真夜中の古事記~陽と航~

@kojikista88

真夜中の古事記 1話から10話

【登場人物】


氷川航(ひかわわたる)

45歳。最近、ホテルの夜間フロントのアルバイトを始めた。新人なのにおじさん。家族はフルタイムで働く妻と小学1年生の娘がいる。


浅間陽(あさまひなた)

33歳。大学生の頃からホテルのフロントで働いている。趣味はスポーツ観戦。特に欧州サッカー好き。


聖(ひじり)

29歳。陽の恋人で2人は同棲している。陽の同僚で日勤専属で働いている。


朴(ぱく)さん

韓国人女性。自称・韓国語を話す関西人。大阪をこよなく愛している。航と勤務時間が重なることが多く、新人の航に業務を教えることも多い。


石松さん

69歳。ダブルワークをしており、月に4回くらいしか勤務していない。ビートルズが好きで、見た目によらず英語堪能。


五十嵐さん

45歳。ホテル業一筋23年。急遽上司が異動になり、とんでもない仕事量を抱えることになる。真面目人間。航の採用面接時の面接官の1人でもある。


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【リスタート】


22時45分


「おはようございます」


時間に関係なく「おはようございます」の挨拶からこの仕事はスタートする。


浅間陽(あさまひなた)は、大学3年の時にホテルのフロントのアルバイトをはじめた。卒業後、別の会社に就職したもののわずか半年で退社。その時に「戻ってくれば」と声をかけられ、正社員として採用してもらった。以来10年間、ここでお世話になっている。


ホテルのフロントは当然ながら24時間365日稼働している。それを20人ほどの人員でやりくりしている。アルバイトの学生もいれば、夜勤専属のおじさんもいる。正社員の割合は半分くらいだ。


陽は不規則な勤務体系ではあるけれど、人間関係の良いこの職場を居心地良く感じていた。


今日は23時からの夜勤だ。ホテルのフロントバックには見たことのない一人の男性がいた。


「はじめまして氷川航(ひかわわたる)と申します。よろしくお願いします」


40歳くらいいだろうか?真面目そうな男性が頭を下げてきた。僕はすぐにピンときた。


「ああ、氷川さんですね。話は聞いていますよ。夜勤専属なんですよね?僕は浅間陽と言います。よろしくお願いします。」


僕より10歳近く年上で夜勤のアルバイト…。昼間は別の仕事を掛け持ちしているんだろうか?申し訳なく思いつつ「負け組」というワードが自然と頭に浮かぶ。


陽は航に言った


「初日ですから気楽にやってください。とりあえず今日は僕のやることを見ていてくれれば大丈夫です」


陽はタッタっとキーボードを打ち、残りのチェックインの件数を確認した。航は不思議そうにその作業を見つめていた。


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01時15分


業務が落ち着くと陽は航に話しかけた。


氷川航は45歳。陽とはちょうど一回り離れていた。妻と小学生になったばかりの娘がいる。航の妻はフルタイムで働いているらしい。今や男一人の稼ぎで何とかなる時代ではないのかもしれない。


