伝承 霧深い森の奥で

 霧に煙る森の中、二人の男が馬の背にまたがりながら歩いていた。


「この森の奥か、報告にあったのは?」


「はい、閣下。付近の村の者の話から間違いないかと」


「今回は飽くまでも偵察だ。だが、全ては我が国民とこの地に住む者達の明日のため。気を引き締めて掛かるぞ」


「は!!」




 そして、森の中を進み続けること六時間。二人はあまりの霧の深さからすっかりはぐれてしまっていた。既に夜空には満月が上がり、男は月明かりと手元に生成した光球だけを頼りに歩いているという状態であった。


(まずいな。完全に方向感覚を失ってしまった……)


 ただでさえ慣れない地であるというのにここは森だ。似たような光景が続いたため、男は完全に自分の居場所を見失っていた。自分がどこから来たのか、どこが北なのか、どこへ向かっていたのか、何一つわからぬまま、今はただ人里を探してさまようばかりであった。


(本国もこの様な重要な任務だというのに、まるで人手を割いてはくれない。ここ最近は国王陛下のお目通りも敵わず終いだ。一体何が起こっているというのだ)


 この森の霧がそうさせるのか、男の頭の中では故国に対する疑念がぐるぐると巡っていた。


「ふぅ……お腹が空いたな」


 糧食は持ってきていたのだが、森を駆ける狡猾な狩猟者に奪われてしまっていた。多少は腹に収めはしたのだが、その中途半端な量と、この森の中での孤独感、そして既にこれ以上糧食が手元にないという焦燥感が、男の空腹を加速させていた。


「ん?」


 その時、水のせせらぐ音が聞こえてきた。


「これは僥倖だ。川があるのであれば、それを辿っていけば人里が見つかるかもしれない」


 男は逸る気持ちを抑えながら、水の音を辿っていった。




「これは……」


 男が見つけたのは小さな滝が注ぎ込む湖であった。そこはこれまで見たことのないほどに澄んだ湖で、不思議な霊気の満ちた神秘的な場所であった。


(なんと美しいのだ……)


 しかし、男の瞳はその湖の中心に吸い寄せられていた。



 そこでは一人の女が水浴びをしていた。



 月明かりに照らされた銀沙の髪は、澄んだ水でしとしとと濡れ、そしてその身体は陶磁器のように白く艶めいて、それでいて割れた果実のようにみずみずしい。

 まるで神の細工のように完成された目の前の女は、こちらに人がいるとも知らずに湖面に映る月光に踊っていた。


(まるでこの地に伝わる風の精だ……)


 男はその名前も知れぬ妖精の舞にすっかり心を奪われていた。


(……いつまでも見ていたい気分だが、さすがにまずい。引き返そう)


 だが、それを眺め続けるのも失礼なことだ。男は踵を返して立ち去ろうとした。しかしその瞬間、パキッという音が響いてしまった。どうやら馬が小枝か何かを踏み割ってしまったようだ。


「誰!!」


 直後、女の声とともにまばゆい光が男の視界を覆った。


(紅い眼……?)


 わずか網膜に焼き付いたのは、女の美しい顔と紅蓮に燃える紅玉のような瞳であった。


 そして眩い光に包まれながら、男はその意識をゆっくりと手放していった。

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