第7話 Your Rule

3月の最初の土曜日。

七海は朝の9時少し前に家を出て翔平のマンションに向かう。

自転車に乗りながら、10日前に玲奈と会って話したことを思い出していた。

「七海ちゃん、HKL、翔平に決めたんだって?」

「はい。

 翔平さん、とても感じいい人で、この人なら問題ないかなって思って。」

七海はニッコリと笑って返事をする。

(あらあら、心配事が軽くなったって顔をして。

 この前までの思い詰めた顔はどこにいったのかしら。)


「金額も大丈夫?

 値切られたりしなかった?」

七海は首を縦に振る。

「想定額以上の金額を提示されて。

 土日だけの約束なのですが、こんなに貰っていいのかしら。」

「いくらで契約したかは、私は関知しないけど、その顔なら良さそうね。」

「はい。」


しばらく七海から翔平の印象の話を聞いてから、玲奈は切り出した。

「そうそう、HKLを始めるにあたって、大事なことが二つあるの。」

「なんでしょうか?」

七海は“なんだろうか?”と言うような顔で玲奈を見る。


「一つ目。

 七海さん、ピルを飲みなさい。」

「え?

ピル…?」

「知っているでしょ?

経口避妊薬のことよ。

保健で習わなかった?

まあ、いいわ。

家主とセックスする時は、病気をもらったり、望まない赤ちゃんをもらわないように、スキンは必ずしてもらうのよ。

それでも、スキンが破けたり、精液が漏れたりして完全な避妊にはならないの。

だから、ピルを飲んで避妊しなさい。

一人ではお医者さんに行くのは勇気がいるでしょうから、私の知りあいの女医さんを紹介するわ。

わたしの名前を出せば、すぐ処方してもらえるし、いろいろ親切に教えてくれるからね。」

七海は玲奈の言うことを、呆然と聞いていた。


「ちょっと、大丈夫?

 あなた、まだ学生でしょ?

 妊娠したら大変よ。

 それに、HKLの場合、妊娠したって、十中八九、家主は喜ばないわよ。

 だから、不幸な結果にならないようにしなくっちゃ駄目よ。」

七海は、HKLのLを始めて生々しく意識した。


玲奈の話を聞く前は、翔平と楽しい会話ばかりを思い描いていたので、尚更だった。

「病気…?」

「ええ、そうよ。

 性病はものによっては、全く気が付かない時もあるのよ。

 エイズや梅毒、その他山のように怪しい病気はあるわ。

 それらは年月をかけて蝕んでいき、将来、不幸が待っていることになるのよ。」

「でも、翔平さんは?」

「わかりっこないわよ。

 本人、その気がなくても、相手が保持していたらうつるだろうし、

 ものによっては、性交渉しなくても輸血や体液の交換だけでも発症する場合はあるわ。

 一応、HKLは、家主の血液検査の提示を必須条件としているのだけど、わかったもんじゃないわ。

 だから、自分の身を守るためにも、相手に必ずスキンをつけさせるのを忘れないで。」

「は、はい。」


七海は、どんどんと現実味を帯びてきて、身が緊張で硬くなるのを感じた。

(翔平さんも、男の人だし、ハンサムだからいろいろな女性と…)

七海の中に成人君主のように膨らんでいた翔平のイメージが一気にしぼんだ気がした。

(気を付けないと)


「それと、2つ目。」

玲奈は七海の顔の前に指を2本立てて見せた。

「家主が凄くいい人でも、ハンサム君でも、絶対に家主に恋をしては駄目よ。」

「え?」

玲奈のセリフは七海には意外だった。

(いい人だったら、そのまま本当の恋人になればいいんじゃない?)

そう考えていた。


「HKLは家主の空想、そんなもんじゃないわね。

 妄想の世界なのよ。」

「妄想の世界?」

「そう。

 自分の世界を共有してくれそうな女性にお金を払って実現させるの。

 だから、プロフィールに事細かく記入して、それに似合う女の子を待っているわけよ。

 そして、実際に会って、確かめ、いろいろな注文を出して、それを受け入れるかどうか、受け入れてくれると決まれば、月々の手当ての話になるのね。

 七海ちゃんは、何回会った?」


玲奈が尋ねると七海は「2回」と答える。

「え?