航の自己紹介を聞きながら、陽は12年後の自分はどうなるんだろう?と何とも言えない不安に襲われた。


仮眠を挟み、朝が来る。


朝食の案内やチェックアウトの作業をしながら、ゆったりと時間が過ぎていく。


07時45分


今日もあと少しでいつもと同じように1日が終わる。勤務を引き継ぐ職員が出勤してきた。その中に聖の姿があった。


陽は少し気まずそうに


「おはようございます」


と挨拶した。


実は陽と聖は同棲している。社内恋愛というやつで、もう付き合って3年になる。お互い結婚を意識しているものの具体的なことは何も決まっていなかった。


出勤者に引き継ぎを終えると陽は航に声をかけた。


「初日、どうでしたか?疲れたでしょう?今日はゆっくり休んでください。お疲れ様でした」


【時差ぼけ】


約15年ぶりの夜勤だったけれど意外と身体はキツくない。

氷川航(ひかわわたる)は、初日の勤務を終え自宅に向かって歩いていた。道のりは徒歩20分。


08時35分


帰宅した航はつぶやいた


「悪くない」


すでに娘は学校に向かい、妻は出勤しており家はガランとしていた。帰宅してすぐにご先祖さまと神棚に手を合わせる。


45歳。航は時々、現実に返りハッとする。

自分が45歳だなんて、そんなこと信じられるか?本当に人は歳をとるのだ。


高校時代からの友人の何人かは公務員になり着実な人生を歩んでいる。一方、自分の才能を磨き見事に起業したやつもいる。出版している仲間だっている。


ところが自分はどうだ?今やアルバイトだ。フリーターだ。見事なまでに負け組だ。それでも航にはどうしてもやりたいことがあった。


「今更真っ当な人生なんて望みようがないじゃないか」


自分に言い聞かせるようにつぶやくと、シャワーを浴びた。


帰りにコンビニで買ってきたアップルパイを頬張り、雑な朝食を済ます。


09時20分


「そろそろ行くか」


航は自転車で近所の大学図書館へ向かった。

入り口で図書館の入館証を機械にかざし、中に入る。


ズラリと並ぶ書籍達を目の当たりにすると、軽く目眩すら覚える。一生をかけても全ての書籍に触れることは出来ないだろう。自分の人生の中で知ることができる世界など本当にささやかなものでしかない。


航は図書館の中をうろうろしながら、気になる書籍を2冊手に取り机に座った。迷彩柄のバッグからノートを取り出し、本のタイトルと著者の名前を書いた。


ページをめくりながら、気になった箇所をノートに書きとる。アナログな作業。

1冊を読み終え、2冊めに突入したあたりから、夜勤明けのためか強烈な睡魔が襲ってくる。睡魔に負けまいと目をこすりながら作業を続ける。

気がつくとノートにミミズのような読み取れない文字が書かれていた。


「限界だな…」


航は作業を切り上げ図書館を出た。そして、家に帰り横になると、あっという間に眠りに落ちた。


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16時45分


スマホのアラームが鳴る

航は目を覚ますために顔を洗う。歯を磨き、服を着替え、娘を迎えに行く。


「うん、悪くない」


航は自転車に乗り、娘を迎えにいった


【朴さん】


2日目…


22時40分


「おはようございます」


航はホテルのフロントバックにいた。その時間は、4人が勤務していた。この時間になってもチェックインが多く、皆パタパタと忙しなく動いていた。業務のことが全くわからない航は、それをただ眺めていた。焦ることもない。わからなくて当然なのだから。


