107.最後の言葉と最後の刻


 夜風を浴びてエンプティオの空を眺める。

 自らの行く末を諦観しながら。

 ナルヴィンは徐々に失われていく自我をなんとか保ちながら、最後の記憶に故郷を刻み込む。


「アルミリア様······。ついに私にも順番が回って来たのですね······。でも見ていて魔王······ください。必ずやバティがあなたのまお······我儘を止めてくれますから。まお······」


 そう呟きながら故郷の綺麗な夜空を見上げる。

 星々が煌めく賑やかな夜空を。

 侵されていく自我。

 でも不思議なことにそこに恐怖はない。

 バティなら必ずや使命を果たしてくれる。

 そんな確信がナルヴィンの心にはあった。

 根拠なんて何も無い。

 でもなぜかナルヴィンがその確信を疑うことは欠片もなかった。


 これまで大司祭として信心深く、純に信仰してきた女神のうちの一柱であるアルミリア。

 そのアルミリアがまさか人生の最後に敵になるとは夢にも思わなかった。

 信じてきた女神からの最後の贈り物がまさか裏切りだったとは。

 その様を見つめながらただ傍観することしかできない己の無力を呪ったこともあった。

 大司祭という唯一、二柱の女神の声が聞ける者として民のために何も出来ない自分が悔しくて堪らない時もあった。

 でも、今は違う。

 託したのだ。

 ナルヴィン自身の最後の想いを。

 最も信用に足る人物に。

 だからもう、悔いたりしない。

 そんな想いを込めて両の手を胸の前で結ぶ。


「バティ······頼みましたよ」


 それがナルヴィンの最後の言葉となった。




___________________________________





「置いていかないでくれ、ミーシャ!」

「何言ってるのよ! はやくしなさいよあなた!」


 2人は駆ける。

 生きるため。

 2人は駆ける。

 恐怖から逃げるため。


 部屋から飛び出したヘイグとミーシャは王宮にあるであろう地下へ向けて階段を駆け下りていた。

 見てしまった。

 恐怖の化身を。

 眼が合った。

 たったそれだけ。

 たったそれだけの事のはずなのに身の毛もよだつような恐怖が脳裏にこびりついて離れない。

 総毛立つとはこういう感覚かと2人は今、身をもって体感していた。

 震える脚に鞭を打ち必死に動かす。

 背中を嫌に冷たいものが伝う。

 そんな状態だから、もはやなりふり構っていられない。

 走り方もめちゃくちゃになりながらもがき続けてその脚を動かす。

 そうこうしているうちについに2人は王宮の1階へと辿り着いた。

 降ってきた階段もそこで途切れている。


「あなた! ここから先はどっちに行けばいいの!?」

「し、知らんぞ! はぁはぁ······。なあ少し休まんか? も、もう脚が······」


 そう言ってヘイグは壁にもたれかかりながら、ついにはへたりこんでしまった。

 その様をミーシャはキッと睨みつける。


「何言ってるの!? まったく肝心な時に使えないんだから······! そんなとこでへたばってないで、早く行くわよ!」


 そう言ってミーシャはヘイグに背を向ける。


「ま、待ってくれ! ほんとに少しだけじゃ······。な! 頼む! 少しだけ······」


 そう懇願するヘイグは無様そのものだった。

 息も絶え絶え、疲労と恐怖から身体をガクガクと震わせている。

 そうなるのもヘイグの老体を思えば当然といえばそれまでではあるがミーシャにそんなことは関係ない。

 今なお聞こえてくる魔人の地を揺らす足音。

 その音は刻一刻と我が身の元へ迫っている気がしてならなかった。


 “恐ろしい”


 そんな言葉ですら軽く感じてしまうほどの恐怖がその肩に重くのしかかる。

 だからこそもう一度旦那を睨みつける。


「あなたはこんなとこで死ぬって言うの!? こんな訳の分からないとこで訳の分からないうちに······! 私はごめんよ! ここに留まりたいって言うならもう勝手にしてください! 私は行きますからね!」


 そう言い残して駆けだす。


「そ、そんな······。待ってくれ! わしも行くから!」


 遅れてヘイグもその脚に鞭打ち、必死に前へ踏み出す。

 もう老体だの疲れただの言い訳していられないことはヘイグだって重々承知していた。

 その肩にのしかかる恐怖はどれだけ腕を振ろうと、どれだけ脚を前に運ぼうとぬぐい去ることはできない。

 それほどまでの恐怖がたったあれだけ、瞳を見てしまっただけで心の奥底に植え付けられてしまったのだ。

 瞼を閉じれば今なお鮮明に浮かんでくるあの無垢な瞳、禍々しい紫の筋、殺気のみを放つあの体躯。

 走りながら股間に湿りを感じる。

 知らず知らずのうちにヘイグは失禁していたのだ。

 それでも前を走るミーシャを追いかけて地下への逃げ道を探す。


「はぁはぁ······。ミーシャ、階段はまだ見つからんのか!?」

「そんなの見たらわかるでしょ!? 無駄口叩いてないであなたも探してよ!」

「あ、あぁ······」


 ミーシャの剣幕に若干怯みつつ、必死に周囲に眼を配る。


 もう、どれだけ走っただろうか。

 広いこの王宮を駆けずり回る2人。

 その2人を嘲笑うように地下への入り口は一向にその姿を見せない。

 そしてついには廊下は行き止まりとなってしまった。


「はぁはぁ······嘘······でしょ? ここまで入り口は無かったのよ!? はぁはぁ······」

「わしも······はぁはぁ······見つけれなかった。はぁはぁ······」


 そう言いながら2人はよろよろと行き止まりになっている壁にもたれかかった。

 そしてずりずりと背中をすりながらついには座り込んだ。

 もう体力も限界。

 精も根も尽き果てた2人は自然と身体を寄せ合って座っていた。

 背もたれにしている壁の冷たさがやけに身体に響いてくる。

 逆に互いの身体の温もりがとても愛しくて恋しくて。

 気付いたら2人は手を握りあっていた。

 人生の最後の刻、それを夫婦として添い遂げよう。

 2人の気持ちは自ずと1つの方向へと向いていた。

 夫婦の愛を互いに感じ合う。

 そうして握りあった手をことりと地べたに重ね合わせた時だった。


“コトン”


 石と石がぶつかり合う小さな音が鳴る。


「今の、なんの音かしら······?」

「さぁ······?」


 そして――


“ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ”


「わ、わ! なんじゃ!?」


 突然鳴り響いた大きな音。

 それと同時に頭上から砂埃が降り掛かってきた。

 慌てて2人はその場から離れる。

 見ると壁が少しずつ左右に分かれ始めていた。


「さっきの音ってもしかして······」

「えぇ、隠し扉のスイッチだったみたい······」


 そして2人の目の前には念願の地下への入り口がぽっかりと口を開けたのだった。




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