9
翌朝、陽が昇り始めて間もないような時刻に、セシルは指定された稽古場へと到着した。
五番街にあるこの稽古場は、主にこの街の冒険者たちが利用するために設けられた施設である。
それも今はかなりの早朝ということもあって、誰の人影も視界には入ってこない。
セシルは手早く着替えを済ませてしまうと、一番使い慣れた革鎧にその身を包んだ。
無論、宮殿に勤めているときには装備する機会のないものである。
とはいえ着慣れた装備だけに、腕を通してみると身体全体が引き締まる思いがする。
真剣は稽古場への持ち込みが禁じられている。なので右手には稽古用の木剣を持った。
ただ、じっとしたままだと、朝の肌寒さに身体が冷えてしまいそうになってくる。
セシルが思わず二度三度、木剣を素振りし始めた時、それから間もなくしてカイが稽古場に姿を現した。
「ちゃんと来たようだな」
カイはそう言って、不敵に小さく笑った。
彼も既に防具を身につけて、右手にはセシルと同じ稽古用の木剣を握っている。
ところが、カイが身につけている防具は、金属の胸当てのようなものだけだった。
一応、肩当てと革の
「それはこっちの台詞だわ。
それに、てっきり昨日の話を聞いて、実用性のある
その指摘を予想していたのか、黒髪の男性は
日焼けした肌と対照的な、白い健康そうな歯がチラリと覗いた。
「いや、
何しろ攻撃が当たらないなら、大仰な防具など、着る必要もないだろう?」
相変わらず
「あら、随分と自信があるのね。
じゃあ、それが実力に裏打ちされたものなのか、早速確かめてあげるわ!!」
そうセシルが叫んだ直後、彼女はカイに向かって一気に踏み込んでいく!
少々
満足に構えをとってすらいないカイは、それを絶対に防げないように思えた。
ところが、セシルの予想を上回って、相手の動きは素早い。
直後、カンッという木と木がぶつかる小気味よい音が、早朝の稽古場に
「驚いた。
思っていたよりもずっといい踏み込みだった。
剣の振りがいい加減じゃなかったら、やられていたかもしれない」
カイは右手に持つ木剣で、セシルの打ち込みを完全に防いでいた。
セシルは容赦なく両手持ちした木剣を、目一杯の力で押し込んでいく。
だが、一方のカイは、組み合った木剣を右手一本で押しとどめていた。
その力の入り様を象徴するように、彼の右肩の筋肉が大きく盛り上がっている。
そもそもある程度の
だが、これはセシルが想定していた以上の腕力差があるように感じる――。
しばらく無言の
そして、そのままカイから距離を取ると、木剣を構えて彼の動きを注視する。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
「真剣に戦おうとしているだけでしょ」
セシルが厳しい表情を変えずにそう答えると、カイが左手を挙げて口を開いた。
「わかった。それはいい。
だが、その前に一つ訊いておきたいことがある」
セシルは彼の発言にも構えを解かず、油断なくカイの動きを観察した。
こうして話し掛けられて隙を見せたところへ、急に不意打ちを喰らう可能性があるからだ。
「何かしら? 命乞い?」
セシルの言葉を聞いたカイは、呆れたような表情を見せた。
「どの文脈を辿れば、いきなり俺が命乞いをするって言うんだよ。
――いや、まあいい。
俺が訊きたいのは、あんたは
「狙われて――?」
セシルはその言葉に眉を
自分が何か後ろめたい過去を持っていれば、他人に狙われるような――そういう可能性もあるのだろう。
だが、彼女には残念ながら、そうした覚えが全くない。
「自覚はないのか。
ここへ来る前に、あんたを尾行していたやつを追い払ったんだが」
「あっ――」
セシルは『尾行』という言葉を聞いて、ようやく気が付いた。
自分には恐らく、ミランが放った監視が付いている。
これまで考えないようにしていたこともあって、四六時中見張られているという自覚が薄かったのだ。
だが、カイが遭遇したというのであれば、それはおそらくミランの手の者だろう。
「――あ、ありがとう」
思わずセシルは素直にそう口にした。
監視を追い払ってくれたこともそうだが、下手に殺したりせず追い払ったということで、それが問題化することもないだろう。
「どういたしまして。
――って、こんな流れのまま、勝負するってことでいいんだな?」
セシルの素直な感謝の台詞を聞いて、カイは若干拍子抜けしたように尋ねた。
「それとこれとは別よ」
セシルが木剣を構え直して言うと、カイは再び呆れたような表情を作る。
「感謝した直後に殴り掛かろうっていうんだから――。
セシルと言ったか。あんた、相当変わってるな」
「一応、褒め言葉だと、受け取っておくわ」
そう言ってセシルは、ニヤリと破顔した。
すると、カイは本当に楽しそうに口元を
「やっぱり、いい性格をしてる。
まあ、それ自体は決して悪いことじゃないが。
――ところで提案があるんだが、折角こうして勝負する訳だし、何かを
彼が言い出した提案に、セシルは考えるような素振りを見せた。
すぐに、何か裏があるのかもしれないという思いが、心の片隅を
だが、彼女はカイを見つめながら、あっさりとその申し出を了承した。
「いいわよ。どうせわたしが勝つでしょうから。
――じゃあ、取りあえずわたしが勝ったら、失礼な物言いへの謝罪と
セシルが言い放った言葉を聞いて、カイはそれが意外だったというように表情を変化させる。
「
俺が用意する
「馬鹿言わないで。
あなたが作る
「何だよそれ、滅茶苦茶じゃないか――」
あまりにも自分勝手すぎる要求に、カイはさすがに絶句する。
「それで、あなたは何を要求するのかしら?」
そう問い掛けたセシルは、内心何を求められるのかと落ち着かなくなった。
そもそもこんな賭けなど乗らなければいいのに、何故かそういう考えには至らない。
それはまるで、何か悪いものに魅了されてしまって、意思を曲げられてしまっているかのように。
「そうだな。
じゃあ、俺の言うことを、何でも
その言葉を聞いて、セシルの鼓動は急にその速度を増した。
カイの鋭い視線を感じて、彼女はどこか身体の中がぞわりと沸き立つような感覚を覚える。
だがそれは、決してミランに見られた時のような、好色で不快感を伴うものではない。
当然、やめるのなら今だ、という警鐘が頭の中に鳴り響いた。
なのに、セシルはまるで何かに取り憑かれたかのように、意地を張ってその申し出を了承してしまった。
「いいわ。どうせあなたは勝てないもの」
セシルが呟くようにそう言うと、カイはそれを聞いてニヤリと白い歯を見せた。
「よし。俺もそんなに裕福な訳じゃないんでね。
悪いが負けてやる訳にはいかない」
その言葉を聞いた直後――セシルはひとつ気合いの籠もった声を上げて、黒髪の男性に向けて鋭く木剣を振るった。
◇ ◆ ◇
こういう結果を予測していなかったと言えば、それはきっと嘘になるだろう。
元騎士と、現役の騎士見習い――。
その言葉だけで捉えれば、勝負はどちらに転ぶのか、わからないはずだった。
だが、セシルはこの戦いに臨む前から、「きっと勝てないだろう」という思いを、心のどこかで抱いていたように思う。
無論いつも護身用に、剣は携えていた。
これまでに剣を使った稽古も、何度もしたことがある。
しかしながら、それはとても実戦で通用するようなものではない。
なのに彼女はこの稽古場に現れて、引き寄せられるかのようにカイに勝負を挑んだ。
「筋は良い。動きも素早い。
――だが、決定的に剣の扱いがなってない。
恐らく、ちゃんとした指導を受けていないからだ」
膝を折ったセシルに向けて、木剣を構えたままのカイが言った。
既に、セシルの手には木剣はない。
ほんの数合渡り合っただけで、無残にも遠くへ弾かれてしまったのだ。
「あなたの勝ちね」
セシルは剣を突きつけられながら、カイを睨むように仰ぎ見て、勝負の結果を口にした。
「結果を素直に受け入れる程度には冷静なのか」
「お陰様でね。
――さあ、あなたがわたしに望むことは何かしら?」
若干自暴自棄な発言を聞いて、カイはセシルを見ながら苦笑し始める。
「勢いだけで言った言葉さ。騎士家のご令嬢に、失礼なことも出来ないしね。
今は何を望むのか、まったく頭の中にない。
次に会うときまでに考えておくことにするよ」
カイはそう言うと、構えを解いて木剣で自分の肩をポンポンと叩いた。
そして彼はそれ以上何も言わず、くるりと反転すると、稽古場を後にしようと歩き出す。
その瞬間、セシルがカイの背に向かって、鋭く声を掛けた。
「待って。賭けに負けた約束は守るわ。
でもそれとは別に、わたしの
「――頼み?」
負けておいて何を頼む気なのかと、カイは振り返って、セシルの発言を
「わたしに
セシルは最初から用意していたかのように、その言葉を力強く言い放った。
「わたしは叙任式の
でも、私はこれまで実戦で、殆ど剣を扱った経験がない。
ひょっとしたらあなたは、その
けれど、わたしにとってそれは、とても大切な戦い。
だからわたしにその試合を、ちゃんと戦い抜くための剣を教えて」
「あんたまさか、この機会を作るためにわざと勝負を――」
セシルはそれには答えを返さなかった。
セシルの剣の腕は、そもそもカイには及ばない。
それは今の戦いで、証明された通りだ。
だが腕が劣るからといって、セシルがこの勝負を避けて、カイに「剣を教えて欲しい」と頼めば、どうなっただろうか――?
カイは恐らくそんな
だから、敢えてセシルは、勝てない勝負を『勇気』をもって挑んだ。
そして、自身の負けを受け容れながら、「剣を教えて欲しい」と頼み込んだのだ。
その自尊心を捨てた行為のお蔭で、カイはセシルの申し出を即座に断ることができなかった。
「あんた、そうまでして本気で
「そうよ」
カイの質問に、セシルは即答で言葉を返した。
ともすれば自分の身を犠牲にして、それでも騎士としての名誉を得たいという話なのだ。
何が彼女をそれほどまでに駆り立てるのか、カイには即座に理解が及ばなかったようだった。
だが、目の前に
「――仮に剣を教えると言っても、俺は剣士でもないし、ましてや騎士でもない」
「知っているわ。
でも、あなたは、
セシルがそう言うと、カイは苦々しくチッと舌打ちをした。
「酒場の親父だな」
その言葉を聞いて、セシルは肯定するでもなく、小さく微笑んだ。
カイは彼女の顔を見つめながら、観念したように肩をすくめる。
「――わかった。
君は思ったよりも、外堀を埋めるのが上手な策略家のようだ。
どの程度力になれるかわからないが、俺ができることであれば協力しよう」
カイはそう口にすると、跪きながら自分を注目し続けるセシルに向けて、静かに片手を差し伸べるのだった。
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