 たったの2回で契約したの?」

「はい。

 何かおかしいですか?」

玲奈のリアクションで七海は少し不安になった。

「今までの例だと最短で4回、マックス6回よ。」

(まったく、翔平はどういうつもりかしら。

 まあ、この子はそこそこ可愛いし、まあ、いいかぁ)

玲奈はきょとんとした顔で玲奈を見ている七海を見てため息をついた。


「で、話しの続きね。

 契約して手当を出すということは、家主はあなたたちに話した希望を実現してもらうために出すのよ。

 それ以上でも、それ以下でもダメ。

 希望が変わったら家主はあなたたちに相談し、契約の見直しをするの。」

「それって、もしかして、演技をすることですか?」

「そうよ。

 家主の希望にどれだけあったお手伝いさん、家政婦さんになれるかということ。

 つまり、家主はあなたを通じて自分の理想の家政婦を想像するの。

 裏を返せば、あなたたち個々の人格なんてどうでも良くて、言い方を変えると人格なんて無視しているのよ。」


(翔平さんは、そうは見えないけど。

 ちゃんと私のことを考えてくれているように見えるけど)

七海は、玲奈の言っていることを鵜呑みにできなかった。

「だから、たとえ恋をしても相手はあなたを見ていない。

 彼らの想像の世界の中のあなただけしか見ていない。

 お金が欲しいのであれば、彼らの気に入るように演技をするの。

 だから、恋をしては駄目。」

七海は玲奈の言うことがよくわからなかったが、とにもかくにも頷いて見せた。



「“恋をしてはいけない”か。

 確かに私は、そんな余裕もないし、お金をもらえるのだからきちんとお仕事をしなくちゃ行かないわよね。

 それと、セックスかぁ…。」

いままでセックスにいい思いがなかった七海には、少し憂鬱だった。

「まあ、少しの間、我慢すればいいだけ。

 それに翔平さん、良い匂いだし…。」

そういうことを考えながら七海は電車を乗り継ぎ、いつしか翔平のマンションの前に立っていた。

(この前は、私のことをお客さんだって言っていたから、部屋が綺麗だったかもしれない。

 今日、部屋に入ったら、ごみ溜めのように散らかっていたりして。)


七海は、いろいろと想像しながらドアフォンを押した。

「七海さん、鍵開いているからね。」

中から翔平の声が聞えた。

七海は頭の中で色々なことを考えすぎて、エントランスでインターフォンを押して中に入れてもらったことを忘れかけていた。

そして、ドアの前でも、翔平が豹変して、いきなり襲い掛かってきたらどうしようとか、あらぬ空想をして立ち止まっていた。


七海がなかなかドアを開けないでいると“ガチャ”とドアが開き、中から翔平が顔を出す。

「七海さん?

 どうかしたの?」

翔平は休日バージョンのぼさぼさヘアーにベージュのチノパン、赤色と茶色チェックのブラウスを着ていた。

そして、いつも見る、優しい笑顔をしていた。

(そうよね、翔平さんは優しいし、紳士的だから考えすぎよね。)

七海は、翔平の笑顔を見て、少し安心した。

「さあ、外は寒いから、中に入って」

頃は3月の上旬で、春と言えどもまだまだ寒い頃。

七海は翔平に促させ中に入る。


「脱いだコートはこれに掛けて」

そう言って翔平はハンガーを七海に渡し、七海はコートを脱ぐと渡されたハンガーにかけた。

「貸して。

ここでいいかな。」

玄関を入った横にコートをかけるようなハンガー掛けが2つ並んでいて、片方には翔平のコードが掛っていた。

そして開いている方のハンガー掛けに、七海のコートをかけた。

「すみません。」

七海は小さくお辞儀をする。

リビングに入ると、この前と同じように陽の光で部屋の片隅まで明るかった。


(あら?)

