第6話 扉

次の週の日曜日。

七海は渡された地図を頼りに、翔平のマンションに向かっていた。

その日は、寒い日で、海風が冷やされ少しもやがかかっていた。

その中を、七海は急な坂道を登っていた。

まわりの靄が登山でよく出るガスに似て、本当に山登りだと思うほどだった。

しかし、坂道を上り詰めると、靄は晴れ、陽が射していた。


七海は雲の上に出たような気がして、なんとなしに気分が軽く、楽しくなっていた。

「わっ!

 あれが翔平さんの住んでいるマンション?」

七海の眼の前に、5階建ての横に広々とし、新築ではと思えるほど、お洒落で綺麗な高級マンションが建っていた。

しかも、靄の水滴が建物についていたところを陽の光で、まるで宝石のように輝いていた。

「すごいなぁ。

 家のアパートとじゃ大違い。

 同じ人間なのに、人種が違うっていう感じ。」

七海は素直な感想を漏らした。


それから玄関のインターフォンの前で教えられた部屋番号を押す。

玄関はオートロックで、また、内側には管理人と思われる男性が窓口から七海の方を見ていた。

「はい。」

インターフォンから聞き覚えのある翔平の声が聞える。

「七海です。

 西山七海です。」

「いま、ロックを開けるから、開いたら中に入ってね。」

そう言ってインターフォンが切れると、オートロックのドアが開き、七海はドアの中に入った。


管理人室から七海をじっと見ていた管理人に「こんにちは」と声をかけてお辞儀をすると、七海を来客と認識したのか管理人も笑顔で会釈する。

その管理人室の前を通り、教わったようにエレベーターホールに行き、上へのボタンを押す。

エレベーターは地下2階から地上5階まであり、地下は、主に居住者の駐車場になっていた。

また、通って来たエントランスは大理石のようなピカピカの床や壁、お洒落な採光など高級感あふれていた。

「外も凄いけど、中も凄い。」

七海はただただ圧倒されていた。


エレベーターで5階に行き、エレベーターホールに出ると、壁一面窓ガラスのようになっていて、開放感があった。

ただ、海側は居住者の部屋からでなくては見えず、廊下は逆方向の景色だった。

しかし、それでも、ビジネスパークなどのビル群が見え、下を電車が走っているのが見えた。

(やっぱり高台だと、眺めはいいわね)

そう思いながら七海は翔平の部屋を探し、ドアフォンを押す。

「はーい」と中から翔平の声が聞え、すぐにドアが開いた。


「!」

ドアが開くと、陽の光に包まれるような気がして、七海は思わずたじろいだ。

玄関ドアから廊下を通って、リビングまでは一直線。

リビングと廊下を仕切るドアが開いていたので、リビングに差し込んでいた陽の光が玄関まで伸びていた。

「す、すごい。

 明るい」

玄関で立ち尽くす七海を翔平は手招きをする。


明るさに目が慣れてくると、この前とは打って変わってぼさぼさ髪の翔平が笑って立っていた。

翔平の服装もGパンに、ブラウス、上に紺色のセーターといったラフな格好だった。

しかし、七海には、その姿も好感が持てた。

「さあ、玄関に立っていないで、中に入って。

 何もなくて殺風景だけど、気にしないで入って。」

「は、はい。」


七海は靴を脱ぐと、翔平の後ろに付いてリビングに入る。

リビングの正面には壁のかわりに大きな透明のサッシの窓があり、そこからベランダに出られるようになっていた。

「す、すごい…。」

七海が引かれたのはその窓から見る風景。

真正面にベイブリッジ、左側にはみなとみらいの観覧車や建物、そして横浜港や東京湾が一望できる開放的な風景だった。

「気に入ったかな?」

ひたすら声もなく外の風景の虜になっている七海に、翔平は声をかける。

「あっ、すみません。

 つい、すてきな景色だなって思って。」

七海は我に返り、翔平の方を向き、また、部屋の中をキョロキョロと見回した。


リビングは、恐ろしいほど何もなく、ダイニングテーブル一式と、壁のところにはサイドボードが置かれ、その上にテレビとオーディオが並んでいた。

オーディオといっても、ウォークマンやiPodをつなげてスピーカーから音を出して楽しむ程度のもの。

そのリビングの先には、仕切り戸が閉められていたが、何か部屋があるようだった。

「ああ、あの扉の向うは寝室だよ。

 今日は散らかっているから締めているだけ。」

七海の視線に気が付いて、翔平が説明する。

(どんな部屋何だろう)

七海は少し気になったが、オーディオから七海も知っている女性グループの歌が流れているのに気が付いた。


「ノギザカ?」

七海は音楽を聴きながら、ぼそっと呟く。

「その通り。

 実はファンでね。」

「え?

