流れる血の色は(5)

 ――大地が割れた日、その亀裂から這い出るように無数の獣たちが現れた。

 禍々しい翼を背に持ち、薄い被毛に覆われ、隆々とした肉体に山羊の頭を持った漆黒の獣。

 それらに理性はなく、ただ人を嬲り、犯し、殺す。原初の衝動の赴くままに繰り返される蹂躙に人々は為す術もなく、ただ彼らに見つからぬよう祈ることしかできなかった。




 眼の前に居た獣は伝承の獣と同じ山羊の頭を持った獣であった。

 ただ、不完全な姿なのか特徴的な翼は生えておらず、無理矢理に膨れ上がった筋がむき出しとなり、皮膚はただれたように引き剥がれ、まぶたは潰れて口元は歯を食いしばるようにむき出しになっていた。


 獣は一心不乱に鉈のようなものを金庫に打ち付けていた。その足元には獣を止めようと奮闘していたであろう守備隊員たちが血まみれでうずくまっていた。

 エルドたちは全身にまとわりつく怖気に耐えながら目の前の獣をキッと見据える。


「伝承の獣……どうしてこんなのが街中に」


「当たり前のように野良に居る魔獣じゃねえ。そもそもこんなヤバイやつ、目撃例すら無いぞ」


 魔獣と形容こそしたが、目の前のそれは既存の魔獣の体系には当てはまらない異形であった。見てるだけで胸がざわつく。

 これはこの世界にいてはいけないものだとそれだけは直感できた。


「守備隊は皆やられたみたいだ。そんな相手にどこまで対抗できるかわからないけど、僕らで止めるよ」


 エルドはゆっくりと前に歩み出ると、腰元の鞘から大剣を勢いよく引き抜いた。そして、切っ先を相手に向けるように両手に構える。


「俺らだけでどうにかなるのかね……」


 ぼやきながらカイムもショートソードを引き抜く。二人の敵意を感じたのか獣もゆっくりと身体を向けてエルドたちと相対し、大鉈を手に構えた。


 戦闘力も能力も全くの未知、しかしそのプレッシャーから並の相手でないことはわかる。二人はしっかりと間合いをとり出方を伺う。


「ウゥ……」


 一瞬呻いたかと思うと、獣は地を蹴りその巨躯からは信じられない速度で距離を詰め、大鉈を振り下ろした。鈍い金属音が響く。


 よろめいたのは獣の方であった。エルドは獣の動きに合わせて身体を回転させ、振り抜いた剣の一撃で難なくそれを弾き返したのだ。宙を舞う獣は左手の鉤爪を地面につきたて勢いを打ち消しながら着地をする。

 その隙を狙いエルドは地を蹴ると、真っ向に長剣を振り下ろした。獣は鉈を盾に防ごうとするが耐えきれず、たまらず壁に叩きつけられた。


 細身なエルドの身体にその長く重い剣は不釣り合いであったが、それを感じさせないほどエルドの剣技はしなやかで強靭であった。


「カイム」


 エルドに促されて、カイムは怪我人のもとへ駆け寄る。


「おい、立てるか」


 守備隊員はそのほとんどが気絶していたが、幾人か軽傷で済んだものも紛れ込んでいた。


「あ、ああ、助かったよ。気絶したふりをしていてよかった」


(オイ)


