真夜中の古事記 11話から20話

【登場人物】


氷川航(ひかわわたる)

45歳。最近、ホテルの夜間フロントのアルバイトを始めた。新人なのにおじさん。家族はフルタイムで働く妻と小学1年生の娘がいる。


浅間陽(あさまひなた)

33歳。大学生の頃からホテルのフロントで働いている。趣味はスポーツ観戦。特に欧州サッカー好き。


聖(ひじり)

29歳。陽の恋人で2人は同棲している。陽の同僚で日勤専属で働いている。


朴(ぱく)さん

韓国人女性。自称・韓国語を話す関西人。大阪をこよなく愛している。航と勤務時間が重なることが多く、新人の航に業務を教えることも多い。


石松さん

69歳。ダブルワークをしており、月に4回くらいしか勤務していない。ビートルズが好きで、見た目によらず英語堪能。


五十嵐さん

45歳。ホテル業一筋23年。急遽上司が異動になり、とんでもない仕事量を抱えることになる。真面目人間。航の採用面接時の面接官の1人でもある。


吉川さん

不動産会社で働く46歳。密かに航の活動を応援している、航の良き理解者の一人。様々なコミュニティに属している。好きな言葉は「奇貨居くべし」


掛川さん

社会人3年目の若手フロントマン。電車が好き


李(い)さん

大学4年生のアルバイト。就活中


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【研修生】


午前07:45


 (ここまでくればもう一息だ)


 航はそう思った。


 「おはようございます」

「おはようございます」


 日勤の女性2人がフロントに入ってきた。


 朴さんと航は2人に業務の引き継ぎを始めた。といっても、航はただ横に突っ立て朴さんの話を聞いているだけだった。


 2人のうち、1人は20代前半と思われる女性だった。左胸には航と同じ「研修生」と記されたバッチを付けていた。おそらく新卒で入社したのだろう。


 航には45歳の自分と彼女が同じ研修生であることが滑稽に思えた。


 もう1人の女性に朴さんが楽しそうに話しかけていた。


 「最近、ヨウちゃんと勤務被んないんだよねー」


 航は夜勤専属のため、日勤勤務のメンバーとコミュニケーションをとることはほぼ皆無だった。入れ替わりで働いているのだから接点の持ちようがない。実際、この2人の名前もまだ覚えていないくらいだった。


 航は朴さんの会話を聞きながら


 (この女性が浅間さんの彼女なんだな)


 と察した。


明るくハキハキとしていて、言葉遣いも丁寧。スッと背筋が伸びていて姿勢も良い。きっとご両親に大切に育てられたのだろう。


20年後、自分は娘にとって果たして良い父親になっているだろうか?


08時00分


朴さんが言った


「さ、氷川さん、時間ですよ。帰りましょう」


 航は壁に貼られたシフト表に目をやった。夜勤明けのせいか、それがボヤけて見える。


 「朴さん、ご指導ありがとうございました。五十嵐さん、お先に失礼します」


続いて女性2人に頭を下げ、航は更衣室に向かった。


着替え終えると社員通用口を出て、自宅に向かって歩き出す。


「悪くない」

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【CD-R】


午前08時30分


帰宅した航は、1枚のCDを探していた。


それは、ある映画のサウンドトラックで、多くのアーティストがビートルズのカバー曲を演奏収録したCDだった。


航は特別ビートルズが好きなわけではなかったし、洋楽を聴くわけでもなかった。でも、このCDはお気に入りで、一時期よく聞いていた。


このCDを手に入れたのは、航が30代前半の頃だった。当時、付き合いもあり、時間があれば知り合いのバンドを目当てにライブハウスに足を運んでいた。


贔屓目に見ても今後大きくブレイクするようなバンドとは思えなかった。彼らは航より少し年上だったし、どの世界もほとんどの場合、センセーショナルな若者の登場を待っているのではないだろうか?


これと言って生きる目的のなかった航は、お金の使い道もなく、時々彼らが自費制作したCDやグッズを購入した。情熱を傾けるものを持っている彼らのことをいつも羨ましく思っていた。楽器の出来ない航は彼らに嫉妬していたし、彼らの仲間になりきれない隔離された気持ちを抱えていた。

 

航はそんな彼らを応援することで、恩を売ったような気持ちになっていたし、自分の存在価値を誇示できたようで快感だった。いや、そうすることで彼らとの繋がりを維持しようとしていたのかもしれない。寂しかったのかもしれない。


色々な想いを抱えてはいたけれど、間違いなく彼らの音楽は純粋に好きだった。


その時、そのバンドのおっかけ兼マネージャーのような女の子が「これおススメです」と言ってくれたのがこのビートルズのカバーCDだった…と言ってもCD-Rに焼いたものだったが。


とにかくバンドマン達もその周辺に集まる人間達も、貧乏人が多かった。でも、とても楽しそうだった。


今頃、彼らはどうしているんだろう?まだ音楽を続けているのだろうか?最後に会ったのは渋谷のチェルシーホテルのイベントだったか?


「あった」


航はそのCDを見つけると、忘れないようにバッグの中に入れた。


たった2日連続勤務をしただけで、疲労が溜まっていた。やはり夜勤は身体に応える。年齢のせいかもしれない。


航はそのまま眠ってしまいたい衝動に駆られたが、首を振り気合を入れるとシャワーを浴びて眠気を洗い流した。


ご先祖様と神棚に手を合わす。


帰りに買ってきたアップルパイを食べ終えると、スマホを手に取った。


「急ですが、明日、10時からビジネス交流会に参加しませんか?」


SNSでメッセージが届いていた。航はすぐに「参加します」と返信し、忘れないよう手帳に予定を書き込んだ。


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【淡い希望】


聖が家を出た後、陽はベッドの中でウトウトしたり、スマホを触ったり…無駄な時間を過ごしていた。


こんなことをしていてはいけないと思いつつ、今日は夕方から仕事で夜勤もある。今のうちに身体を休めておかなければ…と言い訳して自分を甘やかした。


11時00分


陽はあきらめるようにベッドから出てきた。もう昼に近い。また無駄に過ごしてしまったというなんとも言えない罪悪感。


人は時間があるとついついダラダラしてしまう生き物のようだ。いや、自分だけか?


陽は特にお腹は空いていなかったが、聖の作っておいてくれた味噌汁を温め、おむすびを食べた。朝食だか昼食だかわからない食事を済ませた。


「このままでいいわけがない」


陽は呟いた。


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15時45分


「おはようございます」


フロントには聖が立っていた。


陽はフロントバックに行き、五十嵐さんに挨拶をした。すると五十嵐さんが声をかけてきた。


「ヨウちゃん、候補日上げておいたから、社内面接の日程決めておいて」


「わかりました」


陽は返事をした。


陽の働くホテルは3年前に買収され、それ以降経営体制が大幅に変わっていた。陽は10年前、就職に失敗した自分を快く迎え入れてくれたことに感謝していたし、職場環境に不満はなかった。しかし、この先のことが不安だった。はっきり言うと金銭面のことだ。陽の給料は手取りで20万円に届かなかった。


3年前の買収騒動の時、陽は不安というより希望の方が強かった。これで待遇面が改善されるのでは?という期待があった。しかし、会社は設備投資を先行し、今のところ陽の淡い希望は希望でしかなかった。


この10年間、職場に協力的であったと思うし、より働きやすい職場環境を構築してきた言う自負もあった。次回の社内面接では思い切って給与面の改善をお願いしてみようと思っていた。

 

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17時05分


「お先に失礼します」


聖は陽に近づいてきて、耳元で言った。


「夜勤、がんばってね」


「聖、おつかれ。また明日」


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【ビートルズ】


23時00分


航は石松さんとフロントに立っていた。ビートルズ好きの69歳。見た目によらず英語堪能、ダブルワークの石松さんである。


この時間、パラパラとだがチェックインの客がフロントを訪れていた。

今夜の体制は、陽と石松さん、そして研修生の航である。


航がここで仕事を始め、すでに10日が過ぎていたが、2人と勤務するのはいずれも2度目だった。


客足が途絶えた。ほぼ予定のチェックイン作業を終え、静かになったロビーにはインストゥルメンタルの曲が流れていた。


航は石松さんに話しかけた。


「僕、石松さんにCDを持ってきたんですよ」


石松さんに断りを入れ、一度フロントバックに下がると、航は今朝バッグに入れたCDを取り出しフロントに戻った。


「石松さん、これです」


「なんです、これは?」


航は説明を始めた


「これ、映画のサウンドトラックなんです。もう15年くらい前のものだと思います」


航は続けた


「色々なアーティストがビートルズの曲をカバーしてるんですよ」


石松さんの目の色が変わった


「へー!!早速聴きましょう!!」


石松さんはCDを持ってフロントバックに行くと、小さなCDプレイヤーを操作しCDを交換した。


ロビーには「Two of us」という曲のイントロが流れ始めた。航にはホテルの格式が少しだけ上がったように感じられた。


石松さんはすぐフロントに戻ると耳を澄ませ


「ちょっと小さいですね」


と言い、フロントバックに戻り音量を上げた。


誰もいないホテルのロビーにはかなり大きめな音で「Black bird」が流れていた。


「ああ、いいですね!」


石松さんな曲に合わせて鼻歌を歌い始めた。


航は苦笑いしつつも、そんな石松さんの姿を見て嬉しくなった。


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【陽と航】


01時00分


石松さんが仮眠に入り、陽と航はフロントバックで2人になった。

陽は「業務リスト」と書かれた用紙を航に見せながら言った。


「これとこれ、もうできますか?」


「はい、このレポートも書けますし、朝食の人数リストも作れます」


「ああ、もうそんなに覚えられたんですね、助かります。じゃあ石松さんはコレと…」


陽は業務リストの項目の横に名前を書いていった。陽と航の名前は5〜6箇所に書かれていたが、石松さんの名前は1つだけだった。


「石松さん、パソコンの作業とか出来ないんですよ。今後、石松さんと2人でシフトに入るときはちょっと負担が大きくなるかもしれませんが、その辺は許してください」


「もちろんです」


陽は答えた。


「石松さん、月に4回くらいしかシフトに入っていないし、69歳ですからね。なかなか業務を覚えられなくて当然だと思うんです。でも、英語力とか凄いですから。外国の方が来た時なんかめっちゃ頼りになりますよ」


「ああ、前回ご一緒したとき、びっくりしました」


航はフロントに来た中東系の男性に英語で対応した石松さんの姿を思い出していた。そして、ここは人を思いやることのできる良い職場だな、と感じた。


航は陽に言われた業務を黙々とこなした。メモを見ながら間違えないように丁寧に作業した。陽は手を動かしたまま、航に言った。


「話しかけて大丈夫ですか?」


航は手を止めて答えた。


「はい、大丈夫です」


「石松さん、昔は外務省で働いていたらしいんですよ。詳しいことは知りませんが、海外生活も長かったらしいですよ」


「ああ、それで英語が…」


航は妙に納得した。


「そのあと旅行会社を作ったり…色々されてたみたいです。


詐欺にあってかなりの借金を背負っちゃったみたいですけど」


航は石松さんにますます興味を持つようになった。

「浅間さん、終わりました」


業務を終えた航は陽に言った。


陽は時計をチラリと見ると言った。


「じゃあ仮眠しちゃってください。戻りは…そうだな、4時で」


「わかりました。では先に休ませていただきます。ありがとうございました」


航はスマホのアラームを3:45に設定し、フロントバックを出た。


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【ルーシーはダイヤモンドと共に空に】


03時55分


航が仮眠から戻ると、石松さんがフロントバックで読書をしていた。


「おはようございます」


普段、深夜にはロビーのBGMは停めていたが、今日はビートルズのカバー曲が休むことなく流れていた。


「Lucy in the Sky with Diamonds」


ルーシーはダイヤモンドと一緒に空にいる???


曲の意味は全くわからなかったが、航は昔からなんとなくこの曲が好きだった。


「石松さん、僕は英語わからないし、曲の意味わかりませんけど…この歌好きです。なぜか娘を連想します」


石松さんは本を閉じた。


「この曲ね、タイトルの頭文字をとってLSDのことを歌ってる、と言われているんですよ」


「へー」 


石松さんは続けた


「でもジョン・レノンは保育園から帰ってきた息子の絵を見てインスピレーションを受けた、みたいなことを言っていたと思います。ジョンの息子がね、ルーシーっていう女の子に好意を持っていたんですよ」


「じゃあ、僕が娘を連想する感覚もあながち間違いじゃないかもしれませんね」


航は続けた。


「ビートルズって、まぁ詳しいわけではありませんが、なんであんなに多種多様な曲を作れたんでしょうね?人知を超えているというか…神がかっていませんか?」


石松さんは言った。


「そうですね。僕は当時を知っているけれど、ビートルズの登場は革命的でした。ビートルズ以前と以後では世界が違うものになった。神がかっていた…まさにその通りです。僕も一気にのめり込みましたよ」


航は石松さんの話を踏まえて聞いた。


「もしかして、メンバーはLSDをやってたとか?」


「そうですね、やってたと思いますよ。そうやって薬の力なんかも借りてインスピレーションを受けていた部分もあるでしょう。まぁもちろんいけないことなんですけど。正しい正しくないなんて、時代とともに変わります。流行りやノリも変わります、今、暴走族いないじゃないですか?


日本だってね、英雄だった兵隊さんがね、戦争に負けたらあっという間に悪者にされてしまったんだから。あ、話が逸れましたね。


僕はね、ビートルズが…彼らがこれだけの名曲を残した、それで良いと思っています」


そういうと、石松さんは少し黙ってから続けた。


「氷川さん、マインドフルネスってご存知ですか?」


航は答えた。


「ええ、知ってますよ。ここ数年、取り入れる企業も増えましたよね。この間、NHKではマインドフルネスでなく「企業が瞑想を取り入れてる」って言ってましたよ。マインドフルネスでなく瞑想と」


航は「瞑想」という言葉をNHKが抵抗なく使っているのが新鮮だった。数年前まで「瞑想」なんていうとオカルトっぽい雰囲気があった。時代が変わったのかもしれない。


「ビートルズのメンバーがね、インドの聖者に師事して瞑想を習っていたんですよ」 

 

「ビートルズが?」


航はびっくりした。


「何が言いたいかっていうと、単にLSDなんかに頼っていたのでなく、そういう道も彼らは探求していたんじゃないかな…そんな風に思いたいんです、僕は」


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【耳鳴り】


08時05分


また朝がやってきた。


仕事を終えた航は、いつもより急ぎ足で帰宅した。シャワーを浴びると、スーツにネクタイを締めすぐに家を出た。


電車に乗ると吉川さんにSNSで連絡を入れた。


「今日はよろしくお願いします。今、向かっています」


昨日、「急ですが…」とビジネス交流会に誘ってくれた相手…それが吉川さんだった。吉川さんは航が主催したある講座に飛び込みで参加してくれたことがあった。それ以来、航のことを応援してくれていた。航は呟いた。


「ありがたいな…」


自分のやっている活動の価値を認めてくれる…こんなに嬉しいことはない。


正直、夜勤続きで身体はきつかった。寝不足のためかキーンという耳鳴りが頭の中を支配していた。しかし、目の前にきたチャンスは出来るだけ掴みに行きたかった。


電車を降り、吉川さんが指定した建物に着くと、再び連絡を入れた。


「今、着きました」


そのままエレベーターに乗り、4階まで上がった。受付で名前を告げる。


「吉川さんのご紹介で参加させていただきます。氷川と申します。氷川航です」

 

女性が参加者の名簿を指でなぞり…指がピタリと止まった。


「氷川様、お待ちしておりました」


そして、「氷川」と書かれたネームプレートを渡し、丁寧に会場内へと案内してくれる。中に入ると航を見つけた吉川さんが笑顔で近づいてきた。


「夜勤明けですよね?お疲れのところ、ありがとうございます」


「いえ、こちらこそいつもありがとうございます」 


「どうですか?お仕事は?」 


「少しずつですけど、慣れてきましたよ」


2人は挨拶を交わし、席に着いた。


このビジネス交流会は会員制だった。それなりの資金力がないと会員になれないし、活動を続けることも出来ない。本来、会員でなければ中に入ることは出来ないが、航は吉川さんの招待枠で「ゲスト」という形で参加が許されていた。


参加者の多くが自分のビジネスを所有していた。アルバイト暮らしの航にはとてもではないが、会員費を払う体力がなかった。普通では交われない世界だった。お金があるかないか…悔しいけれどそこで世界は分断される。


会の終盤、1分間のプレゼンタイムがあった。航は誰よりも目立ってやろう、と心に決めていた。多少、見当違いでも構わない。


航の順番が来た。たった1分間しかない。細かい挨拶は割愛した。


「古事記の講座をやってます、氷川といいます…」


12時35分


プレゼン後、航のもとへ8人の男女が名刺交換に訪れた。このご縁が今後どうなるかなんてわからない。ただ、ここに足を運ばず家に帰って寝ていたら…この人たちに出会うことはなかった。航はその事実だけで、今は満足だった。


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【年の差】


22時45分


「ん?今日は何曜日だ?」


航は連続勤務で曜日の感覚がおかしくなっていた。


今日の勤務は20代前半の男性2人と一緒だった。航と20歳以上も年が離れている。


1人は高卒3年目の掛川さん、彼は正社員だった。細身で小柄な体に大きめな制服を着ていて、年齢よりずっと幼く見えた。


そしてもう1人は大学4年生の韓国人・李(イ)さん。黒いメガネがとても真面目な印象を与える。


親子ほど年の離れた彼らとの勤務。しかも、航は教わる立場だ。


「掛川さん、李さん、よろしくお願いします」


航は頭を下げながら、向こうもやりにくいだろうな…と思った。


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航はこれまでにいくつか仕事を変えてきた。その都度、「新人いびり」というかそれなりに嫌な思いはしてきた。どこに行っても性格のひねくれた奴はいるものだ。


今回もそういったことが起こりうるだろうと覚悟していた。そして、そんなことがあっても、どうということはなかった。


しかし、今回、航のこの思いは杞憂だった。若い2人は丁寧に仕事を教えてくれた。本当にこの職場は気の良い人間が集まっていた。


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航は団体客のリストに目を通した。北海道から中学生の修学旅行の団体が泊まりにきていたが、すでにチェックインは済んでおり、ロビーはガランとしていた。しばらくして引率の先生が会議室の鍵を返しにきた。大勢の子供達を預かる先生方の気苦労はなかなかのものだろう。


01時10分


パソコンに向かいながら、航は掛川さんに話しかけてみた。


「なんでこの仕事を選んだんですか?」


掛川さんは少し考えてから答えた。


「僕、この見た目の通り電車が大好きで。旅行が好きなんです。それでそれに近い仕事って何かなぁと…それで学校の先生と相談して決めました」


「電車好きなんですね?じゃあ例えばJRに就職するとか…それは考えなかったんですか?」


「好きなことを仕事にして、あとで嫌になったら救いようがないじゃないですか。電車嫌いになりたくないので。


それに、お金をいただく限りは「価値を提供しなきゃいけない」と思うんです。自分の能力以上の仕事に就いてお金をいただくのは違うような気がして。この仕事なら僕にも出来そうだなって思ったんです」


そこには自分を卑下しているような様子は感じられなかった。ただ客観的に自分を観察し、それに見合った人生を選択しているように思えた。21歳。これはこれで幸せな考え方だな、航はそんな風に思った。


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【ざるうどん】


06時40分


翌朝、掛川さん、李さん、そして航の3人はフロントに立っていた。


同年代の掛川さんと李さんが話しているのを、少し離れたところで航は聞いていた。


掛川さんが李さんに言う。


「就活どう?」


「うーん、派遣ならいけるんだけどね。派遣だと、ブランド力が落ちちゃうから。やっぱり正社員にならないと」


どうやら李さんはIT関係の仕事に就きたいようだった。


「僕はできる事を仕事にすれば良いと思うけどな」


掛川さんは航に言ったのと同じようなことを言っていた。


「うまくいかなかったら、大学院進学も考えてるんだ」

2人の話題はいつのまにか就活からワイヤレスイヤホンの話になっていた。


「え?それいくらするの?」


「2万ちょっとかな」


「高っ!!」


航は別世界の話を聞いているような気持ちになった。カセットテープの時代の昔話でも振ろうかと思ったが、変に気を使うのはやめた。無理して2人に溶け込もうとすることもないし、場を取り繕う必要もない。


チェックアウトの客がエレベーターから降りてくると、航は積極的に声をかけ自分の方へ誘導した。


「こちらへどうぞ」


チェックアウトの作業はすっかり慣れていた。人間、やればちゃんと成長するのだ。


やがて修学旅行の学生たちがロビーに集まりだした。掛川さんは一生懸命、先生方のサポートをしていた。大きめな制服と童顔が相まって、航には彼がまるで修学旅行生の1人のように見えた。それがなんとも微笑ましかった。


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勤務を終えた航は、体力の限界を感じていた。連続勤務で疲労が溜まりに溜まっていた。帰宅した航は、そのままベッドに倒れこんだ。


航は一瞬で深い眠りに落ちた。


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12時00分


陽は聖とテーブルを挟み、ざるうどんを食べていた。


「ヨウ、面談今日でしょ?」


「うん、2時から」


「五十嵐さんとでしょ?私は来週だよ」


「今回、部長も同席してくれるんだよ」


「げ?私、あの人ちょっと苦手だ…」


「でも、部長がいなかったらオレたち出会ってないじゃん」


「…ま、偶然だけどね」


「聖とのこともあるからさ。部長交えて要望伝えてみようかと思ってね」


「ふーん、、、あまり無理しないでね」


聖は不安そうな顔をしたが、どこか嬉しそうだった。


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【面談】


12時40分


「じゃ、行ってくるね」

「いってらっしゃい」


陽は自転車に跨り、駅に向かった。電車に乗る前に緑色の看板の銀行に寄った。


画面を操作し、家賃75,000円を振り込む。陽は胃が締め付けられるような思いがした。通帳に記された残高を見て、この数字が自分の残りの命のように思えた。


13時50分


陽はホテルのミーティングルームにいた。勤務は16時からだったが、その前に社内面談の予定を入れていた。


面談は五十嵐さんと三木部長とでおこなうことになっていた。三木部長は普段、同じグループの他のホテルで働いており、陽と顔を合わせることは滅多になかった。


社内面談は形式上のものになっていた。しかし、今回、陽は給与面の相談をしようと決めていた。だから五十嵐さんには三木部長にも同席して欲しいと伝えていた。何も言わなければ五十嵐さんと雑談をして終わっただろう。


陽の願いは聞き入れられ、三木部長と五十嵐さんにスケジュールを調整してもらい、今日の14時から面談をおこなうことになっていた。出すぎた真似かとは思ったが、10年も働いているのだ。多少、要望を伝えてみてもいいだろう。実際、三木部長はこうして時間を作ってくれた。


「三木部長か…」


陽は緊張していた。


13時58分


ガチャリ


陽は姿勢を正した。


ドアが開き、申し訳なさそうに五十嵐さんが入ってきた。


「ヨウちゃん、悪い。三木部長、急遽来れなくなっちゃったらしい」


(逃げたな…)


陽は瞬間的にそう思った。しかしすぐに思い直した。


(逃げる…じゃないな。三木部長にしたら大したことじゃない、それだけのことか)


五十嵐さんの言葉を聞いた陽はがっかりしつつ、少しホッとした。


五十嵐さんと面談するのでは勤務中に話をするのとほとんど変わらない。聞いての通り「ヨウちゃん」と呼ばれる間柄だし、上司というより良き先輩という感じだったからだ。


陽は口を開いた。


「五十嵐さん、本当に大変ですね。全部押し付けられちゃって…。手当だって付いてないんでしょう?」


「・・・・20年以上ここで働いてるんだ。今更、他のことなんて出来ないしな」


五十嵐さんは自分に言い聞かせるように言った。


「さ、ヨウちゃん。面談はじめるか!と言っても、相手はオレだけどな」


五十嵐さんのその言葉で一気に場が和んだ。


「オレ、五十嵐さんには言いづらいですよ。だって、言えばまた五十嵐さんの負担が増えるでしょ?」


「ま、一応聞くだけは聞くよ。ヨウちゃんが言いたいことはだいたいわかってるけどな」

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