 まさか、コンサートも?」

「え?

 うーん、まあ…。」

翔平は、右手の人差し指で鼻の頭を掻く。

(だから、ワンピースが似合う女性がいいってプロフィールに書いたんだ)

七海は、何となく翔平のことがわかり、吹き出しそうになった。


「さあ、そんなことよりも、お腹は?」

「え?

 ええ、昼食は済ませてきましたので大丈夫です。」

時計は午後の2時を差していた。

「そうか、じゃあ、お茶にしよう。

 コーヒーでいい?

 それとも紅茶?」

「何でも大丈夫です。

 翔平さんは何になさいますか?」

「うーん、お茶菓子を買っておいたから、コーヒーにしよう。」


キッチンもリビングに続いていて開放感があり。調理場もリビングに向いているので外の風景を見ながら料理もできた。

「あ、翔平さん。

 私、手伝います。」

七海は腰を浮かせ椅子から立ち上ろうとした。

「いいよ、今日は、まだお客様だから。」

翔平は笑いながら、コーヒーをドリップしていく。

すると、ほのかにコーヒーのいい香りがリビングに漂ってくる。

(コーヒーのいい香り。

 あ、そう言えば…)

七海は急に思いだす。

玄関から入ってから、埃臭いとか、男臭いとか、きつい芳香剤の嫌な匂いが一切しておらず、逆にほんのりと七海が好きな匂いがしていることを。


「はい、お待たせ。」

七海の眼の前にお洒落なティーカップに入ったコーヒーが置かれた。

その時、コーヒーの良い匂いとともに、七海の好きな匂いがほんわりと漂ってくる。

匂いは、七海の横に立ってティーカップを置いた翔平からだった。

「どうしたの?」

まじまじと翔平を見つめる七海の視線に気が付いて、翔平は笑顔を見せて尋ねる。

「え?

 いえ…、あの…。」

「なに?」

何と聞いていいのかわからずに七海はストレートに聞いてみることにした。


「は、はい。

 翔平さん、なんていうオーデコロンをつけているんですか?」

「え?

 オーデコロン?

 残念だけど、持っていないよ。」

「じゃあ、芳香剤は?」

「僕は匂いのきついのは駄目だから、持っていないよ。

 それに花粉症なので、ちょっとした刺激でもくしゃみ鼻水が止まらなくなるんだよ。」

「えー、じゃあ、そろそろ嫌な季節ですか?」

「ああ、その通り。

 七海さんは、花粉症は大丈夫かな?」

「はい、全く平気です。」

七海はふと、話しが脱線したことに気が付いた。


「あの…。」

「なに?」

翔平の笑顔が七海を話しやすくする。

「翔平さんの部屋や、翔平さんから良い匂いがするんですけど、何かつけていますか?」

「それで、オーデコロンとか芳香剤って言ったんだね。」

七海は、小さく頷く。

「残念だけど、何もつけていないよ。

 でも、良い匂いがするなんて言われたのは、初めてだな。

 強いて言えば、石鹸の香りが好きで、お風呂の石鹸とか良い匂いのするのを選んでいるよ。

 あと洗濯石鹸も。

 その匂いじゃないか?」


確かに今時は洗剤や消臭、柔軟剤といろいろな香りが出て、良い匂いのするのも多くあったが、七海の知っている中で、今漂っているような香りのものはなかった。

なので、七海の“男一人の部屋”イコール“汚い”ד臭い”のイメージしかなかった七海には不思議でたまらなかった。

「ケーキ、食べる?」

翔平は不思議そうに部屋中を見回している七海を見て笑いながら声をかける。

「は、はい。」

「じゃあ、ちょっと待ってね。」

翔平はキッチンの方に戻って行き、その先にある冷蔵庫のドアに手をかけた。

冷蔵庫は野菜室、冷凍室、冷蔵室と3段に分かれ、両開きの大きいものだった。

(すごい、大きい。

 でも、一人暮らしなんだよね。

中味、入ってなかったりして…)

