第9話 晴れ 時々 曇り 後 雷?

次の日、天気は前日と同様で、快晴だった。

七海は9時前に家を出たが、出る時、良子に「あんた、ちょっと顔色悪いよ」と声をかけられた。

昨晩なかなか寝付けずに、少し睡眠不足だった。

(たいへん。

 具合悪そうな顔をしてたら、翔平さん、手も握ってくれないわよね。

 そうしたら、契約打ち切り?

 始めたばかりで、それは、いややわ)

七海は翔平の部屋の前で、自分の手の平で両方の頬を軽く叩き気合を入れると、ドアフォンを押す。

「はーい」という声とともにドアが開き、翔平が笑顔で七海を迎える。

「おはよう、七海。」

「翔平さん、おはようございます!」

七海は翔平に促され、リビングに入ると、昨日と同様に明るい陽の光が差し込んでいた。

そして遠くのベイブリッジもはっきりと見えた。


「え?」

そのベイブリッジの横にベランダで風に揺られているワンピースが見える。

「翔平さん!!」

七海は真っ青な顔で翔平を見る。

「へ?

 な、なに?」

七海の気迫に押されてか、翔平は少したじろいだ。

「洗濯、しちゃったんですか?

 しかも、私のワンピースまで!」

「ああ、でも、大丈夫。

昨日、あれから洗濯ネットを買って、それに入れたから。」

「そ、そうじゃなくて。

 お洗濯は私の仕事ですって、昨日、言ったじゃないですか。」

七海は小鼻を膨らませて翔平を睨みつける。


「ごめん、ごめん。

 ほら、夏と違って、早く洗濯して干した方が、よく乾くかなって思って。」

七海は時計を見ると10時を回っていた。

「確かにそうですけど…」

七海は翔平の言うことに一理あると思ったので、言葉に詰まった。

「それと、エプロンは昨日、あれから洗って部屋の中に干しておいたから、乾いていると思うよ。」

そう言って翔平は、洋室とリビングの間の鴨居につってあるエプロンを指さした。

「す、すみません…。」

七海は小さくなって、エプロンを取りに行った。


エプロンは翔平の言う通りに渇いていて、洗濯石鹸と柔軟剤の良い匂いがほのかにした。

「あら?

 翔平さん、柔軟剤を使うんですか?」

独身の男性が柔軟剤を使うイメージが無かったので、七海は不思議に思った。

「ああ、普段は使わないんだけど、このシーズンだけは特別。」

「花粉?」

「そう。

 花粉が付きにくいって柔軟剤の宣伝に書いてあったからね。」

「そうなんですか。」

七海はエプロンを被るとキッチンに歩いて行った。


「翔平さん、朝ごはんはちゃんと食べましたか?」

「ああ、食べたよ。」

水切り籠には、皿が一枚とマグカップが洗って伏せてあった。

「何を食べました?」

「ん?

 トーストとコーヒー。」

「えー、それじゃ、栄養にならないじゃないですか。」

七海が翔平を睨みつけると、翔平はそっぽを向いて知らん顔をする。

(まったく、もう。

独り暮らしだとこれだわ。

ちゃんと、栄養管理をしないと体が悪くなっちゃう。)


七海はむらむらと私がやらなくてはという使命感が沸いて来た。

(それに私が来る時くらいは、洗いものしなくていいのに。

 あら?)

七海は資源ごみの袋の中に、コンビニ弁当のプラスチック容器が入っているのが見えた。

(昨日は、なかったのに…。

 あっ、昨日の夜だ!)

七海は昨晩、友人と会って食事をすると言った翔平の言葉が嘘だったことに気づいた。

(そうよね。

 洗濯ネットを買って、エプロンを洗濯したのだったら、お友達と会っている暇なんてないじゃない。

 私のせいだ…)

七海は、翔平の嘘に悲しくなってきた。


皿を拭き、食器棚に戻そうとした時、自分用のマグカップが洗われて食器棚に入っているのが見えた。

(翔平さん…。

 もう、私がしっかりしなくっちゃ。

 翔平さんに好かれるように頑張らないと!)

七海は自分の心の中の闘争心に火が付いた気がした。

それから手短に掃除機をかけ、その後、昨日、翔平から教わった方法で翔平の分と自分の分のコーヒーを入れるとリビングのダイニングテーブルの上に運んで、翔平に声をかける。

「翔平さん、コーヒーが入りましたよ。」

「お、気が利くね。

 ありがとう。」

ベッドの上で雑誌を読んでいた翔平は、雑誌を置くとテーブルの椅子に腰かけた。


「うーん、コーヒーのいい香りがする。

 七海、上手に入れられたじゃないか。」

翔平はコーヒーを一口飲むと満足そうに頷いて見せた。

七海も自分で入れたコーヒーを一口飲むと、苦かったがどことなく甘いようなコーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐった。

(美味しいし、いい香り。

 インスタントとは、全く違うわ。

 これなら好きになりそう)

「翔平さん、このコーヒーは何ていう種類ですか?」

「え?