七海はこの前と部屋の中が変わった感じがした。

「ああ、洋室の境の戸を開けたんだよ。

 洋室と言っても寝室代わりに使っているんだけどね」

前回来た時は、仕切り戸のせいで何も感じなかったが、仕切り戸がなくなり、隣接する洋室が現れると、あらためて部屋の中の広さを感じた。

そして洋室には、ガラスのサッシと並行して、壁側にセミダブルのような大きいベッドが置かれていた。


床はリビングから洋室までフローリングになっていて、ベッドとガラスのサッシとの間には濃いベージュの落ち着いた柄のカーペットが敷かれていた。

それ以外は、洋服を畳んでしまうタンスが置いてあるほかは、何もないと言っていいほどだった。

それが、七海には違和感を覚えた。

(こんなに明るくて気持ちいい部屋なのに、生活感がまるでない…。

 翔平さん、寂しくないのかしら。)


「さあ、荷物を置いたら、あらためて部屋の中を説明するからね。」

翔平の声に七海は急いで背負っていたリュックを降ろして床に置こうとした。

「リュックは、椅子に掛けておけばいいよ。」

そう言われ七海は「はい」と答えるとリュックを椅子に掛けた。

それから、七海は各部屋を翔平に案内され説明を受けていた。

バスルームでは、洗面所の広さや浴室の広さに驚き、トイレは広く、最新のウォシュレットが設置されていた。

(我家とは大違い…)

七海はつい自分の住んでいるアパートと比較してしまう。

七海のアパートの浴室は狭く大人一人が着替えるくらいのスペースしか洗面所はなく、浴槽も正方形に近く、膝を追って入らないと浸かれないくらいの狭さだった。

トイレは様式だったが引っ越してきた時はウォシュレットなどがある訳ではなく、数年前、ホームセンターで安売りをしていたのを買ってつけたくらいだった。


翔平の部屋のキッチンは広く、ゆったりと調理ができ、調理器具などの収納庫も多く、大きな食器棚が置いてあったが、ほとんど何も入っていなかった。

炊飯器や電子レンジなどの調理器具も置かれていたが、あまり使った形跡がないように思えた。

「翔平さん、自分で料理はしないのですか?」

「そうだね。

 一人暮らしをし始めてから、殆ど作らないな。

 仕事も忙しかったので、外食か弁当を買ってきて食べるくらいかな。」

「そうなんですか…。」


そして七海の目に、キッチンの隅に置かれていたゴミ袋が飛び込んで来た。

「翔平さん。

 ひょっとして、今日は可燃物のごみの日では?」

「ああ、そうだけど。

 もう時間も遅いし、また今度にしようかと思って。」

「私、捨ててきます。

 他にゴミはないですか?」

見渡すとベッドの横にゴミ箱があるのが目に入った。

七海はゴミ袋を手に取るとベッドの横にあるゴミ箱に近づいて行った。


その時、運悪く、カーペットの段差に足を盗られバランスを崩し、ベッドに手をつくと、ベッドから“ぽとっ”と四角い箱のようなものが入った薬局の紙袋がゴミ箱に落ちた気がした。

(あら?

 何か落ちたかしら)

七海は気になってゴミ袋の中を見ようとした。

「だ、大丈夫?

 ゴミはまた来週に僕が出すから、無理しないでいいよ。」

「いえ、大丈夫です!」

翔平の声に、七海はゴミ箱に落ちた紙袋のことを忘れ、ゴミ箱の中のゴミを上からゴミ袋に空けた。


その後、各部屋のごみを集めたが、スーパーのレジ袋分くらいのゴミしかなかった。

(綺麗好きなのかしら)

七海には、男の一人暮らしの割に、ゴミがほとんどなく綺麗なのが信じられなかった。

(そうだ。

 もう一部屋あったわ。

 さっき説明してくれなかったけど、玄関を入ってすぐの部屋。

 そこのごみも捨てなくっちゃ)


七海はそう思いながらゴミ袋を持って玄関横の部屋のドアを開けようとしたその瞬間突き飛ばされるような衝撃を受け、よろけてしまった。

「この部屋は立ち入り禁止だ。」

ドアの前には七海とドアの間に割り込むようにして見たこともない怖い顔をした翔平が立っていた。

「しょ、翔平さん…?」

恐怖を感じ驚いた顔で立ちすくんでいる七海を見て翔平は我に返ったようだった。

「ご、ごめん。

 大声を出して、すまなかった。」

そう言って何度も頭を下げる翔平を見て、七海は落ち着きを取り戻した。


「翔平さん?

 どうしたんですか?

 この部屋に何があるんですか?」

女性の勘というのは鋭いものだと翔平は感じた。

「いや、この部屋は書斎代わりに使っていて…。

 あと、仕事のパソコンが置いてあって、企業秘密の資料もあるんだ。

 なので、誰にも入ってほしくないんだ。」

「え?

 翔平さん、お家でも仕事しているんですか?