七海には一人暮らしなのに大家族用の大きさの冷蔵庫が不釣合いの気がした。

翔平は七海の視線に気が付かず冷蔵庫のドアを開け、中からケーキの箱を取り出す。

冷蔵庫の中は七海が想像した通り、ほとんど何も入っていなかった。


翔平はケーキの入った箱とケーキをのせる皿、そしてフォークを持って戻って来る。

「何が好きかわからなかったから、イチゴショートとチョコレートケーキだけど、どっちがいい?」

ケーキの包装紙は有名な店の物で、取り出したケーキもイチゴショートはイチゴが、チョコレートは、削ったチョコがふんだんにのっていて、どちらも美味しそうだった。

「いいんですか?」

七海がすまなそうに言うと、翔平はニッコリと頷く。

(そう言えば、翔平さん、この前チョコレートパフェ食べていたなぁ。

 きっとチョコレート好きなんだろうな)

七海はイチゴもチョコレートも、どちらも好きだったが、チョコレートを翔平に譲ることにした。


「じゃあ、イチゴショートを頂きます。」

七海はイチゴショートを選び、一口食べてみた。

イチゴショートはイチゴの甘酸っぱさと、生クリームの濃厚な甘さ、スポンジの柔らかさが一体となって美味しかった。

「美味しいー!!」

七海はつい声を出した。

「よかった。

 駅のデパートに入っているお店で、結構並んでいたから美味しいと思ったんだ。」

「じゃあ、翔平さん、このお店のケーキは初めて?」

「ああ、そうだよ。」

「不思議。

 わかってて買ったんじゃないんだ。」

七海と翔平はケーキを食べながら会話を楽しんでいた。


そして、一段落したころに、翔平が話を切り出す。

「で、七海さん。

 HKLはどうします?」

七海は顔を緊張させる。

「私、料理や家事は、この前お話した通りです。」

「それなら十分だよ。」

「それと、ワンピース、持っていません。」

「え?」

翔平は普通、女の子なら1,2着は持っているものと思っていたので絶句した。


「やっぱり、ワンピースないと駄目ですよね。」

「いや、それは別に考えよう。」

「あと…、セックスですが…。」

七海は顔どころか耳まで真っ赤にした。

「あまり思い詰めなくてもいいよ。

 自然に求め、自然に受け入れてくれればいいから。

 それに、いやなら契約を解除しても構わないから。」

翔平の優しいセリフに七海の心は固まっていた。


「契約結んでいただけますか?」

七海は、恥ずかしそうに言う。

「じゃあ、後は月々のお金だね。

 希望はいくら?」

“いくら欲しい”と言われたらきっと七海は、さっと波が引くように気持ちも萎えていたが、翔平の対等な言い方が七海を勇気づける。

そうは行っても、金額を自分から切り出すのは勇気がいることで、また、いくらが妥当かを何日も迷っていた。

そして、出した答えが、ハウスキーピングが1回八千円なので、八千円×土日の日数と切り出そうとした。


「あの、八千…。」

「10万でどう?」

七海のことを遮って翔平が提案した。

「え?

 そんなに?

 月によって土日の日数も異なりますよ。」

「少ない時もあれば、多い時もあるから大丈夫。」

「さ、祭日はどうします?」

七海は祭日のことを相談していなかったことに気が付いた。


「あくまでも土日だけ。

 祭日はいいよ。

 自分の時間も持ちたいし。

 年末年始はお休み。

 年末年始はだいたい12月29日から1月4日までお休みなんだ。

 その間は、土日があってもお休みにしよう。

 だからといっても契約金は変えません。

 あと具合が悪くなったとか、急用ができて来れなくても、その分、引くことは考えていない。

 ただ、さすがに一月も来なかったら、契約自体を考えさせてね。」

七海は当然だと言わんばかりに大きく頷く。


そして、七海には翔平の申し出が破格の対応のように思えてならなかった。

(10万あれば、家賃に光熱費を払ってもお釣りがくる。

 食費は、まだ貯えで卒業するまでは何とか持つわ。

 卒業して、普通の会社に就職すれば。

でも、ほんとうに良いのだろうか…)

七海は何と返事したらいいのかわからなくなっていたが、翔平の「どう?」という問いかけに小さく頷いた。


「じゃあ、今、2月も半ばだから3月からでお願いしていいかな。」

「はい。

 あの…、私もお願いがあるのですが。」

「ん?

 なに?」

「月々の手当てですが、月初にいただけませんか?」

お金に窮している七海は、ともかく早く、まとまった金額を手にして安心したかった。

「本当なら、1か月の働きを見ていただくのが筋なのでしょうが…。

 先に…」

「いいよ。」

「え?」

「それでいいよ。」

翔平の笑顔を見て、七海は嬉しさがこみ上げて来るのを感じた。

それが、七海と翔平のHKTのスタートだった。

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