 コーヒー豆の種類のことかな?

 ならば、ブルーマウンテンだよ。」

「そうですか。」

コーヒー豆に疎い七海は、この時は意識せずに聞いていたが、後日、コーヒー売り場でブルーマウンテンの値段を見て飛び上がるほど驚いたものだった。


「翔平さん、お昼、何が食べたいですか?」

七海はコーヒーを飲みながら翔平に尋ねる。

「お昼か。

 外で食べるか?」

翔平は何が無く言ったつもりだったが、目の前で七海が泣きそうな顔になって来たので驚いてしまった。

「ど、どうしたの?」

「翔平さん。

 だめですよ。

 ちゃんと手作りで栄養のあるご飯を食べないと。

 外で食べたり、お弁当だけじゃ、美味しいかもしれませんが栄養が偏っちゃいますよ。

 身体が悪くなっちゃいます。」

「わ、わかった。」

今にも泣きそうな顔の七海を見て、翔平は手を振って見せた。


「じゃあ、七海。

 お昼ごはん、作ってくれる。」

「はい!」

七海は、泣き顔から笑顔になった。

「で、翔平さん、何かリクエストありますか?」

「いや、特にないよ。

 七海にお任せする。」

「はい!」

七海は鼻歌を歌うような軽い足取りでキッチンに向かうと、冷蔵庫の中を確認する。

冷蔵庫の中は昨日買ったものでいっぱいになっていた。


「そうそう、昨日、生姜焼きにしようと思って生姜焼き用の豚肉を買って、チルドルームに入れておいたんだっけ。

メインは生姜焼きで、お味噌汁はワカメのお味噌汁。

卵焼きに、トマトとレタスのサラダ、フルーツは夏みかん。

野菜が少ないかしら…。

キャベツと人参の野菜炒め。

うん、これにしよう。」

楽しそうにあれこれ考えている七海をテーブルから翔平が微笑んで見ている。

「ご飯を炊いて。

 あっ、炊飯器、あまり使っていないって言ってたっけ。

 さっと洗わないと。」


七海はテキパキと炊飯器の蓋やおかまを洗い、お米を研いだ。

そして、スイッチを入れると、次に冷蔵庫からキャベツと人参を取り出す。

「何か手伝おうか?」

七海の楽しそうな姿につられて翔平がキッチンにやってくる。

「翔平さん、料理できるのですか?」

七海は、翔平が料理できるとは信じがたかったので、聞き直した。

「まあね。

 で、何をすればいい?」

「そうですね。

 まずは、ワカメを水で戻してください。」

七海はあくまでも翔平の料理の腕前を疑っていた。


翔平にワカメを任せ、七海は冷蔵庫からキャベツと人参を出し、キャベツは大き目の葉を2枚剥き、2㎝幅くらいの食べやすいサイズに切り、ニンジンは半分に切り、ピーラーで皮をむき、薄くスライスする。

そして、フライパンに油を引き、人参、キャベツの順に炒め始め、途中でコショウと塩で味付けをしていく。

「へえ、上手だな。」

手際のよい七海に、翔平は舌を巻く。


七海は、返事の代わりに笑顔を向け、次にボールに生卵を3つ割り、砂糖と塩、そして牛乳を入れ菜箸でかき混ぜる。

「翔平さん、良かったらフライパンを洗って、火にかけてバターを引いてください。」

「はい。」

翔平が洗ったフライパンに火をかけ、バターを引き、溶け始めると、把手を持ってまんべんなく伸ばしていく。

(へぇ、翔平さん、少しは料理が出来るのかしら。)