 どうやら敵意のないものにはあの獣は反応しないらしく、無事で済んだ者たちはそのことに気付き気絶した風を装っていたようだ。

 仮にも公都を守る人間がそれで良いのかと、カイムは内心で呆れる。


「まあ良い、一旦ここを離れるぞ」


 エルドが獣を引き離している隙にカイムは兵たちを連れて一度距離を取る。


「それで襲撃犯を押さえに行ったはずがなんでこうなってる? あれはどこから来たんだ」


「それは……」


 カイムの質問に対して兵たちは口ごもった。それを口にするのをためらっているようであった。


「おい、時間がないんだ。早く言え」


「あ、ああ」


 しかしカイムが強く詰め寄ると、渋々と口を開いた。


「ここの金庫を襲ってたのは一人だったんだ。だから俺たちですぐに取り押さえようとしたんだが、奴が急に苦しみだしたと思ったら、その……あの姿に変身したんだ」


「一体何を言ってるんだ……」


 人が獣に変身する、およそありえない妄言であった。カイムの呆れは頂点に達する。


「ほ、本当だ! 信じられないかもしれないが……」


「んなこと言っても――ごふっ」


 要領を得ない言動にカイムが訝しんでいると、突如背後の獣の方向から人影が飛来してカイムを押し倒した。突然の出来事にカイムはまともに防御も出来ずうめき声を上げた。


「っ……手強いな」


 人影――エルドはカイムを下敷きにして口元の血を拭う。どうやら獣との斬り合いでここまで弾き飛ばされたらしい。


「おい、かっこつけてないでどいてくれないか……」


「あ、ごめん」


 つい先程まで圧していたはずのエルドの身体にはいくつか傷がついていた。対して獣の方は無傷どころか先程エルドにつけられた傷までも回復していた。

 獣は舌なめずりをすると、ゆっくりとこちらに歩を進め始める。


「おいおい、なんてでたらめな再生力だよ。それに……」


 獣は腰を低く落として剣先をこちらに向けていた。その構えはまさにエルドが先程、獣に向けていたものであった。


「さっきまでの乱暴な剣筋とはまるで違うよ。身体もより強化されてる。いや馴染んで来てるって印象かな」


「まさか、守備隊を相手にしてた時は本調子じゃなかったってか?」


「こうなったらあれを止めるには致命傷を与えるのが一番だと思う」


 人や魔獣のような女神の加護を受けた生命は自己治癒力が高い。そのため強力な魔獣を討伐する際には、首を落とすなどして致命傷を与えることが有効で、狩りの基本でもある。


「普通の魔獣ならな」


「どういうこと?」


 カイムの引っ掛かる物言いにエルドは訝しむ。


「こいつの言うことを信じるならアレは元人間だそうだ」


「カイム、何を言ってるのさ?」


「ほ、本当だ。君も信じてくれないのかい!?」


 守備隊員は哀れな様子で訴える。


「……でも、もし仮にあれが人だとすれば。致命傷を与えるのは避けたい」


「生け捕りにするのか? これだけの大事をやらかした連中だぞ?」


「うん……」


 階下の惨状を思えば怒りが湧いてくる。幸い、彼らは獣化して手に負えない状態だ。それを理由にすれば彼らが命を落としたとしても誰も文句は言わないだろうと、そう心の何処かで彼らの死を正当化してしまいそうになるほどに。


 自分たちは全力を尽くして救護に当たった。しかし、中には救えず手遅れになった者も大勢いた。手を尽くした者の中にもその後、力及ばず事切れた者もいたかもしれない。

 略奪者達は身勝手な行いによって多くの人間の生を脅かし、守備隊員達はそれをとるに足らない命と見捨てた。その様な振る舞いはとても許せるものではない。


 だがそんな者たちであっても、裁くのは自分たちではないのだ。力を恣意的に振りかざす者の愚かさと恐怖は身に沁みて理解している。もしここで衝動の赴くまま戦い彼らを死なせれば、それは恣意的に力を振るう愚か者たちと同類になるということだ。


 それはエルドにとって何よりも許せぬことであった。エルドは心に浮かんだ怒りを何とか抑えようとする。それこそが自らの幸せを踏みにじった者たちへの反抗になると、そう信じて。


「でもよ、実際どうするんだ? ざっと見たところ守備隊十人掛かりで敵わなかった相手だぞ?」


「簡単だ。彼の魔力が尽きるまで斬り刻めばいい」


 元が人だというのであれば、獣への変容も治癒能力も当人の霊子の保有量の限りでしか発動しないはずだ。ならばそれが維持できないほどまでにダメージを与え続ければ良い。


 世の中には強大な魔獣相手に単身で挑み、体内の霊子が先に尽きるのは自らか魔獣か腕試しをし、自らの霊子保有量を測定するものも居るという。相手の無力化としてはありえない手ではない。


「おいおい。あんなの相手に根比べとか正気か?」


「大丈夫。二人でなら出来るよ」


 そう言って屈託のない笑顔を浮かべる友人を見て、カイムはため息をついた。このように力押しにためらいの無くなった状態のエルドには何を言っても無駄なのだ。

 なれば一蓮托生、いや半ば自暴自棄気味に応諾するとカイムは後方に下がり、魔法発動の準備を始めた。


 簡素なもの、あるいは慣れたものであれば魔術を行使する際には霊子を練り上げて魔力へと変換し、事象を思い浮かべるだけで発動が出来るため、詠唱などは必要はない。


 しかしこれから、膨大な魔力量で暴走するあの獣を仕留めないように瀕死に追い込まなくてはならない。そのためには大掛かりで複雑な魔力制御を必要とする大魔術が求められる。当然その準備の間は無防備となるため然るべき補助が必要となる。


「ならしっかり俺を守れよ」


 そう言ってカイムが左手の指で宙をなぞると、青い粒子がしぶいて文字が形成され始めた。

 それぞれ暴風と刃を表す先史文明文字であり、それは一瞬ぼうっと光ったと思うとやがて霧散して風刃へと姿を変えた。カイムは自分の周りに浮かぶ風刃を詠唱によって誘導してより大きく鋭い形質へと変容させる。


