《魔神の黒霧》

 ――《魔神の黒霧》

 司教が口にしたのはそのような言葉であった。


「それがこの黒霧の正体ですか?」


「恐らくはな」


「ですが司教様、聖典に関しては僕もある程度は読み込んでいますが、その様な記述どこにも……」


「うむ。この霧についてはどこにも記されてはおらんだろうな。故にこれから話すことを、信頼する者以外の他人に、みだりに明かすことは遠慮してもらいたい。君たちが姫殿下の信頼厚い者達であることを見込んで話すことなのだ」


 柔和な人物という印象であった先程と打って変わって、司教は非常に真剣で厳格な態度を見せた。


「分かりました。ここで聞いたことをみだりに触れ回らないことを誓います」


「うむ、では話そうか。この様に暗く深いものは初めてではあるが、実はこの霧の存在自体は今までも確認されておる。例えば、十年前の《災厄》の時もな」


「なんですって……?」


「かの災厄に先立って、中心地であるグリューネを《魔神の黒霧》が覆ったという報告が確認されている。よもや《災厄》と無関係ではなかろう。その他にも、過去幾度も人や魔獣が《伝承の獣》へと変化した事例が確認され、時折この霧が発生していることが分かっておる」


「そういや、今まで獣化した人や獣達は決まって、元の姿に戻るときに黒い靄の様なものが漏れ出ていたな。まさかあれもそうなのか?」


「うむ。教会で極秘裏に調査したところ、あれも同質のものだと判明しておる。むしろあの霧を吸い込んだことによって人や獣は変質しているのではないかというのが調査に当たった者達の推測であった」


「それで結局、聖典とこの霧には何の関係があるんだ?」


「《魔神の黒霧》という名の通り、この霧は《魔神》に由来するものだと教会は定義している」


「《魔神》……女神が降臨される前の世界を滅ぼしかけた存在ですね」


 かつてこの大陸は高度な文明の栄える豊かな大地であった。しかし、その文明は瞬く間に滅び去り、大地は割れた。その厄災を引き起こした存在こそが、《魔神》達と呼ばれる存在である。


「そういやイシュメル人やあの野良犬が変質した《伝承の獣》はその《魔神》達の眷属だって話だな」


「そうだ。だからこそこの霧の存在は教会によって隠され続けた。なぜなら《伝承の獣》というのは元はこの大地に住む人や動物、魔獣たちであったというのが聖典に残された記述だからだ」


「!?」


 エルドとカイムは言葉を失った。《魔神》にしろ《伝承の獣》にしろ、教会で教えられているのはそれらの存在は自然発生的に出現し、原因がわからないということである。


「世に出回っている聖典は、イルフェミア教国に保管されている原典の中から、最低限の記述を抜き出した写本に過ぎない。故に、教会でも司教以上の位にある者や、王族や貴族の一部などは除いて、この話は秘匿されているというわけだ」


「ただでさえ《伝承の獣》に似た存在が出現しているのに、それらが人の成れの果てだということが知られれば、人々は不安に思うでしょうね。《魔神》が復活したのではないかと」


「うむ。故に教会は真実を秘匿してきたのだ」


 人心の安定こそが教会の掲げる理念である。聖典の内容を切り取り、伝える。その是非はともかく、その行いこそが教会が抱える使命の証であった。


「しかし、そうなるとますます疑問だな。そんな大層な存在が、何だって自然発生しているんだ?」


 司教の話によると、世に知られていないだけで《伝承の獣》の発生自体は遥か古からあらゆる場所で確認されてきたのだという。だとすれば、それほどの存在がどのような理由で出現したのか、そのことは当然に湧く疑問であった。


「条件については多少は解き明かされている。霧は、霊子を多く抱えた生命が負の感情を極限までに募らせたときに発生するという。例えば魔獣が変化した幻獣などは、その多くが人を遥かに超える霊子をその身に抱えているため、霧の発生の元となることがある」


「負の感情を募らせた幻獣……最近もそんなのを見たな」


 カイムは地下墳墓で、傷だらけになったウツボカズラの幻獣を思い起こした。その死体からは、今の話に出ていた黒い靄が発生していた。


「確かあの時はイスマイルが黒い靄を回収してたけど……全ては獣化のための素材を集めていたってことかな」


「それで司教様の言うことがその通りなら、あの湖にも負の感情を募らせた幻獣が潜んでるってことか?」


「その可能性はあるだろうな。現に怪獣なる存在が度々目撃されており、我々教会としても何らかの関係があるのではないかと睨んでいる」


「そうなると、あの怪獣の正体は本当は幻獣で、夜な夜な怒りに任せて咆哮をあげていて、その結果魔神の黒霧が発生し、この地の生命に影響を与え始めている。そんな仮説が立てられそうだな」


 カイムは状況を整理した。


「でもそうなるとあまり時間はないのでしょうか? この霧の充満具合からすると、いつ街の人達が獣化するか分かりません」


「その通りだ。故に教会は今回の騒動に対し、聖騎士の派遣を決定した」


「それってまさか……」


「うむ、レオン・イーグルトン。この国最高の騎士にして、教会より聖騎士の称号を与えられた彼がいずれ事態の収集に訪れる手はずとなっている。だが、それまで時が待ってくれるか……」


 エルドの兄でもあるレオンだが、彼もまた国境警備隊の一員として忙しくする身である。このサザーランド地方に訪れるまで、かなりの時間を要するはずだ。

 司教もそれを理解しているのか、その表情は不安に満ちていた。


「やはり今回の件、僕らで手を打たないといけませんね。レオンを待っている時間なんてなさそうだ」


「この件を、年若い君らに押し付けることを心苦しく思うが、どうか頼まれてくれるか?」


「お任せください。巡礼の旅を行う目的は、国の各地で苦しむ人々の力となることですから」


 エルド達は司教に礼を言うと、執務室を後にした。

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