◆その515 聖女の往く道
法王国の首都にあるホーリーキャッスル。
聖騎士たちに守られたホーリーキャッスル内で自由に動ける存在は限られている。そんな限られた存在の一人――聖女アリス。
アリスは歩きなれた廊下を歩き、見慣れた扉をノックする。
『アリスかえ? 入りなさい』
奥から聞こえた元聖女、現皇后のアイビスの声。
アイビスの部屋の入室許可を得たアリスは、不安な顔つきのまま扉を開けた。
アリスは入室してすぐに硬直した。そこには驚くべき存在がいたからだ。
ソファに座り、アリスに小さく手を挙げ迎える存在。
「ふふふ、来たな」
「こ、これは法王陛下っ!」
かしこまったアリスは、その対面にいるアイビスに頭を下げながら言った。
「ご歓談中とは知らず申し訳ありませんでしたっ!」
「構わぬ、ちょうどアリスの話をしていたところだしのう」
「わ、私の……?」
顔だけちょこんと上げ、おそるおそる二人を見るアリス。
「あのアリスがついに大規模な戦争に参加する、とな」
そう言ったのは法王クルスだった。
「『きっとアドバイスを求めに来るぞ』と言いながらここにやってきた野次馬は、
呆れた様子で言ったのは皇后アイビス。
それに対しアリスは乾いた笑いを浮かべる他なかった。
「でも、どうして私が参戦する事を?」
「指揮官から連絡が入った。それだけの事だよ」
法王クルスの言葉を受け、アリスの頬がぷくりと膨らむ。
指揮官とは
そんな様子を苦笑しながら見た法王クルスが言う。
「そうミックを邪険にしなくてもいいだろう。法王国の庇護下にある聖女アリスを戦争に連れて行くのだ。私への報告は彼の義務だろう?」
正に正論だった。そして相手が相手なだけに、アリスは何も言えなかった。
「すまんのうアリス。
「あ、いえ……」
「コレとは私の事かな、アイビス?」
「他に誰がいると?」
アイビスの鋭い視線に、法王クルスが委縮する。
「あ、はい」
「アリス、そんなところにいても仕方がない。掛けなさい」
アイビスの隣に着席を促されたアリスは、言われるがままそこへ腰を下ろす。
「……さて、こういう時、妾から掛けられる言葉は少ない。それが何故かわかるかえ?」
アイビスの問いに、アリスが口を結ぶ。
答えられない訳ではない。どれが正解なのかわからずいるのだ。
「そう、考えたとて答えがないからじゃ」
アリスはアイビスを見上げ、きょとんと首を傾げた。
「無論、間違いはある。じゃが、正解は戦地に赴く者しか持っていない。多くの命が散る事などわかり切っている。しかし、アリスはそれを出来るだけ防ぐために行く。違うかえ?」
コクリと頷くアリス。
「それも正解の一つじゃ。愛か忠義か正義か……それとも金か。どれも正解であり、人によってはどれも間違い。しかし、行かなければそれを守れないのも事実。アリスの心は既に決まっている。だからこそ我々が掛けられる言葉は少ない。わかるかえ?」
諭すように言ったアイビス。
しかし、その直後思い出したように正面にすわる
「もしかすれば、法王陛下ならばまた違った知見を得られるかもしれぬ。聞いてみるといい」
「うぇっ?」
そんな声を出したのは、聖女アリス――などではなく、法王クルスその人だった。
アイビスのパスを受け取らざるを得なかった法王クルスは、
「全部君が言っちゃったじゃないか。これ以上何を言えっていうのさ?」
「何と、法王陛下の深淵の智謀もその程度だと?」
わざとらしく驚くアイビスに、法王クルスが深く溜め息を吐く。
「まったく、困った皇后もいたものだよ」
「お褒めに与り光栄です、法王陛下」
そんな二人のやり取りを見、アリスがわたわたと焦りを見せる。
「あ、あの、そんなに切羽詰まったお話じゃ――」
「「アリスは切羽詰まらないとここには来ないだろう?」」
法王クルス、アイビスの言葉が揃う。
(何でこういう時は息がピッタリなんですかっ)