22時50分


一人の女性が出勤してきた。彼女は韓国籍で名前を朴さんといった。年齢は30歳くらい。下の名前の発音は難しく、航はそれを聞き取ることが出来なかった。


日勤の4人のうち引き続き勤務するのは石松さんという男性。かなり年配のように見えた。


航は名前をインプットしようと彼の左胸に目を運ぶと、石松さんはネームプレートを逆さまに付けていた。指摘すべきか迷ったが、新人の自分にはそれが憚られた。


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「では先に仮眠にはいります」


業務が落ち着くと石松さんは仮眠のためフロントから姿を消し、航は朴さんと2人になった。


「私、23時からの勤務が多いので、氷川さんと勤務が被ること多くなると思います」


「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」



航は丁寧に答えた。


朴さんは見た目は日本人と変わらず、言葉のイントネーションには関西弁が混ざっていた。聞けば長く大阪に住んでおり、自分は韓国語を話せる関西人だと言っていた。


少し気の強そうなところもあったが、コミュニケーション能力は高そうだった。


「石松さん、1949年生まれなんですよ」


先に仮眠に行った石松さんの話になった。彼は他に本業を持っており、今は月に4回程度しかここでの勤務には入らないらしい。


「へー、じゃあ戦後すぐの生まれですね」


と航は答えた。


「え?戦前ですよ。戦争は1950年ですから」


会話が噛み合わない。


「あれ?そうでしたっけ?」


航はなんとなくごまかした。初見で韓国籍の彼女とこれ以上戦争の話題を続けることもないだろう、と思ったからだ。


朴さんから自分にも出来る単純作業を教えてもらい、黙々とこなす。


「朴さん、終わりました」


航がそう言うと、朴さんは言った。


「じゃあ先に仮眠を取ってください。お疲れ様でした」


【戦後生まれの石松さん】


仮眠室に入ると、航はすぐにスマホのアラームをセットした。


そして、


「終戦いつ」


と検索した。


「1945年8月15日」


やはり自分の認識に間違いはなかった。9月2日とする解釈もあるけれど、1945年には違いないし、朴さんの言う1950年ではあり得ない。


航は少し気になり、続けて


「戦争1950年」


と打って検索してみた。


すると


「朝鮮戦争(1950年6月25日〜1953年7月27日)」


と画面に表示された。


航は「あっ」と思った。多くの日本人にとって戦争といえば第二次世界大戦(大東亜戦争)を指すと思うが、国が変われば当然その認識も異なる。確定ではないけれど、朴さんの言っていた「戦争」は朝鮮戦争を指す可能性が高い。


それにしても…


即座に「1950年」と答えた朴さんは流石ではないだろうか?


仮に日本の30歳の若者に「終戦は西暦何年?」と質問したとして、どのくらいの割合で正解が返ってくるのだろう?


いや、決して彼らを責めるわけではない。自分も30歳の頃に聞かれたら、正確に答えられたか怪しいものだ。いや、自分の同年代でも答えられるかどうか。近代史なんかまともに習った記憶がない、それが日本だ。


航はハッとして、考えるのをやめた。今は貴重な仮眠時間だ。身体を休めなければ。そしてすぐにベッドに横になった。


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03時45分


スマホのアラームが鳴った。航は朦朧とする意識のまま反射的に身体を起こした。眠りついたのが1秒前のことのように思える。まるでワープしたような感じだ。


すぐに身支度を終え、フロントバックに向かうと、石松さんが職場のパソコンで動画サイトを見ていた。


「おはようございます」


「おはようございます。少しは休めましたか?」


石松さんがこちらに目を向けて言葉を返してくる。


「はい、大丈夫です」


パソコンの画面にはビートルズの演奏が流れていた。


「ビートルズですか?」


石松さんは嬉しそうに言った


「ええ、私、ビートルズど真ん中の世代でしてね。衝撃的だったんですよ、当時。ビートルズ、ご存知ですか?」


「ご存知もなにも、超有名ですからね。僕の世代でもファンは多いですよ。友達が大好きで…あ、女性なんですけど。Rainって曲が特にお気に入りだと言っていました」


「え?Rain?聞いたことないなぁ」


石松さんはすぐに検索すると動画サイトでRainを聴き始めた。


「これは初めて聴きました。教えてくれてありがとうございます」


「あれ?石松さん、ネームプレート逆さまですよ」


「ああ、いけない。ありがとうございます」


石松さんはネームプレートを直した。それをみて航は少しホッとした。


ピンポーン


フロントのベルが鳴った。航と石松さんはすぐにフロントバックからカウンターに出て行った。


そこにいたのは身長の高い、中東系の顔立ちをした男性だった。


彼は英語で何かを訴えていた。申し訳ないが航は英語が全く出来ない。それは採用面接の際にも伝えてあった。


すると石松さんが流暢な英語を話し始めた。やがてニコやかな笑顔でその男性は去っていった。


航は失礼ながら思った


「人は見かけによらない」


【23番】


「あと少し…」


陽はラウンジにかけられている大きな時計に目をやった。


09時50分


あと10分で退勤だ。


昨日は17時からの勤務だった。長い拘束時間を嫌う人もいるが、陽はむしろそれが好きだった。その方が後でまとまったプライベートの時間を持てるからだ。


今日も8時から聖が出勤していた。聖は日勤専属で働いている。昔は陽と同じように変則勤務をこなしていたが、体調を崩すことが多く、それを考慮した会社側が日勤専属にしてくれたのだ。


陽もその方が安心だった。やってみるとわかるが、夜勤を続けているとどこかで身体に無理がくる。やはり人間は太陽の下で活動するようにプログラムされているのではないだろうか?


