保健室のミューズ 3

 終わった――と、そのとき思った。保健室で先生に覆いかぶさられ、バストを鷲掴みにしているところを見られてしまうとは。

しかしよくよく考えてみると、その声は聞き覚えがあるものだった。

「ん、んしょっ……あっ、ええと、三年生の空野さん……?」

「3―Dの空野奈々海そらのななみです。爪が少し割れちゃった子がいて、絆創膏ばんそうこうをもらいに来ました。私、保健委員なので」

「あらあら、大変……ちょっと待っててね、すぐに持ってくるから」

 淡々とした口調で話す、艶のある黒髪が印象的な女子生徒――というか、俺にとっては、この学校で数少ない知人の一人だ。

 知人というよりも、幼馴染みと言っていいかもしれない。しかし、子供の頃は近所に住んでいるからという理由で仲良くなっても、ある時期から疎遠になってしまった。

 昔はもっと活発というか、おてんばな性格だったと思う。俺のことを連れ回して、男も女もなく接して、よく笑っていた。

しかし今目の前にいる空野先輩は、三年生の中では五本の指に入る美人と言われているものの、「クールビューティ」と呼ばれるような人になっていた。

「……なにか?」

「っ……い、いや、何でもない……です」

「敬語じゃなくてもいいのに。二年生でも有名なインテリヤクザくん」

あからさまに辛辣な言い方をされて、多少なりと苦々しい思いを味わう。あえてここでインテリヤクザと言う意味が、俺への罰以外には考えられない。

 そんなことを言っても泣き言にしかならない。このまま倒れたままでもどうかと思うので、腹筋に力を入れて身体を起こした。

「…………」

「……な、何か……?」

 空野先輩は確かに何かを言ったが、小さな声すぎて聞き取れなかった。

 あえて聞かない方が平和かもしれないと思ったが、どうしても気になる――しかし、先輩が答えてくれるというのは望み薄だ。

「……大丈夫?」

「えっ……ま、まあ、頭は大丈夫だけど……」

「……頭じゃなくて、足。テーピングしてあるけど、ひねった?」

「さっきの体育で、ちょっと……」

「……バイト、休む? 今日、シフト入ってたけど」

 そう――俺と空野先輩は、バイト先が同じコンビニだ。

 昔の知り合いで、学校では先輩と後輩で、バイト先まで同じ。

 それでも一度時間を置くと、俺も先輩も少なからず変わってしまって、昔みたいに気の置けない接し方はできなくなる。

 今の俺が、先輩にとって好感の持てない相手という可能性も否めないが――「大丈夫?」と聞いてくれたのは、俺が身構えすぎただけで、普通に心配してくれたのだと思う。

「……休んだ方がよさそう」

「そうだな……そんなに治るまで時間はかからないと思うんだけど」

「海原くんのことは、私に任せておいて。先生、ちゃんと怪我が治るまでしっかりサポートするから」

「……はい。よろしくお願いします」

 空野先輩は絆創膏を受け取ると杜山先生に頭を下げ、保健室を出ていく。

 学校で先輩を見る機会はあまりないので、何となく後ろ姿を見送ってしまう――すると、ふに、と杜山先生に頬をつつかれた。

「せ、先生。すみません、じっと見てたから怪しかったですか」

「海原くん、空野さんと知り合いだったのね……すごくきれいな子よね、彼女」

「知り合いというか……まあ、知り合いですね」

 こんな言い方もどうかと思うが、やはり空野先輩との昔のことを思うと、複雑な思いが湧く。俺が覚えているだけで、先輩はもう忘れているのかもしれないが。

「海原くんのこと、空野さんにお願いされちゃった」

「っ……待ってください先生。あれは、普通に挨拶をしただけじゃないかと」

「空野さんも、海原くんと同じバイト先なのよね? 先生、聞くつもりはなかったけど聞いちゃったもの。今日も同じシフトでバイトをする予定だったのなら、お仕事をしてる間も、休んでる海原くんのことを気にかけると思うの」

 ――絶対に、空野先輩はそこまでのニュアンスで言ったわけじゃない。

 今の杜山先生には何を言っても通じない――岸川先生と話していてもそうなることがあるのだが、ついに俺は、二大女神の二人目にも押し切られかけている。

「これは勧誘のためじゃないから、心配しなくていいのよ。先生が、生徒のことを心配するのは当たり前のことだもの」

 こんな時だけ「先生と生徒」を持ち出してくる杜山先生――彼女は得意げに腕を組むが、たぷんと強調された二つの山を前にして、目眩めまいを覚えずにいられなかった。

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