七海は翔平の手つきを見て、感じた。


それからバトンタッチで、七海がフライパンに溶いた卵を流していく。

そして何層も流して、半円形に形を整えていく。

「やっぱり、丸いフライパンだと卵焼きの形が出来ないわ。

 オムレツ風だけど、勘弁してくださいね。」

翔平はそれで十分だと言わんばかりに頷いて見せる。

卵焼きが出来ると、また、翔平にフライパンを洗うのを任せ、七海は生姜焼き用の生姜を摩り下ろしていく。

「じゃあ、料理長殿。

 フライパンにサラダオイルを引いて、肉を並べて行っていいでしょうか?」

翔平のふざけたような言い方に七海は笑いながら「うむ」と答える。


肉が焼け始めると、七海は急いで肉をひっくり返し、そして、コショウと塩、そして摩り下ろした生姜とお酒を少し、そして醤油を入れ、味を作っていく。

キッチンは、生姜焼きの香ばしい香りが充満していく。

「うほ、美味そうだ。」

翔平は、その匂いにつられ、つい口走る。

七海は、翔平の反応を見て、今までになく料理が楽しいと感じていた。


肉が焼きあがると、レタスを2枚程剥いて、次にトマトを洗い、二つ切りにすると、芯の部分を器用に取っていく。

そして、取り終わったトマトをさらに四等分に切り、皿に盛って行く。

最後に夏みかんを2つ取り出すと、四つ切にして、周りの皮をむき、そのあと房を綺麗にむき果肉部分だけ綺麗に取り出すと、深めの皿に入れていく。

「あ、お味噌汁を忘れていたわ。」

七海は味噌汁を作っていなかったのを思い出した。

「お湯は沸かしてあるよ。」

翔平が指さす方を見ると、鍋の水が沸騰していた。

「ありがとうございます。」

七海は本ダシと味噌を溶いて入れ、ワカメを切り、鍋に入れると、一度沸騰させ火を止める。

ワカメの良い匂いが二人の鼻をくすぐる。


「さあ、できました。」

料理を始めて1時間位で、予定の品を作り終わると、12時を少し回っていた。

「ちょうどお昼だな。

 お腹も空いてきたころだよ。

 何か久し振りに手料理って感じで、美味そうだ。」

翔平はお世辞ではなく、心からそう思っていた。

七海は、翔平のセリフに満足そうにうなずき、鼻歌を歌うようにご機嫌でテーブルに料理を並べていった。

「翔平さん、一緒盛りでいいですよね?」

「ああ、もちろん。」

「じゃあ、席について。

 今、ご飯とお味噌汁をよそいますから。」

(なんか新婚さんみたい)

七海は一人でほくそ笑んでいた。


七海の料理は翔平にとって久々の御馳走だった。

ただ、生姜焼きの生姜の量が多く、少し辛かったが、それが逆に食欲をそそった。

「美味い、美味い。」

箸が止まらない翔平を見て、心底嬉しそうな顔をした。

その笑顔は、翔平が今までで一度も見たことのない、素敵な笑顔だった。

「翔平さん、卵焼きはどうですか?」

「美味いよ、美味い。」

「生姜焼きは?」

「絶品!」

「お味噌汁は?

 時間がなく、お出しが本ダシだったけど。」

「美味いよ。

 わかめの味噌汁なんてめったに食べないから、最高。」

「あ、私の分、少し残しておいてくださいね。」

「いや、早い者勝ちだ。」

翔平の冗談に、七海はコロコロと笑い、楽しそうに食事をする。


翔平の旺盛な食欲で、お皿のおかずが次々と消えて行く。

それを見て、七海は満足そうだった。

そしてデザートの夏みかんに手を出す頃、お皿は綺麗に空になっていた。

(すごい。

 全部綺麗になってる。

 喜んでもらえて良かったわ)

七海も夏みかんを食べ終わると、お皿を片付け始める。

「七海、僕も手伝うよ。」

「あ、いいですって。

 翔平さんは食休みをしていてくださいね。

 いま、食後のコーヒーも入れますから。」

「わかった。

 でも、運ぶの手伝うよ。」

翔平は立ち上って、食べた皿や食器をキッチンの流しに持って行く。


「すみません。」

七海は食器を受取ると手際よく洗い始める。

二人で協力してか、片付けもあっという間に終わり、七海はコーヒーを入れて、テーブルに運んで来る。

「ふぅ、ご苦労様。

 でも、久々にうまかったよ。」

「ありがとうございます。

 普通の料理しか出来なくて、申し訳ないです。

 翔平さん、やっぱり、フランス料理とか高級な料理が好きじゃないですか?」

七海は、上目遣いで尋ねてみる。


「いや、肩の凝るような料理とか、気取った料理よりも、こっちのほうが好きだよ。」

「よかった。」

七海は両手でマグカップを持ち、嬉しそうな顔でコーヒーを口にする。

そんな七海の仕草を見て、翔平は思わず見惚れていた。

食後の気だるい時間、二人は窓から見えるみなとみらいの風景を楽しみながらコーヒーを飲んでいた。

いつしか二人は無言となり、重い空気が流れ始める。


先に声を出したのは、七海だった。

「翔平さん、コーヒーのお代りは?」

「ああ、頼む」

七海は自分のマグカップと翔平のマグカップを持ってキッチンに行き、マグカップを濯ぎ、新しいコーヒーを入れる。

(翔平さん、これからどうするのかしら…。

 私と…。

 それとも、やっぱりその対象に見てくれないのかしら。

 私は、翔平さんなら別にいいのに…)

気が付くとマグカップからコーヒーが零れ始めていた。

(いけない。

 私ったら、ついぼんやりして。

 …

 ワンピースを着ていないから?

 ジーンズだから?

 私、魅力ないのかな。

 じゃあ、笑いかけてくれるのは?

 ご飯、美味しいって言ってくれたのは?

 …

 いけない、いけない)

様々な思いを頭に過らせながら、七海はコーヒーの入ったマグカップを持ってテーブルに戻る。


「はい、どうぞ。」

「ありがとう。」

差し出されたマグカップを受取ると、翔平は腕を上げて伸びをし、やおら、口を開く。

「七海、天気も良いし、ドライブしながら山下公園でも行こうか。」

その翔平のひと言に、七海は全身に電気が走ったように思えた。

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