それに…夜勤は2人シフトになる。聖を自分以外の男性と2人きりにさせたくないという思いもあった。


陽は昔、少なくとも30歳を超えてまで夜勤はしたくない…と思っていた。しかし、もう10年もこの生活を続けている。33歳になった今では、慣れ親しんだライフスタイルから本気で抜け出そうとは思えなくなっていた。


10時05分


「お疲れ様でした。失礼します」


陽はそう言うと、聖に目で合図を送る。更衣室で私服に着替えて帰路につく。


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ホームに着くと、陽は急行でなくあえて各駅停車に乗り、のんびりと帰る。自宅の最寄り駅までは20分ほどの道のりだった。ウトウトしたり、スマホでスポーツニュースをチェックしたりして過ごす。多くの人が働いている時間に、自分はのんびりしている。陽は、ささやかな優越感を味わっていた。


電車を降り、駅と直結している駐輪場から自分の自転車を探す。陽はいつも「23番」の自転車ラックを利用していた。もう10年以上乗っている古びた銀色のマウンテンバイク。


綺麗に整備された歩道には自転車専用のレーンもあり、とても快適に走ることができた。まっすぐ帰れば自宅まで10分もかからないが、陽は途中で自転車を止めた。


【寄り道】


陽が自転車を止めたのは、大手の中古本販売店の前だった。陽はコミックコーナーに足を運び、あるサッカー漫画の第7巻を手に取った。そして立ち読みを始めた。


こうしてダラダラと過ごすのが何とも楽しい。人生の無駄遣いだとわかってはいたが、陽は時々仕事の帰りに寄り道し、こうして立ち読みして時間を潰した。


あっという間に2冊を読み終え、陽はうーんと身体を伸ばした。


11時45分


「そろそろ帰るか…」


店内に人の姿はほとんどなかった。店員も暇そうにしている。


今やインターネットで中古本を安く便利に買うことが出来るし、陽のように立ち読み目的で訪れる客もいるだろう。


「この会社に未来はあるのかな?」


陽はそんな余計なことを考えた。


そういえば15年くらい前、この店舗がオープンする際に店長を務めたのは大学生だったと聞いたことがある。インターンシップで半年ほど修行を積み、見事店長を任せられた、というような話だった。


「世の中にはすごい奴がいるな…」


きっと彼はこの会社で着実に出世しているだろう。もしかしたらヘッドハンティングされ、有名な大手企業に勤めているかもしれない。いずれにせよ、自分のようなくだらない毎日は送っていないだろう。


陽は自分の大学生活を思い出していた。ダラダラと時間を消費するだけの毎日。今思えば、大きく人生を分けた時期だったのかもしれない。


「さ、帰ろ帰ろ」


すっかり気持ちが沈んでしまった陽は、店舗の出口に向かった。ふと自動ドアの横に置かれた求人情報が掲載されたフリーペーパーが目につく。陽はそれをサッと手に取ると素早くカバンにしまった。そして家に向かって自転車を漕ぎ始めた。


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陽は帰宅すると電気ケトルでお湯を沸かした。聖の作って置いてくれたおむすびとカップラーメンでお昼を済ます。


その後、シャワーを浴びソファーに横になった。リモコンを使い、テレビのスイッチをオンにする。ワイドショーでは芸能人の不倫の話と政治家の問題発言をコメンテーターが糾弾していた。


