真夜中の古事記 31話から40話

「実際のところ、立ち会ってみていかがでしたか?」


陽は自分の将来と重ねて、航に質問した。


「たぶん浅間さんは彼女さん想いだし、感動的なものを求めてるのかもしれないけど…


個人的には微妙ですね…」


「び、微妙???」


航は笑みを浮かべながら言った


「はい、微妙です。


病院に行って産まれそうだねってなると、最初に陣痛室に連れて行かれます。あ、これはあくまで僕の経験ですからね。


で、たくさん部屋があって、もちろん見えないけど周りにも同じような夫婦がいるわけです。


色々な声が聞こえましたよ。苦しそうな声や…それこそ悲鳴とか。


となりの部屋からは「順調だね」「うん、もうすぐだね」なんて微笑ましい会話が聞こえていましたね。


うちの奥さんもやがて陣痛がはじまって…


真夜中の1時くらいだったのかなぁ…


ウトウトする→奥さん痛がる→身体さする→ウトウトする…の無限ループみたいな。意識朦朧としてましたよ。もう終わってくれーって。


そうやっていつのまにか朝を迎えるんです。


で、いよいよとなると分娩室へ移動。


そこで娘が誕生するわけですけど…」


陽は前のめりになっていた。


「なんていうのかな…


これ、男はここにいちゃいけないんじゃないかって思いました。


女性の…女の世界だなって」


「女の世界?」


「そうですね…なんだろうな???


見ちゃいけないもの見ちゃった、みたいな。


男にとっては神聖すぎるのかもしれない。


一緒にいても何もできない。無力でしかない。


それに、


ヤマサチもトヨタマビメの出産を見たからあんな目にあっちゃったし…」


「え?ヤマサチ?トヨタマビメ?


なんの話です???」


「あ、いやいや、こっちの話です


それで、娘を初めてみたときの感想は…


でかっ


って感じで。全然感動的じゃないでしょ?」


「でかっ…ですか???」


陽は顔を少し引きつらせながら航の話を聞いていた。


「あ、そうそう


僕ね、病院での出産に猜疑心があったんですよ」


「猜疑心?」


「いや、僕のクセというか…ちょっと世界を疑って見るクセがあるんですよ、昔から。


当時、病院っていうのは医者の都合で陣痛促進剤を使ったり、安易に帝王切開を選択する、と思っていました。


生まれたらすぐに母子は引き離され、子供は誕生と同時に隔離され、それが一生のトラウマになる…


でもそんなの不自然だ、絶対自然分娩がいいし、生まれたての赤ん坊を母親と引き離すなんておかしい。それに妊婦は病人じゃないぞ!