 それを見送るとエルドは改めて獣と相対した。エルドの仕事は一つ。カイムの魔法が完成するまで全力で守り抜くことだ。


 エルドを弾き飛ばしてからは再び金庫の破壊に精を出していた獣だが、エルドの敵意を感じたのかゆっくりとこちらへと向き直り、上段に構えた剣をまっすぐ振り下ろした。


 エルドは即座に剣を頭上に構えて魔獣の剣を右にすべらせるように受け流すと、地を踏み抜きすり抜けざまに胴を横薙ぎにした。


 痛みへの怒りから魔獣は反撃を試みたが、エルドはそれを読んでたと言わんばかりに即座に反転して四方八方からの剣撃を見舞った。


 流石に速さで劣る魔獣は為す術もなく防戦一方となる。しかし、攻撃を続けている内に魔獣は黒く禍々しい気を増大させていった。


「!」


 何か嫌な予感めいたものを感じたエルドはとっさにカイムの前に立ち、剣を突き立てて防御の姿勢をとった。


 ――――直後、獣が咆哮した。


 聞く者の心臓を掴んでジリジリと握りしめるような強烈な不快感を催す声とともに獣の纏う黒い気は一気に膨れ上がり暴発した。


「っ……ぐ、うぅ……」


 エルドは身体が根こそぎ引き剥がされそうな衝撃に耐えながら必死に剣の柄を握りしめてカイムの盾となっていた。


 やがて暴発が収まり、視界が晴れた。しかし、目に入ってきたのは信じがたい光景であった。


 先程まで吼えていた獣はより屈強に、より邪悪な姿に変化していた。むき出しだった筋肉は鋼鉄の鎧のような外皮に覆われ、禍々しい翼と角生え揃ったその姿からは不完全なものという印象はすっかりと消えていた。


「アァ……」


 一瞬、獣が呻くとふとその姿が消えた。とっさに防御の構えを取るもエルドは凄まじい衝撃で弾き飛ばされてしまう。

 今の一瞬で獣は空へと跳躍し、猛スピードでエルドを襲ったのだ。


 先程の咆哮を機に獣はエルドの速さに匹敵するほどその身を強化させていた。起き上がろうとするエルドであるが、立ち上がるより先にすかさず獣の容赦ない猛撃が襲った。


「ぬぅっ」


 不利な体勢からエルドもなんとかそれを剣で止める。そして獣の剣先をうまく反らし、その虚を衝いて最小限の力で切り返した。


 そうしてエルドは獣と無数の斬り合いを繰り広げる。強者との戦いでは極限の集中が要求される。一瞬でも判断や見切りが遅れれば、それは致命の一撃へと繋がるからだ。

 エルドにとって目の前の獣との戦いは、そうした極限の戦いに等しかった。


(押し負けそうだ……)


 エルドは全身の霊子を練り上げて身体を強化していたがやはり器の限界というものがある。

 身体強化は元々初歩の魔術で、才能のないものでもある程度扱えるもので、その強化の幅は身体能力に比例する。そういった意味では肉体を鍛えることに余念のないエルドの力はかなりのものである。


 しかし、目の前の獣はエルドの想定を遥かに超えて強力に進化していた。獣に合わせてさらに身体強化の幅を上げてはいるが、いつその限界が来るのかといった状態であった。


(だけど……力で押されるなら、技で押し返す)


 だが肉体が進化し、キレが増したとはいえ素人の剣に変わりはない。最初こそ不意を衝かれたが、すぐに盛り返して大鉈を弾いて獣をよろめかせる。


 そしてエルドはここだと言わんばかりに胴をVの字に斬りつけた。


 しかし、そこで終わらずエルドはすぐさま懐から取り出した短剣を深々と突き立て、胴に蹴りを放った。流れるような連撃を受けると獣は壁の端まで転げ回った。


 やがてゆっくりと立ち上がるが肩の傷が深いのか、獣はエルドに弾かれても手放さなかった鉈を地面に落とした。


「よし、うまく動きを封じたな。こっちも準備は終わった。すぐに離れろ、再生が始まる前に決める」


 ちょうど詠唱が一区切りついたのかエルドの背から一陣の風が吹き抜けた。見るとカイムの周囲には巨大な風の奔流が展開されていた。


 そしてカイムは、ドーム状に渦巻く風のすべてを獣に叩きつけた。


 エルドを避けるように風刃が瞬く間に獣を飲み込むと、それは巨大な旋風を巻き上げて、獣の鋼の身体を無数に斬り裂いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます