすという展開が意外に思えた。


愛する妻イザナミを失ったイザナギの瞳から涙が流れた。その涙にはナキサワメという女神の名前が与えられていた。


「おお、コレなんかいいかも。


涙も女神なんだー


うん、このセンスは好きだな、オレ」


やがてイザナギの悲しみは、イザナミの生命を奪った火の神・ヒノカグツチへの怒りと変わった。


イザナギは腰に収めた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜くと、カグツチの首を斬り落とした。


「ちょっと…イザナギさん?


いくらなんでも…


子供を斬り殺しちゃうって…」


陽はその展開に衝撃を受けた。


「まぁ奥さんの命を奪ってるわけで…


オレ、この火の神は好きになれないなぁ。


…にしても斬り殺さなくても良いと思うんだが…」


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22時50分


「ありゃ、もうこんな時間か…


神様の名前に引っかかって思いのほか読み進められなかったなー。


先も気になるけど、キリも良さそうだし。今日はここまでにしとくか」


陽は古事記まんがを閉じた。


「氷川さん、そろそろ仕事だな…」


陽はスマホを手に取ると、航にメッセージを送った。


そして残りの発泡酒を飲み干し寝室に戻ると、聖を起こさないようにそっと布団に潜りこんだ。


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02時15分


航は休憩に入った。スマホを見ると陽からメッセージが届いていた。


「氷川さん、お疲れ様です。


とりあえずイザナギが火の神を斬り殺すところまで読み終えました。


夫婦で島を産んだり、神様の名前がやたら多かったり、ゲロやおしっこから神様が産まれたり、そして我が子を斬り殺しちゃったり…となかなか受け入れがたい展開ですが、続きが楽しみになってきました。


お仕事頑張ってください!!


浅間」


航はメッセージを読み嬉しくなった。陽が古事記の世界に触れていることがとても嬉しかった。


航はすぐに返信をしようと思ったが、時間が時間だけに自粛した。


「さぁ身体を休めないと」


航は目を閉じて短い睡眠に入った。


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仮眠を終え、フロントバックに戻ると五十嵐さんと掛川さんの姿があった。


掛川さんが五十嵐さんに声をかけていた。


「ほら、氷川さん戻って来ちゃいましたよ。


五十嵐さん、休まないと本当に倒れちゃいますよ」


「うーん、わかったよ。


じゃ、ここだけ終わったら…」


そう答えてから10分ほど作業を進めると、五十嵐さんはようやく手を止め腰を上げた。


「じゃ、1時間後に戻ってくるから」


そう言うと、五十嵐さんは休憩に向かった。


五十嵐さんが姿を消すと、フロントバックには航と掛川さんの2人になった。


「五十嵐さん、お昼の11時から勤務してるんですよ?


なのに全然休もうとしないんです」


「五十嵐さんの立場だと、どれだけでもやることはあるでしょうね」


航は自身がサラリーマンだった20代後半の頃、終わりの見えない仕事の量に追いかけられていたのを懐かしく思い出した。


「ところで氷川さん!」


掛川さんは嬉しそうに切り出した。


「当たったんですよ!


『幸せに生きる!大富豪の導きセミナー』の無料招待に!!」


(だろうなぁ)


そう思った航だが顔に出さないように言った。


「掛川さん、良かったですね」


「はい、めっちゃラッキーです。


やっぱりここにいたら、将来への希望が持てないので。


成功者の話を生で聞けるのが楽しみです」


「何か良いきっかけになるといいですね」


掛川さんは言った。


「こんなこと言うのもなんですが…


最近、向上心のない先輩たちを見て不思議というか…物足りないというか。


特に米澤さんには正直イライラします。なかなか仕事を覚えてくれないし、同じミス繰り返すし…なのに給料めっちゃいいんですもん。


僕なんてずっと給料据え置きだし、この先上がるとは思えません。はっきり言って不公平ですよ。


それにあの人…いつもお酒臭いんですよ」


航は黙って聞いていたが、彼の言うこともわからないでもないと思った。


掛川さんはまだ21歳。若い彼には歳をとるということが想像出来ないのかもしれないし、不満を持つのも当然かもしれない。


自分が若い頃、年配者にどう接していただろうか?


航は掛川さんの話を聞きながら、自身が20代の頃を思い出そうとしてみた。

あの人は当時…60代だっだたろうか?


髪型を叱ってくれたあの人はまだ元気だろうか?


みなとみらいにシーバス釣りに連れて行ってくれたあの人は元気だろうか?


ビリヤードを教えてくれたあの人は?


怒鳴り合いの喧嘩をしたあの人は?


航の脳裏には次々と懐かしい顔が浮かんでは消えていった。


(皆さん、色々なことを抱えて生きていたんだろうな)


まるで昨日のことのようだけれど、あの頃からもう20年が経過していた。


(西口さん、元気にしているだろうか?)


航の脳裏に一人の男性が浮かび上がってきた。


航は20代前半の頃、ホテルの警備の仕事をしていた。夜勤があり、拘束時間も長く、生活のリズムはめちゃくちゃだった。


けれど、同年代の若い同僚が多く、今思うと楽しい日々だったように思う。若かったからだろう、夜勤明けで平気で海に遊びにいったりもしていた。


その現場の責任者が西口さんだった。年齢は今の航と同じくらいで40代半ばだったはずだ。


西口さんは国際結婚をしており、相手の女性はチリ人で、妻と愛娘を置いて一人で日本に帰ってきていた。


チリでバーを開業したがうまくいかず借金を抱えている…なんて噂も耳にした。


西口さんは気さくな人で、若いスタッフとも壁を作ることなくコミュニケーションを取るタイプだった。


航も20歳も離れているのに平気で冗談を言ったりした。今思うと少し失礼だったかもしれない。


ただ、西口さんはとにかく酒癖が悪かった。


土気色の顔をし、目を充血させ、手を震えさせながらフラフラになって出勤するのは日常茶飯事だった。


若かった航は出勤と同時に休憩室のソファに倒れている西口さんをよく責めた。


そんな時、彼は言った。


「日本は酒に寛大な社会なんだよ」


航はそんな無責任な言葉に腹を立てたが、やがて酔いが覚めると二人の関係は修復し、気持ちよく仕事をする関係に戻るのだった。


若いスタッフたちはそんな西口さんを見て陰では「酒口さん」などとからかってはいたが、その言葉には親しみが込められているように思えた。


航は入社して3年目に入った25歳の春過ぎに、異動になり現場から内勤になった。それに伴い勤務先も変わり、それ以来西口さんに会うことはなかった。

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真夜中の古事記~陽と航~ @kojikista88

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