闇の中の企み――2

 香菜実は、暗い廊下を走っていた。城内は暗いのに、昼間の時のように、兵たちが辺りを行ったり来たりしている。出陣が近いからだ。

 そんな中、香菜実は厨房に戻っていた。その隣には、いつも自分や彩乃たちが寝泊まりする居間がある。香菜実はそこの襖を開けた。

「遅くなりました。ごめんなさい」

 息を切らしながら居間に入る。襖のすぐそばに彩乃がいて、立ち上がった。

 他の侍女たちも起きたままだった。香菜実に目をやるが、話しかけてはこない。

「急いでこなくていい、って言ったのに」

 出迎えた彩乃が、呆れた様子で両手を腰に当てている。

 ここだけが、唯一香菜実にとって心安らぐ場所だ。ここなら、彩乃たちがかばい、どんな話でも聞いてくれる。

 さっきの不安に満ちた、篤英や富田長繁たちの会話から解放されて、香菜実はほっとした。

 同時に不安もよぎる。このまま戦が起こり、そして万が一城の兵たちが敗れることがあれば、ここにいる人たちも危ない。香菜実は優しげな彩乃の顔を見上げながら、彼女らが戦の中で逃げまわる様子を想像してしまった。

「……どうしたの? 私をじっと見つめて、黙り込んで」

 様子のおかしい香菜実に向かって、彩乃は尋ねた。まるで母親が、怖い目に遭った娘を迎えるように。今にも抱きしめそうだった。

 香菜実は、彩乃に向かって手を伸ばしかけた。幼い頃に母を病で失い、香菜実にとって素直に甘えられる相手は慶充しかいなかった。不安をさらけ出して、むしゃぶりついてしまいたい。

 ……でも、伝えなければならないことがある。

「ここは危険です」

 怯えているはず。なのに香菜実は、はっきりとした声が出せた。

「父たちが話していました。深夜、ここの人たちが出陣すると。数百の兵で、三万の敵に突っ込むって」

「まわりの状況を見ればわかるわ」

 彩乃は、冷静だった。

「富田長繁にまつわる噂も知っている。織田信長に取り入ろうとした時点で、領民を敵にまわしたようなものだわ。でもこの城の人たちは、抗うつもり。敵が多くいようと、相手は戦慣れしていないから勝てるって、富田長繁も言っている。そうでしょう?」

「言ってた。でもそんなの嘘、だよね。都合がよすぎる」

「香菜実の言うとおりだよ。ここの男たちは、もう状況を正しく見ていない」

 ここの兵たちは、滅びる運命なのだろう。決して助からない。

 彩乃は、香菜実の手を引いた。居間の奥、囲炉裏がある場所へと連れていく。防寒のため、囲炉裏には火が灯されて、居間を暖めていた。彩乃は薪をくべて、火を大きくする。

 気がつけば、香菜実の手は冷たくなっていた。囲炉裏の火にかざすと、指先がほっこりしていく。

「滅びることを、どこか誇りに思っているよね」

 香菜実はさらに小さく話す。

「騒ぎながら何とか生き残ろうって人もいそうだけど。最悪、富田長繁を殺して敵に取り入ってでも」

 篤英は、一乗谷で桂田長俊に矢を放ち、富田長繁に取り入った。

 彩乃に、自分の父親のことを指摘されたみたいだ。だが卑怯な父の姿を散々見てきた香菜実は、今さら胸が痛んだりすることもなかった。

「ねえ、彩乃さん」

「何?」

「逃げようと思わないの? こんなところにいても危険なだけ」

 巻き込まれる理由は、ないはずなのに。

 彩乃は、香菜実の頭を乱暴に撫でてきた。

「香菜実も同じじゃないの? どうして逃げようとしないのかしら」

 香菜実は苛立った。

「私は」

 声が大きくなりかけて、香菜実は慌てた。

「私は、逃げるわけにもいかないし、逃げる先もないから」

 小さな声で話す。香菜実も、薪を火にくべ始めた。

「どうして?」

「父上がここにいるから」

「娘を危険に巻き込もうとしている父親なのに?」

 親子の絆に捕らわれて、命を失う真似はしなくていい、ということだろう。香菜実も思う。

「佐奈井、だっけ。大事な人が生きているかもしれないのに?」

 今の香菜実にとって、最も心に刺さる言葉だった。

 確かめる術がないというのに、佐奈井の無事を祈ってしまう自分がいる。

「逃げているうちに、どこかでまた会えるかもしれない。香菜実は、そんな可能性も捨てるつもりじゃないよね」

 確かに、佐奈井には生きていて欲しい。傷を癒して、峰継たちと一緒に、どこかで戦が落ち着くのを待っているのなら、香菜実にとっては充分すぎるくらいだ。

 一乗谷で最後に佐奈井の姿を見た時、背中に傷を負っていたが、ちゃんと手当てを受けていれば死ぬことはないはず。

「もし私が佐奈井と合流したら、戦に巻き込むことになる」

 自分の近くで戦が起こるのは目に見えている。もし佐奈井が生きているとして、香菜実に近づこうとすれば、彼も巻き添えを喰らうだろう。そうなったら、兄が命を張って彼を守ったのは無意味になる。

 ――兄が命を張って、だ。

 兄が死んだことは、一乗谷で最後に見た時から正直、確信していた。兄は生きていると思うことは、もうできない。

 もっと幼い頃に、越前から離れた場所での戦から戻ってきた兵たちを見ている。兄と同じように腹部を刺し貫かれた兵がいて、手当てはされていたようだが、一乗谷に戻った時には、死んでいた。あの時の兵よりもひどい傷を負った慶充が生きているとは、とても思えない。

 ――もし兄が生きているとすれば。

 ――危険な城から私を逃して、佐奈井の元へと連れていこうとするだろうけど。

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