そんな風に思っていました」


「はぁ?陣痛促進…?自然分娩???」


陽は聞いたことのない言葉ばかりでどうしてよいかわからず、そのまま続きを待った。


「でも、そんなことなかったんです。


娘を受け取ってくれた看護師さんはね、娘のことを祝福してくれていました。少なくとも僕にはそう感じました。


そして、赤ん坊を母親に渡し…娘は母親の胸の上でしばらく気持ちよさそうに、完全に安心したように目を瞑っていました。


これ、カンガルーケアって言うんですけど、正直なところこんな時間作ってくれると思ってなかったんですよ。


そうやって、しばらくとてもゆったりとした穏やかな時間が流れていました。世界は僕が思ってるよりずっと優しかった。、


そのあとね、看護師さんに「胎盤持てますか?」って言われて。


「持てますか」って言われても、見たことも持ったこともないし。


で、「持てます」って見栄はってね、持ちましたよ、胎盤」


「胎盤…ですか」


陽には想像がつかなかった。


「その後は僕だけ分娩室をでて、しばらく廊下のソファかなんかに座ってました


そしたらね、また陣痛室から声が聞こえてきたんですよ」


「え?声が?誰の?」


「「今、あんた寝てたでしょっ!!」「いや、寝てないって」ってね。


昨晩、「順調だね」って話してたご夫婦の声だったんです。不謹慎だけどおかしかったですね。ぜんぜん順調じゃなかったという…」


陽も思わず吹き出してしまった。


その後、看護師さんだったと思うんですけど、娘を連れてきて僕に抱っこさせてくれて…


それを見ていた掃除のおばさんが「かわいいわね」「パパそっくりね」って。


僕はどこがだよっ!って思いましたよ。


娘は僕の腕の中で静かに寝ていました。


あの顔は今でも忘れないなぁ


でも、その時もね、嬉しいって言うのはなくて…恐怖しかなかったです」


航の出産体験談を聞いた上で、陽は改めて質問をした。


「氷川さんは出産には立ち会わないほうが良かったと思ってるんですか?」


航は少し考えてから言った。


「うーん、、、


答えになっていないと思いますけど、やっぱり微妙…ですね。


今でも、妻と出産の時の話をすることはあります。


妻はね、出産の時の記憶、ほとんどないそうなんですよ。だから、娘誕生の記録係として多少は役に立ってるのかな?なんて思わなくもないし。


まぁ僕は立ち会った側の人間ですから…立ち会っていない人の気持ちはわからないから。立ち会わないと…ほら男は自分が産むわけじゃないから実感がわかないのかもしれない。


でも、やっぱり僕は…見ちゃいけないものを見ちゃったって気持ちはありますね。


でも、そこにはやっぱり、相手の気持ちもあるし。産むのは女性ですから。


不安だから立ち会って欲しいという人もいれば、そんな姿見せたくない、と思う人もいるだろうし…」



「どっちがいいんだろうか?」


陽はそれを聞いて考え込んでしまった。


「ちょっとちょっと、浅間さん。


別に近いうちに出産を控えてるわけじゃないでしょう?


今からそんなに深刻にならなくても…」


航が笑いながら言った。


「あ、そうでした!


僕、まだ結婚もしてないんだった」


航と陽は2人で笑った。


「そうですよ、これからゆっくり決めていけば良いんです」


----------------------------------------------------------------------------


ガチャ!


ドアが開き、フロントバックに誰かが入ってきた。


「おはよー


なんか盛り上がってるじゃないの?」


仮眠を終えた朴さんが戻ってきた。


陽は時計に目をやった


「あ、もうこんな時間。


そろそろ団体のお客さんが降りてきますね」


陽、航、朴さんの3人はフロントに並んだ。


やがて…


2台のエレベーターは休むことなく上下運動を繰り返した。


ロビーには多くの外国人が姿を見せはじめていた。その人数はみるみると増えていった。


ほとんどはジャージ姿で、背中にはJamaicaとかGermanyと書かれていた。


チェックアウトは選手自身でなく、付き添いの担当者がおこなった。彼らは流暢な日本語を話したので英語が出来ない航でも特に問題はなかった。


チェックアウトが終わると、朴さんは選手たちに英語で明るく声をかけていた。


陽も朴さんほどではないが、彼らに声をかけていた。陽はもともと英語が好きだったし、大学時代には短期留学の経験もあった。


航は2人を横目で見ながら、ただ黙っていた。


しばらくすると、朴さんが陽に話しかけた。


「素敵ね。あのスラッとした身体。


足は長いし、顔は小さいし。さらにスポーツで鍛えてるんだもんねー


短距離の選手かな?


お尻ってあんなに上にあるものだったかしら?」


陽は同調した。


「ホントだよね、同じ人間とは思えない。


僕ら日本人…いや、アジア人とは違うねー」


その言葉に朴さんは噛み付いた


「あら?韓国人だってスタイルいいでしょ?」


陽は助けを求めるように航に話を振った。


「ひ、氷川さん、あの人たちカッコいいですよねー


次に生まれるときは、僕もあんな風に生まれたいなー。ね、氷川さん?」


航は微笑みなら言った。


「確かにカッコいいですけど…


僕は絶対、日本人がいいですね。


生まれ変わりがあるとしたら、


何度でも日本人に生まれたい」


その言葉には力強さがあった。


「何度でも?まじですか?


僕は絶対ヨーロッパとかアメリカがいいなー


日本ってなんかこう…世界に通用しないっていうか。それはサッカーも音楽も、もちろん、体型も。


性格も真面目だし。真面目というか暗いというか…


なんでしょうね、自信がないというか。やたらとペコペコするし。


特に男なんて、社会に出たら一生働き蜂のように働いて死んでいく。夢も希望もない。


幸福度ランキングでしたっけ?あれもめっちゃ低いんですよね。政治も腐ってるし、自殺も多いし。


僕は日本に生まれて…いや、日本人で良かったなんて思ったこと、一度もないなぁ」


陽のつぶやきに言葉を被せてきたのは朴さんだった。


「ヨウちゃん、日本って良い国だよ…」


朴さんの声はどこか寂しそうだった。そしてスイッチを切り替えるように明るく言った。


「私は生まれ変わるなら関西人がいいな。


スタイルのめっちゃ良い関西人!


それから、ヨウちゃん、働き蜂って働いてるのメスだからね。オスの働き蜂は働かないから。働かない蜂…」


「え?オスの働き蜂って働かないの?知らなかった。


っていうか、朴ちゃん、すでに関西人じゃん」


「スタイルもいいでしょ?


ズギュュューーーン!!」


そう言いながら、パクさんはなぜかジョジョ立ちを披露した。


ガチャ


その時、ドアが開いた。


「おはようございます」


入ってきたのは聖だった。


陽は時計に目を向けた。


07時45分


(もうこんな時間…)


今日はやけに時間が経つのが早く感じられた。


------------------------------------------------------------------------------



08時10分


航は更衣室に入るとスマホをチェックした。するとSNSを通じてメッセージが来ていた。


「先日、ビジネス交流会でお会いした江本です。氷川さんのプレゼン、面白かったです。私は古事記のことはわからないのですが、ご紹介したい人がいます。平日の19時過ぎくらいでお会い出来る日はありませんか?場所は東京駅近くだとありがたいです。ご連絡お待ちしております。江本」


相手は吉川さんの紹介で参加したビジネス交流会で名刺交換した江本さんだった。航は記憶を辿った。


「たしか…まだ20代前半の爽やかな好青年だったな」


航はすぐに手帳を開いた。


「東京なら…夜勤があってもギリギリ間に合うだろう…」


スケジュールを確認すると、すぐ江本さんにメッセージを返した。


----------------------------------------------------------------------------



10時15分


「では、失礼しまーす」


引き継ぎを終えると陽は更衣室に向かった


制服からラフな私服に着替える。


「氷川さんと話できて楽しかったな。だいぶ親しくなれた気もするし。


氷川さんって意外としゃべるんだなー。次回、一緒にシフト入るのも楽しみだ」


陽は通用口から外に出ると駅に向かって歩き出した。


----------------------------------------------------------------------------


11時05分


帰宅した陽は、そのままベッドに潜り込みたかったが思いとどまった。


冷蔵庫を開け、ラップされたカレーとご飯を取り出し電子レンジに放り込む。


チーン!!


皿に盛り付けると、再び冷蔵庫を開け麦茶を取り出そうと手を伸ばす。しかし、手に取ったのは発泡酒だった。誘惑に負けた。


プシュッ!!


「いただきまーす」


陽は左手でスマホを操作しスポーツニュースをチェックしながら、右手に持ったスプーンでカレーをかきこんだ。


「うまうまい。聖のカレー、うまい」


誰も聞いていない独り言。


左手の親指でスマホの画面をスクロールさせていると驚きのニュースが目に入った。


「マジかよ…」


18歳になったばかりの日本人サッカー選手がスペインの名門クラブに移籍すると報じられていた。


飛ばし記事だろう?と思ったがどうやら正式に決まったようだ。


彼のことは注目していたし応援していたが、陽は自分の人生と比較し、なんとも言えない虚無感に襲われた。


(これが同じ人間だろうか?)