 そんなに大変な仕事なんですか?」

七海は翔平の言うことを素直に聞いて、なおかつ、翔平を心配し始めていた。


「家で仕事なんて、身体休まらないじゃないですか。

 具合が悪くなちゃいますよ?」

七海の態度が驚きから心配に変わったのを見て、翔平は心の中でほっとした。

「そうだね。

 気を付けるよ。

 それに、中は自分のやりやすいようにいろいろなものが置いてあるから、変えてほしくもないんだ。

 だから、この部屋には入らないでね。」

「はい、それはいいのですが、お掃除はどうしますか?」

“仕事熱心だな”と翔平は心の中で感心した。


「この部屋は、契約の対象外。

 だから気にしないでな。」

「そう言うなら、わかりました。

 でも、ゴミは?」

「いいの!」

七海は翔平の可笑しそうに言うのを見て、先ほど翔平が怖い顔をしたのは、余程大事な仕事の資料があるのだろうと素直に信じ、それ以上は考えるのは止め、それよりもゴミの時間が気になり始めた。


「じゃあ、翔平さん。

 私、ゴミを捨ててきますね。」

七海は靴を履くと、玄関からエレベーターホールに向かって行こうとした。

「七海さん。

 だめだよ。

 エレベーターにゴミ袋を持ち込んだら苦情が出るよ。」

「え?

 じゃあ、いつもどうやって捨てているんですか?

 まさか、階段?」

「いや。

 各階にあるダストシューターに入れるんだよ。

 ほら。」

そう言って翔平はエレベーターホールの片隅にある60cm四方の上部に引手のついた扉を指さした。


「え?」

七海が戸惑っていると、翔平はその扉に近づき取っ手を掴んで手前に引く。

すると、扉は塵取りのような格好をしていて、そこにゴミ袋を乗せるように七海に合図する。

七海は、素直にそこにゴミ袋を乗せると、翔平はそのまま扉を閉める。

すると中の方で、ゴミが落ちていくような音が聞えた。

「ゴミはここに、こうやって入れるんだよ。

 可燃物と資源ごみと扉が違うから要注意。

 あとガラス瓶はそこの籠に入れておけば、管理人さんが回収してくれる。

 それと、不燃物は各自、地下にある収集箱に持って行くんだよ。」

「へぇ~。

 なんてらくちんなの。」

七海は、いつもゴミの日には母親に変わってゴミを出しに、アパートから100mくらい先の収集場所まで雨の日でも風の日でも持って行っていたので、唖然としていた。


「さあ、戻ろう。」

「はい。」

七海は翔平の後ろをついて歩きだしたが、ダストシューターが気に待ったのか、何度もダストシューターの方を振り返っていた。


「さあ、次はお掃除です。

 翔平さん、はたきはありますか?」

「あるけど、それよりも、これ。」

翔平はいつの間にか手に持っていた封筒を七海に差し出す。

最初何かわからずに手を出した七海だが、すぐに気が付くと受け取った封筒を胸に抱き、深々と翔平にお辞儀をする。

「ありがとうございます。」

七海はにこりと笑顔を見せ、自分のリュックのあるところに行き、封筒をリュックに仕舞おうとした。


「確かめなくていいの?」

翔平が声をかける。

「え?」

七海には翔平が言っている意味がわからなかった。

「どんな人間でも、機械でも100%はないんだよ。

 間違えているかもしれないから、きちんと確認しないと駄目だよ。」

翔平は優しく諭す。

七海は頷いて、封筒を開け、中の一万円札を数え、頷くと、リュックにしまい込んだ。

(これで、今月の家賃と光熱費を払っても、お釣りがくる)

七海は久々に気分が軽くなる気がしたが、それと同時に契約が続くように頑張らなくてはと自分に言い聞かせた。


「さて、お掃除をしますね。

 はたきは…。」

「はたきはないけど、代わりにウエーブならあるよ。」

翔平は埃とりの化学雑巾のような掃除道具を渡した。

七海はそれを受取るとキッチン、リビング、洋室、バスルームにトイレと棚や台の上の埃を絡めとっていく。

それが終わると、掃除機を受取り、丹念に各部屋の隅々まで掃除機をかけていく。

掃除機を軽くかければ、10分15分で終わるところを、丁寧に1時間近くかけ掃除機をかけていった。


「あら?」

途中から翔平がマスクをするのに気が付いた。

「翔平さん、もしかして花粉症ですか?」

「あれ?