アリスがそう思うも、それを零せる相手ではない。
困り顔を浮かべるアリスに、掛けるべき言葉を考えていた法王クルスが言う。
「ふむ、どうせ行かなくても後悔するのだ。ならば行って後悔してみるといい」
それは、アリスの目を丸くするのには十分というべき言葉だった。
アイビスは自身の額を抱え、大きな溜め息を吐いている。
「……選びに選んだ言葉がそれかえ?」
しかし、次の言葉がアイビスの口を結ばせた。
「綺麗な言葉で着飾れる程、戦争とは美しいものではない。そうだろう、アイビス?」
すんと鼻息だけ吐いて押し黙ったアイビス。
法王クルスは次にアリスを見た。
「相手が人間じゃないだけマシ――そう思うのも……今のアリスには厳しいのかもしれん」
それは、今回の軍の指揮官が魔族だという事実から出た言葉だった。
しかし、法王クルスは続けた。
「アリス、あそこはな地獄だ。別に怖がらせたい訳ではない。しかし、それ以外に形容する言葉が見つからん。血が大地を満たし、雨が降っていないのに血の泥が出来る。何かを勝ち取る戦い、何かを守る戦い。それだけを糧に前に進むのは我らを信じる兵たちだ。彼らを守る力を持っている勇者エメリー、そして聖女アリス。確かに立ち上がるべきは今なのだろう。しかし、引くのも勇気だ」
アリスをじっと見つめる法王クルス。
強く芯のある目に、アリスは引かなかった。逸らす事も出来た。しかし、アリスの心がそれを許さなかったのだ。
それを見、確信した法王クルスが言う。
「で、あろう? アリスの心はもう既に決まっている。だから答えを探しにここへ来た。そうだろう?」
「……はい」
次に法王クルスから出た言葉は、アリスにとって非常に厳しいものだった。
「立場を
それは、決して法王という地位を
理由はわからずとも、その真意が別にある事をアリスは理解していた。
「アリス、お前は既に求める立場にいない。
「……ぁ」
それを示された時、アリスの脳裏に一人の男がよぎった。
「戦地に赴くと決めた時……アリス、お前は、その背で皆を導かねばならない。アリス、ここが瀬戸際だ。引くのも勇気だぞ」
先に掛けられた言葉を今一度言った法王クルスの真剣な眼差し。
しかし、それでもアリスの瞳が揺らぐ事はなかった。
「私は……戦場に行きます」
遂にアリスは自分からそう言い切ったのだ。
その強い意思の宿った目を見た時、法王クルスはようやくアリスから目を離した。ふうと息を漏らし、その顔を揉み、再度アリスを見る。
「ならば
「はいっ!」
魂を奮わせ出た返事は、りんと部屋に響いた。
アリスがここにいたのはほんのひと時だった。
アリスがいなくなった皇后の部屋に残るアイビスと法王クルス。
アイビスを窺うように見る法王クルスに、アイビスが言う。
「何とも、厳しい言葉だったのう?」
「え、え? ……や、やっぱりそう思う?」
「確か法王国の法王クルスは、過去何ヵ国かと小競り合いをしただけだったと思ったが?」
「法王となる前に一度戦地に行ったぞ!」
「一度?」
「一度……だな」
「まぁ、それだけ法王としての統治が優れていたというだけ。じゃが……」
そう言ったところで、アイビスは言葉を控えた。
だからこそなのだろう。法王クルスがその先を言った。言うしかなかったのだ。
「だが、我らは見送る事しか出来ない」
「……これも導く者の定めか……」
「……だな」
そう言いながら、二人はソファにその背を預けるのだった。
聖女と勇者、その背に背負うモノは大きく重い。
遠いリプトゥアの地でやがて起こる戦争という名の悲劇。
二人の乙女の決断に、世界は大きく喜び揺れるだろう。
しかし、送り出す大人たちの心は、強く締め付けられるのだった。
そしてそれは当然、今回の軍の指揮官にも言える事なのだ。
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