彼は18歳にして俺の一生分より価値のある生き方をしている。いや、一生どころじゃない。18年で俺の1,000年?いや、もっと価値のある生き方をしているかもしれないと思った。


(俺は33歳にもなって何をやっているんだ…)


一気に食欲がなくなってしまった。陽はカレーを3分の1ほど残し、ラップをかけ冷蔵庫にしまった。


(俺が聖のカレーを残すなんて…重症だよ)


一気に発泡酒を飲み干して、そのままベッドに転がると、あっという間に深い眠りに落ちた。


------------------------------------------------------------------------------


ブルルルルルルル


「ん?」


陽は走り去るバイクのエンジン音で目を覚ました。


「郵便屋さんか…」


時計を見た。


17時05分


「やべ、もうこんな時間!!掃除機かけとかなきゃ」


18時すぎには聖が帰ってくる。陽は掃除機をかけ、洗濯物を取り込んだ。


「あ、そういえば郵便屋さん来てたよな…」


陽はポストを確認した。聖宛に荷物が届いていた。


18時10分


「ただいまー」


聖が帰ってきた。


「おかえりー」


「ヨウ、お掃除と…洗濯もの取り込んでくれた?」


「うん、やってあるよ」


「ありがとう。今からすぐご飯作るから」


聖は荷物を置き着替えると、すぐキッチンに立った。


「あれ?カレー残ってる。カレー残したの?珍しいね」


冷蔵庫を開けた聖が言った。


「う、うん。ちょっと食欲なくて…」


「ふーん」


聖は陽を観察するように目を向けた。


「だ、大丈夫だよ。たまにはそういうことだってあるよ」


「ふーん、それならいいけど」


-------------------------------------------------------------------------



「あっ、そうだ!!」


食事がはじまると、聖はなにかを思い出したように言った。そして、立ち上がるとバッグからスマホを取り出した。


それを見て陽は言った。


「おい、聖〜。食事中のスマホは禁止って聖が言ったんじゃなかった?


食事は命をいただく神聖なものなんだろー」


「わかってる。わかってるけど、ちょっと今回は特別なのよ」


聖は陽に目を向けず、スマホを操作した。そして陽にスマホを向けて言った。


「じゃーん!!」


そこには生まれたばかりの赤ん坊と母親が写っていた。


「え?これ…」


「うん、なほほんの赤ちゃん産まれたんだよ!二人目。男の子っ!!」


聖は満面の笑みで言った。


「奈帆ちゃん、今は名古屋だっけか?」


「うん。旦那さんの転勤でね」


なほほんこと奈帆ちゃんは、聖の高校時代からの親友だった。陽は聖からスマホを奪い取った。


「うわー、かわいいな…めっちゃ小さいし」


陽はスマホの画面を覗き込んで言った。小さい命が本当に愛おしく思えた。


「でしょでしょ、めっちゃかわいいよね。なほほんにそっくり」


陽はふと航の話を思い出した。


(氷川さんは自分の赤ちゃんを見たとき、かわいいと思わなかったって言ってたな。


人の赤ちゃんですらこんなにかわいいのに


自分の子供なんて想像を絶するかわいさだと思うんだけどな?)


陽は航の感情が不思議に思えて仕方がなかった。


食事を続けながら、陽は聖に言った。


「昨日さ、氷川さんと結構話してさ」


「え、どんなどんな?


私、いつも入れ替わりだからなー


真面目そうな人だよね。口数少なそう」


「それがそうでもなくてさー


いや、不真面目って意味じゃないよ…」


陽は航との会話の一部始終を掻い摘んで聖に伝えた。


--------------------------------------------------------------------


カチャカチャ


ザーッ


キュッキュッ


食事を終え聖は食器を洗っていた。


陽はソファに転がり、テレビを眺めていた。


「ヨウー、お風呂入っちゃいなよー」


「うーん、もう少し」


陽は適当な返事を返した。


「あっ、そういえば…」


陽はソファから身を起こして言った。


「聖宛に荷物届いてたよ。そこにに置いてある」


聖の顔がパッと明るくなった。


「もう届いたの?日本最高っ!!」


それを聞いた陽は、航が「何度でも日本人に生まれ変わりたい」と言っていたことを思い出していた。


「超高速スピード!!」


聖はそう言うと、食器を洗う手を速めた。


「超高速スピードって…なんか変じゃない?」


「いいの、気持ちが大切だよ」


陽は聖の明るさに触れ、いつのまにか元気になっていた。


昼間、18歳のフットボーラーと自分の人生を比較し、若干憂鬱になっていたことはすっかり忘れていた。陽はソファから立ち上がり、身体を伸ばした。


「んじゃ、僕はお風呂に入りますかねー」


--------------------------------------------------------------------


「あれ?」


陽は湯船に浸かったまま眠りに落ちていた。


気づけば風呂に入って40分が経過していた。


「オレ、寝てばっかりだな…


それにしてもおかしいな、いつもなら長風呂してると聖が声かけてくるのに?」


陽は風呂を出ると冷蔵庫へ向かった。


プシュ


発泡酒の缶を開け、すぐに口に運ぶ、


「いやー、風呂上がりのビールは最高だね。発泡酒だけど…庶民はつらいねーって、あれ?」


聖の返しもなく、大きな独り言になっていた。


聖はソファに座り真剣に本を読んでいた。


陽は聖のとなりに座った。


「なにその本?聖、本読んでんの?


あっ、それかぁ、さっき郵便で届いたの」


「うん」


聖はそう言うと本に挟まれていた小さな広告を栞のようにして本を閉じた。もう半分近く読み進めている。


「聖、読むの早いなー」


「だって、面白いんだもん


それに、ヨウの方が読むの得意じゃん。付き合い出した頃はいつも本を持ってたよね」


聖の言う通り、昔…と言っても2年くらい前まではよく本を読んでいたし、今でも好きだった。しかし、聖と同棲を始めてからお金のゆとりがなく本を買うことはほとんどなくなった。優先順位が下がり、今ではもっぱら立ち読み専門になっていた。


「ん?この人…」


陽は表紙の帯に写っている金髪の男をどこかで見た記憶があった。


「ああ、この人。この前、聖が見てたブログの人じゃん?龍がどうこうっていう…」


「ピンポーン!大正解っ!!


すんごい大人気のブロガーさんなんだよ。


実はこの人のこと、教えてくれたのなほほんなんだよ」


「ふーん…」


陽はどう反応して良いか分からず、口から平坦な音を出した。聖は構わず進めた。


「なほほん、この人の名古屋のトークライブのチケット持ってたらしいんだけど、赤ちゃんがいつ生まれるかわからなくて行けなかったんだって」


(トークライブ???芸能人かなんかなのか)


と陽は思った。そして言った。


「で、今は聖もハマってると…


「まぁ、私は人に流されないタイプだと思うけど、なほほんの言うことは100%信じてるから。それに、この人は面白いよ。私の目に狂いはない!!なんちゃって」


聖は明るくそう言った。


「もし聖に先見の明があるなら、なぜオレと付き合ってるんだ?」


と陽は言いかけて言葉を飲み込んだ。頭の中では「poison」のイントロが流れていた(なんでだよ)。


「ヨウ、明日休みでしょ。デートしよ、デート」


「デートって…聖、どこ行きたいの?買い物?」


「私、神社に行きたい。行きたい神社があるの」


----------------------------------------------------------------------------


夕食を終えた航は、ソファに座りさっき届いたばかりの本の表紙を眺めていた。


意を決して本を開く。しかし、数行読んだだけですぐに本を閉じた。


(ダメだ、とてもじゃないが読めない。


どうしたって感情移入しすぎてしまう…)


「コウ、また本買ったの?」


洗い物を終えた妻が話しかけてきた。航の名前の読みは「わたる」だが、妻や親しい友人は航のことを「コウ」と呼んでいた。


「誰の本?有名な作家さん?」


航は表紙を見せながら言った。


「ほら、オレたちのウエディングパーティーにも来てくれた・・・


覚えてる?ついに出版したんだよ。


すごいと思わない?」


妻はその本をまじまじと見て言った。


「へー、髪、金髪にしたんだね。


すごいね、芸能人みたい」


「あれ?この帯…これもしかして…」


航がそう言いかけた時のことだった。


「おととー、これ読んで」


6歳の娘が学校で借りてきた本を手に持ち、航に寄って来た。娘が持っているのは、有名なアニメ映画を絵本にしたものだった。


航はそのタイトルを見て思った。


(「もののけ」…か。もう少し大きくなったら、この子にモノという言葉が持つ本当の意味を教えてあげられたらいいな)


