朝帰りの登校風景 2

「っ……そ、空野先輩。おはようございます」

「敬語じゃなくていいけど……どうしたの、こんなところから歩いて。いつもバスじゃなかった?」

「あ、ああ……いつもはバスだけど、今日はちょっと理由があって」

「……ふうん」

 このテンションの低め安定という感じに、今でも慣れない。高校で再会してから一年以上経ち、バイトでも去年の夏、空野先輩が夏の試合を終えたあとから一緒になっているのに、同じ高校生バイトでシフトが被ることが少ないこともあって、ほとんど他人と変わらないのではという関係性でしかない。

 空野先輩を前にするとどうしても緊張してしまう。彼女があまりにも大人びすぎたから――そして、岸川先生や杜山先生ほどとは言わないが、育ち盛りの暴力的なまでの発育が彼女を大きく変えてしまったからだ。

 先輩は水泳部の部員だ。岸川先生に指導を受けていて、競泳の強化選手に指定されている。

 競泳は身体の凹凸が少ない方が、水の抵抗を減らせて有利である――それが一般常識なのだろうが、空野先輩は全くそのイメージとは逆を行っていて、しかも県でもトップレベルの記録を持っていた。

 端的に言って、正面に立つとどうしても視線が引きつけられるほどに胸が大きい。昔と比べると信じられない――それは子供の頃の記憶を引きずりすぎだろうか。

「……視線が一秒以上止まったら、さすがに気づくから」

「っ……ご、ごめん、そんなつもりじゃ……」

 空野先輩が自転車を押してこちらにやってくる。彼女は俺の目の前まで来ると、すっと手を伸ばす――そして、下顎に指を添え、くいっと正面を向かせられた。

「おっぱいは、ふだんいっぱい見てるんじゃないの? エッチな本とかで」

「おっ……せ、先輩、そういうことはあんまりはっきり……っ」

 エッチな本というのもそうだが、おっぱいという言葉を先輩が発するのは、何か罪悪感がとても大きい。先輩が落ち着いているほど、俺の方が申し訳なくなる。決して女子にとって敷居が低い言葉ではないはずなのに、あまりに大胆すぎる。

 そして俺が、日頃どんな生活をしているかについて、あまり芳しくない想像をされている。コンビニの仕事をしているとき、売っている少しエッチな本を気にしてしまっていることを悟られていたというのか。

「海原、うちの部の先生と仲いいでしょ。だから、好きなんじゃないかなって」

 一瞬頭が真っ白になる――空野先輩に、そんなふうに思われていたとは。俺と岸川先生の関係は、水泳部では公認の事実だったりするのだろうか。いや、先生と生徒の一線を決して超えてはいないはずだ。

「うちの先生、水着着てても凄いし……あれでよく選手やってたなって」

「な、何だ……そういうことか。そういう凄さなら、空野先輩も負けては……」

「……なんて?」

「い、いや、何でもない……そういえば昨日のバイト、急に休んだりして大丈夫だったか?」

「そんなに忙しくなかったから、大丈夫。海原のこともちゃんと伝えておいた。足が良くなったらお店に顔を出して、シフト表を書くようにって」

「もう大分良くなったから、明日には行けそうだ。今日家に帰ったら電話するよ」

「それがいいと思う。店長、海原のこと心配してたから」

 淡々としてはいるが、空野先輩は冷たいというわけではなくて、むしろ普段から良くしてくれている。

 それでも昔と違うのは、バイト以外で顔を合わせたり、休みに遊ぼうなんて話にはならないということだ。俺も休みの日はほぼ勉強しているし、遊びたいなどと容易に考えてはならないのだが。

「先輩、それじゃ、またバイトに入った時にはよろしく」

 先輩が言ってくれた通り、フランクな話し方を心がけているのだが、なぜか先輩は返事をしてくれず、俺をじっと見ている。

 そして、彼女は自分の自転車のサドルをぽんぽんと叩いた。

「……乗って」

「い、いや……自分で歩けるから大丈夫。本当は杖無しで歩けるくらいだし」

「じゃあ、ぎゅって足踏んでも大丈夫? 泣かない?」

「……それはさすがに、怪我をしてなくても痛いと思うからやめてほしい」

「海原、松葉杖で歩くの大変そうだから。バイトに早く戻ってくれた方が助かるし、学校まで送ってあげる」

 先輩は髪留めのゴムを取り出して口にくわえ、長い髪をまとめて束ねる。滅多に見ることのないポニーテール。それは、動きやすいようにということらしい。

「……乗って。押してってあげる」

 声のトーンは変わらないのに、プレッシャーが強くなる――俺という人間は、つくづく年上からの押しに弱すぎる。

「せ、先輩、俺って他の生徒からの評判悪いし、そんな奴を運んでるところを見られたら、先輩に迷惑をかけることになる」

「そんなこと、気にしない。『インテリヤクザ』って言われてても、海原が不良だなんてみんな思ってないから」

 空野先輩は、教室で浮いている普段の俺を見ていないからそんなことが言えるのだ。

 昨日は純がいなくて、昼食を一緒に取る相手がいないために、購買でパンを買って誰も居ない校舎の屋上で食べた。

ぼっち飯なんてクラスでは俺だけだ――人と上手くやれない俺でもコンビニのバイトは何とかできているが、接客と友達を作ることとでは訳が違う。

 しかしそれも全部、言い訳だ。

 俺は空野先輩に、格好悪いところを見せたくないと思っている。

俺と一緒にいて、空野先輩の評判に悪い影響が出ては申し訳ない。俺と一緒にいたくらいで、うちの学校の水泳部のエースであり、三年でも最高クラスの人気を持つ彼女が、支持を失うことなどありえないのだが。

「……いっぱい色々考えてる?」

「っ……せ、先輩、近い……っ」

 いつもはこれほど間合いの中に入ってくる人ではないのに、今日は違う。

俺が怪我をしているから、空野先輩は気遣ってくれているのだ。それなら、ここでずっと彼女の申し出を断り続けて、色々な人に見られることの方が問題だ。

「遠慮しなくていいよ、私、体力あるし。昨日バイトだったから、ちょっとだけくたびれてるけど」

「……本当にすみません」

「また敬語になってる。それに、謝らなくていい……昨日の部活で岸川先生に聞いた。海原は体育で頑張って足を痛めたって」

 部活の時間に、先輩は岸川先生と話す機会がある――だから、そういう話が出てもそこまで不自然ではない。

 しかし、空野先輩が、岸川先生と俺のことを話していたということ自体が、何か無性に落ち着かないというか、恥ずかしくなってくる。

「評判が悪いって言うけど、ちょっと勉強しすぎで雰囲気がギラギラしてるだけで、ヤクザってほどじゃない」

「せ、先輩も、俺のことをそう呼んでたじゃないですか」

「噂で聞いたから、試しに呼んでみただけ。あんまり海原には合ってなかった」

 この人は――本当に、掴みどころがない。俺に対して関心が無さそうで、けれどそんなふうにからかってみたりして、結局そこに悪意は無くて。

「……そろそろ乗って。説得するの、疲れてきたから」

 投げやりな言い方だが、いつも素っ気ない先輩が俺を気にかけてくれているだけでも感謝しなくてはいけない。

「……海原のお父さんお母さんからも、よろしくって言われてるし」

「い、いつの間にそんな話を……」

 うちの両親は、近所に住んでいる空野先輩が、ずっと俺と仲が良かったものだとばかり思っている――それで父親が海外に転勤し、母親がついていくときに、おそらく先輩に挨拶をしていったのだろう。

 親は放任主義ということもあり、俺のことを誰かに頼んでいくとは思えなかったということもある。俺自身、小学校の後半からずっと疎遠になっていた先輩と、もう一度こうして話せるようになるとは思っていなかった。

「……だから、任せて? そんなに気にしなくていいから」

「じゃ、じゃあ……お願いします」

「ん」

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