やがて睡魔が襲ってくる…と思ったが、今日は不思議と眠れる気がしなかった。陽はテレビを切ると諦めてソファーから起き上がり、掃除機をかけ始めた。


【33歳】


掃除を終えた陽は、バッグから洗い物を取り出し、洗濯機に放り込んだ。その時、さっき持ち帰った求人情報誌に気がついた。


洗濯機を回し始めるとソファーに座り、なんとなく求人情報誌を眺め始めた。時折目に入る「応募条件:30歳まで」という文字。陽は胃が締め付けられるような感じがした。33歳。時間がたつほどに、どんどん選択肢が狭まっていく。可能性が目減りしていく。


陽は求人情報誌を投げ捨て、テレビゲームのスイッチを入れた。聖と同棲する前から持っている型落ちしたゲーム機。ソフトは1つしか持っていなかった。画面の中ではすでに引退したサッカー選手が当時のまま元気な姿でピッチの上を躍動していた。


「33歳か。オレがサッカー選手だったら引退してる頃かもな」


そんなことを思ってますます気が滅入ってきた。


ピーピーピー


洗濯機のアラームが鳴った。陽はゲームを一時中断し、洗濯物をベランダに干した。そして、洗濯物を干し終えると、再びテレビゲームを始めた。


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18時15分


ガチャ


「っ!!い、いらっしゃいませ…」


陽はその音に反応し、そう口走った。


「何言ってるの〜、ただいま」


声の主は聖だった。陽はテレビゲームをやりながら、いつの間にか眠っていたらしい。


「なんだ聖か。おかえり」


聖はニコニコしながら部屋に入ってきた。陽は放り投げられた求人情報誌に気づき、慌てて拾いバッグにしまった。


「今からすぐご飯作るから」


聖はそう言うとキッチンに立った。


【TVニュース】


18時40分


「いただきまーす」


陽と聖はテーブルを挟み向かい合っていた。テレビのニュースでは、沖縄の基地問題を取り上げていた。基地反対派が「ジュゴンの海を守れー」と叫んでいた。


それを見て聖は呟いた。


「ジュゴン、かわいそうだね」


「まあね。でも、日本はアメリカに気を使わなきゃいけないんでしょ。アメリカが利益を得るために基地は必要なんじゃないの?」


陽は小さい頃からアメリカの属国のような日本が好きではなかった。しかし現実的にアメリカの機嫌を損ねると大変なことになりそうだ…何となくそういう風に感じていた。大統領選があれば「親日家」の候補者に勝って欲しいと願った。「嫌日家」の候補者が優勢…なんて聞けば不安になった。


もとを正せば戦争が原因じゃないか?なんで日本は戦争なんてしたんだろう?あんな馬鹿デカイ国に勝てるわけないのに?


「続いてスポーツコーナーです」


陽の目はテレビに釘付けになった。スポーツ全般が好きだったし、大リーグや欧州サッカーには特に興味が強かった。日本の野球やサッカーも好きだったけれど、国外のスポーツはスケールが違う。

「ようっ!手と口が止まってるよ」


聖が不機嫌そうに言った。


「あ、ごめん、ごめん」


陽はすぐに謝った。陽と書いて「ひなた」と読むが、聖はもちろん、親しい友人たちは陽のことを「よう」と呼んでいた。


陽は気まずくなり、取り繕うように聖に言った。


「最近、仕事はどう?」


「どうって?そもそも同じ職場で働いているじゃない!」


聖はぶっきらぼうに答えた。


「いや、ほら、五十嵐さんのこととかさ…仕事量増えちゃって、ものすごく大変そうじゃん」


少し間を置いて聖は答えた。


「そうね、五十嵐さん、大丈夫かしら…」


【もう1人の45歳】


22時45分


「おはようございます」


航が五十嵐さんに会うのは採用面接の日以来だった。航が採用される1ヶ月ほど前に、大きな組織編成があったそうだ。前任のチーフマネージャーが異動となり、押し上げられる形で五十嵐さんが役職のないまま宿泊課の責任者を務めることになったらしい。