 言ってなかったっけ?

 ひどい花粉症なんだよ。

 だから手短に終わらせて、窓を閉めてくれないか?」

翔平の表情はマスクでわからなかったが、目が笑っているようで、怒っている雰囲気ではなかった。

「す、すみません。

 急いで終りにしますね。」

七海はそう言うと掃除をする手を速めた。


外から入って来る空気は冷たかったが、七海のおでこは薄らと汗で光っていた。

「終わりました。」

七海はそう言うと掃除機を片付け、急いで窓を閉めると、翔平は、各部屋に置いてある空気清浄機のスイッチを入れて歩いた。

「お疲れ様。

 少し休んでね。」

翔平に言われ七海は椅子に座り時計を見る。

時計はいつの間にか午前11時を少し回ったところだった。


「コーヒーでいいかな?

 紅茶やココアもあるけど、何がいい?」

キッチンから翔平が声をかける。

「うち、ココアがいいねん。」

一休みして気が緩んだのか七海は関西弁になっていた。


「あ、違います。

 翔平さん、私がやります。」

七海は立ち上ると、急いでキッチンに向かうと、翔平は棚からココアのパックを取り出しているところだった。

「翔平さん、うちが…」

七海が手を伸ばすと、ココアのパックを持った翔平の手に触れた。

「あっ。」

七海は小さく声を上げると、慌てて手をひっこめる。

「翔平さん。

 私、今日からは、お客さんじゃないので、私がやります。」

翔平は、笑顔で頷くとココアのパックをカウンターに置く。


「翔平さんは、コーヒーでいいのですよね?」

そう言いつつ、七海はインスタントのコーヒーしか入れたことが無かったので、ドリップ式のコーヒーをどうやって入れたらいいかわからなく、上目遣いに翔平を見つめる。

「翔平さん…。」

「まず、このコップの上にドリッパー…、その上呂の先っぽみたいな奴、それを置いて。」

翔平は直ぐに察しがついて、七海に教え始める。


「そう、そうしたら、今度はペーパーフィルター。

 そのままじゃなくて、接着面の下と横を折って。

 そう、そんな感じ。

 そうしたら、開いてドリッパーの中にセットして。

 そうだ。」

七海は覚えようとして必死だった。

「次に、コーヒーの粉。

 そう、その缶に入っている粉。

 缶の中に専用のスプーンが入っているから、このコップなら山盛り1杯と半分入れて。」

翔平のコップは前に来た時のティーカップではなく、犬の模様が印刷してある多く目のマグカップだった。


「そうしたら、ポットの下に持って行って、お湯を全体的に湿らす程度に掛ける。」

「湿らす程度に?」

「ああ、少しそうやって蒸らすと、コーヒーの美味しい成分が良く染み出るようになるんだよ。」

「へえ、そうなんですか。」

七海は興味津々に言われた通り、お湯を少量、まんべんなく掛けていく。

するとコーヒーのいい香りが漂ってくる。

「あ、いい香り。」

「そうしたら、数滴、カップに落ちたら、お湯を注ぐ。

 但し、一気に上まで“ドバー”じゃなくて、粉の少し上まで。

 それを何回か繰り返して、いっぱいにしていくんだよ。」

「はーい。」


「じゃあ、それをやりながら、七海さんが飲むココアを入れてね。」

「翔平さんは、ココアも好きなのですか?」

「いや、普段は飲まないよ。

 七海さんが好きかなと思って、この前たまたま目に入ったので、買っておいたんだ。」

「え?

 私用に?

 ありがとうございます。

 翔平さん。

 …。

 …。

 あの、“さん”付けしないで“七海”でいいです。」

「え?

 そう…。」

翔平は人差し指で鼻の頭を掻く。


二人はコーヒーとココアを入れ、テーブルの椅子に腰かける。

リビングにコーヒーとココアの香りが入り混じって、甘い良い香りになっていた。

「お、美味い。

 初めてにしては、上出来だ。」

翔平はコーヒーを一口飲むと、七海に笑顔を見せる。

七海は肩をすぼめて、嬉しそうにはにかむ。

「そうだ、私も、今度、自分用のコップを持ってきますね。

 私だけ、こんなお洒落なテーカップ使って、もし、割ったりしたら大変だし。」

七海はソーサーのついた花柄の高級そうなティーカップを見て言った。

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