裏 岸川先生は甘やかしたい 4

 今日こそ海原の家に夕食を作りに行きたかったのだが、連絡をするタイミングを逸してしまった。というより、私も先生であって、同時に一人の大人だと思っているので、生徒に学校でチャットを送ることには遠慮がある。

 そう言いつつも授業の合間にメッセージを送ってしまうこともあるのだが、その時でも海原は律儀に返してくれる。インテリヤクザと呼ばれているのは不本意だと言っていたが、その彼が休み時間にスマホを操作しているところは、クラスメイトからは少し印象が変わって見られるようだ。

海原は人見知りをするというか、周囲にバリアを張ってしまうことがあるので、きっかけは何にせよ、そのバリアを和らげることさえできればと思う。教師は生徒の人間関係についても、可能な限り良い方向に向かうように見守るものだ。

 空野と海原のことについても、過去に何かあったのだとしたら、和解することができればいいと思う。私がそんなことを思うのは、お節介になってしまうだろうか。

 放課後、プールにやってくる。部員たちには日曜日も練習に出てもらっているので、月曜はトレーニングか、家での自主トレをするように指導している。

 私はプールに顔を出すので、部員が自主的に泳ぎに来る分には指導を行う。誰も来ていないようなら、ひと泳ぎしてプールの点検をして帰ろうと考えていた。

更衣室で着替えて出てくると、一人の部員がプールサイドでアップを終えて、これから練習を始めるところだった。

「……お疲れ様です、岸川先生」

「うん、お疲れ様……空野は一人で練習していくのか?」

「はい。他の子たちは、ちょっと疲れてるみたいで……私は三十分くらい泳いでいこうかなって」

「昨日もかなりきつい練習をしたから、休むことも必要だが。三十分ということなら、私も付き合わせてもらおう」

 羽織っていたジャージを脱いで、畳んでプールサイドの椅子に置く。伸びをして、水着の食い込みを直す――少しお尻が大きくなってしまったのかきつく感じるが、そういう意味でも時には泳いで引き締めておきたい。

「……先生、お願いがあるんですが」

「……どうした?」

 空野は神妙な顔をして――いつも表情があまり変わらないので、僅かな変化ではあるのだが、私の目を真っ直ぐに見つめた。

「背泳ぎ百メートルを一本……私と一緒に、本気で泳いでもらえませんか」

 一緒に泳ぐ――しかし本気というのは、それは勝負ということだ。

 タイムを上げるために誰かと競って泳ぐことは日頃から行っているが、私は練習のペースを整えるために入ることはあるが、部員と競うことは今までしてこなかった。

 大学で現役だった頃のタイムは、県でトップクラスの空野と比べて少し速いといったところだ。それで空野と勝負になるのかは分からない――しかし練習を見ている限りでは、私がペースを牽引できるように思える。

「……駄目、ですか?」

「いや、そんなことはない。生徒にそういった申し出をされることは初めてで、驚いたが……そうだな、私も久しぶりにどれくらい泳げるか試してみよう。試すといっても、本気で空野を負かす気持ちで泳ぐ。大きく差をつけられるかもしれないがな」

「ありがとうございます、先生。次に時計がてっぺんにきたときにスタートでいいですか?」

「ああ、分かった」

 プールには時刻を示すもの以外に、練習ペースの基準とするためのペースクロックというものがある。赤い針は一分で一周し、黒い針は一時間で一周する。

赤い針が上に来たときを「てっぺん」と言い、決まった時間に何かを始めるときの合図とするのが慣習となっていた。

 私は帽子とゴーグルをつけて入水すると、4コースのスタート位置につく。空野は5コースに入って、私と同じように、背泳ぎのスタート準備をする――そしてペースクロックが0秒を通過するとき、合図の電子音が鳴った。

 スタートしてすぐに理解する、空野の速さを。

 自分で指導している教え子の成長を、肌で実感させられる――スタートで大きく離されそうなほど、立ち上がりのスピードが速い。

 しかし私も簡単に負けては、空野の練習にならない。25メートルを過ぎる頃には、半身差くらいまで追いつき、食らいついていく。

 毎日ターンの練習をしているだけはあり、50メートルのターンで再び身体一つ分ほどの差をつけられる。

このまま置いていかれそうなところだが、私は空野の鍛えなければならない急所を知っていた。それは、スタミナ。後半で尻上がりに速くなるような選手と勝負をすると、どうしても疲れが出てしまう。

 それでも100メートルなら、ターンで差をつけられれば大きなアドバンテージが生まれる。現に、75メートルまで空野は失速しなかった――だが。

 背泳ぎの勝負でも、隣のコースを泳ぐ選手がどのあたりにいるかは感じ取れる。私は空野との差が縮まり始めたように感じた――そのまま、ゴールまでは一心に泳ぎ、スタート地点にタッチする。

「っ……はぁっ、はぁっ……」

 荒く息をつき、ようやく呼吸を整えたところで、私は隣のコースの空野を見る。

「……私の……負け、ですか……?」

 そして私は気がつく――ずっとこのコースで部員たちを見てきたのに、こうして二人だけで練習をするのは初めてで、大事なことを見落としていた。

「……二人だけでほぼ同時にゴールしては、どちらが勝ったか分からないな。まして、背泳ぎではなおさらだ」

 私は思わず笑ってしまう――真剣に泳いでいたのに、笑うところではないと分かっているが。

 空野はしばらく何も言わなかった――しかしゴーグルを上に上げて、私の顔を見るなり、その表情が和らいだ。

 ――空野が笑った。他の部員と一緒にいても、滅多に笑顔を見せることのない彼女が。

「ふふっ……おかしいな、こんな見落としをしているなんて気づかないまま、真剣に泳いで……」

「あははっ……先生、物凄い勢いで追い上げてきて、私、負けちゃったかと思って……」

「私も追いつけたかと思ったが……どうやら、この勝負は引き分けのようだな。空野、これで良かったのか? それとも、もう一度……」

「……いえ。先生が、本気で泳いでくれて嬉しかったです」

 空野が私と泳ぎたかった理由は、何となく、言葉にしなくても伝わるような気がした。

 私と空野の間で変わったことといえば、一つしかない。

 私が海原と一緒にお弁当を食べることがあると知ってから、空野の私に対する視線が少し変化したように感じていた。

 それは私も同じ。海原と空野が一緒に登校するところを見て、ずっと胸にもやもやを抱えていて、先生なのにそんなことを考えてはいけないと、抑えつけていた。

 海原をわずらわせてしまうように思えて、今までは何でもなかったような言葉をかけることもできなくなっているのに。

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