五十嵐さんはパソコンに向かい、忙しそうにキーボードを叩いていた。


航は遠慮気味に声をかけた。


「五十嵐さん、おはようございます」


五十嵐さんは手を止め航の方へ身体を向けた。


「ああ。どうですか?少しは慣れましたか?」


「まだまだですが、皆さんとても親切にしてくれてるので助かっています」


当たり障りない会話をいくつか交わすと、五十嵐さんは再びパソコンに向かった。


五十嵐さんは航と同じ45歳。社会からドロップアウトした航と違い、大学卒業後、この会社一筋で働いてきたそうだ。


今日の夜勤は五十嵐さんと朴さん、そして研修期間中の航だった。五十嵐さんは基本的に日勤なのだが、時々夜勤に入らないとシフトのやりくりができないらしい。


23時00分


航は朴さんに付いてフロントに立った。ロビーはガランとしていて、時々チェックインの宿泊客が訪れる。


客足が途絶えると、朴さんは航に話しかけてきた。


「五十嵐さんは、とっても真面目な方よ」


「みたいですね。それに20年以上同じ会社で働いている。素晴らしいことです」


航は本音でそう思った。


「前のチーフマネージャーが急にいなくなっちゃって。五十嵐さん、全部押し付けられちゃったのよ。見ていて気の毒だわ。給料だってそのままのはずよ、きっと」


そのとき、フロントバックから五十嵐さんが出てきた。


「朴ちゃん、ちょっと飯買ってくるね」


「はい、いってらっしゃい」

コンビニから戻った五十嵐さんは、パソコンに向かいながらお弁当を頬張っていた。


02時00分


航は五十嵐さんと朴さんをフロントに残し先に仮眠を取った。


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航が仮眠から戻ると、五十嵐さんは相変わらずパソコンと格闘していた。朴さんは暇そうにスマホを操作していた。


「あー、この日は会議だった。朴ちゃん、来月のシフト組めないよー」


朴さんはパソコンの画面を覗き込んだ。


「…五十嵐さん、ココの9連勤はマズイですよ、死にますよ」


「うーん…」


航は黙って二人の会話を聞いていた。

「では、休憩に入ります」


しばらくすると、今度は航と五十嵐さんを残し、朴さんが休憩に入った。相変わらず忙しそうな五十嵐さん。航はただただ黙って時間が過ぎるのを待った。1分、1秒がとても長く感じられた。


【眠らない45歳】


05時00分


「おはようございます」


仮眠を終えた朴さんが帰ってきた。航は少しホッとした。朴さんが不在の間、仕事に没頭する五十嵐さんに声をかけるのが憚られ、航はただただ黙っていたのだ。


「五十嵐さん、仮眠取ってください」


朴さんが五十嵐さんに声をかける。


「うん、もう少し」


05時30分


外はだいぶ明るくなっていた。


「おはようごだいます」


厨房勤務のパートのおばさんがフロントバックに顔を出した。


「はい、厨房の鍵ですね。よろしくお願いします」


航は鍵をおばさんに渡す。このおばさんの挨拶は「おはようございます」でなく「おはようごだいます」だった。


(このイントネーション、もしかすると和歌山出身の人なのかもしれない。いつか出身地を聞いてみたいな)


航は密かにそんなことを思っていた。


06時00分


スーツ姿のサラリーマンや作業着姿の職人さんがチラホラとチェックアウトのためにフロントに姿を見せ始める。


航は鍵を受けとると、パソコンに向かいチェックアウトの処理をおこなう。


「ありがとうございました。いってらっしゃいませ」


今日も新しい一日が動き出していた。


五十嵐さんは結局一睡もせず仕事に没頭していた。


(五十嵐さんは自分のことをどんな風にみているのだろう?)


航はふとそんなことを思った。同じように45年の月日を生きてきて、妻子もありながらアルバイトで生活する気楽な男。心の中で蔑んでいるのかもしれない。


航はいつか五十嵐さんとゆっくり話してみたい、そんな風に思った。


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06時45分


「それじゃ、私、行ってくるから」


陽はふとんを被ったまま聖の声を聞いた。


「んーーー…」


寝ぼけたままおかしな返事をした。


「また後でね」


聖はそう言うと、駅に向かって歩き始めた。

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