航は持ってた本をバッグにしまうと、娘を持ち上げ膝に乗せた。


「あんなに小さかったのに…。大きくなったもんだ」


外は弱い雨が降っていた。そう、娘が生まれた朝も同じような雨が降っていた。航は妻子を病院に残し、一人寂しくタクシーで帰宅したことを今でも鮮明に覚えていた。


-------------------------------------------------------------------------------


娘に絵本を読み終えると航はシャワーを浴びた。


20時45分


航は妻に言った


「1時間くらい寝たら家を出るから。あと頼むね」


娘が足に絡みついて来た。


「おとと、おやすみなさい」


「おやすみ」


航は床に膝をつき、娘を抱きしめた。


----------------------------------------------------------------------------


21時50分


スマホのアラームが鳴った。


家の中は静まり返っていた。妻も娘ももう寝ていた。


航は出来るだけ音を立てないように顔を洗い、歯を磨き、髪を整えた。


-------------------------------------------------------------------------


22時45分


今日の勤務は、電車大好き3年目の21歳・掛川さんと、総務から異動になった58歳・米澤さんが一緒だった。


米澤さんが仮眠に入り、掛川さんと二人になった。


「このレポートの作り方、もう教わりましたか?」


掛川さんが航に聞いて来た。


「はい、それは浅間さんに教えていただきました」


そう答えた航に掛川さんは言った。


「ああ、浅間さんに教わったなら安心ですよ」


「浅間さん、良い人ですよね」


「ええ。氷川さん、聖さんはわかります?」


「はい。ほとんど話したことはありませんけど。浅間さんの彼女さんですよね?」


「そうですそうです。僕、あの二人みたいになりたいんです」


航は「彼女はいるんですか?」と聞こうとしたが、すんでのところで違う言い方に変えた。


「掛川さん、まだお若いけど結婚とか考えているんですか?」


掛川さんは恥ずかしそうに言った


「はい。早く結婚したいです。


でも、僕みたいに趣味が電車とか読書とかだと…あまり女性との接点がありません」


航は的確な分析が出来ていると思いつつ言った。


「でもまだ21歳でしょう。


僕が21歳の頃なんて、とても結婚したいなんて思わなかったですよ。


なんというか、結婚したいと言えるのは立派だと思いますよ。


それに僕は入れ替わりなんで詳しくわかりませんけど、昼間の勤務に若い女性、結構いるじゃないですか?」


掛川さんは髪を撫でながら恥ずかしそうに言った。


「いやー、この間も河村ちゃんに…あ、河村ちゃんって僕の1年後輩なんですけど…彼女に電車の写真見せたら引かれちゃって…


あ、僕、写真も撮るんですけど。カメラもお金かかるんですよー。ほら駅前に大きな家電量販店あるじゃないですか?よく立ち寄ってます。ポイントカードなんて5万ポイント超えてますよ。


で、この間は河村ちゃんに…」


掛川さんは堰を切ったように話し始めた。


(わかりやすいな。河村ちゃんって子が好きなのか)


航は止まらない掛川さんのトークに言葉を挟んだ。


「さっき読書っておっしゃいましたけど、何かオススメの本ってありますか?僕も読書は好きなんで」


「あ、そうなんですね」


掛川さんはそう言うと、嬉しそうな顔をした。そして、すぐに自分のバッグを開け何かを取り出した。


「今は通勤中にこれを読んでいます」


それは若手起業家の書いた成功法則の本だった。


それを見た航は言った。


「自己啓発本ですか?」


「はい。最近は自己啓発の本ばかり読んでいます。今のうちから自己研鑽しておくことは大事かと思いまして」


航は意外に思うと同時に、大したもんだ…と思った。


「いやぁ、僕が掛川さんの年代の頃、自己研鑽なんて言葉知らなかったと思うな。実際、自己啓発というジャンルの本があると知ったのも33〜34歳くらいの頃でしたよ」


すると今度は掛川さんが聞いてきた。


「氷川さんのオススメの本はありますか?」


「僕も色々読みましたけど…


実は自己啓発本には今はほとんど興味がなくて…


古典は若いうちに読んでおけば良かったと後悔していますね。


そうだな…個人的にはアドラー心理学と古事記は外せないと思いますね」


「ああ、アドラー。聞いたことあります。まだ読んだことないけど。ありがとうございます。古事記は…歴史ですね?」


そして、続けて言った。


「あ、もうこんな時間。氷川さん、先に休んでください。戻りは4時でお願いします」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます