第3話『美優先輩は○○○されたい。』

 午後5時近く。

 花柳先輩とはあけぼの荘の入口前、風花とは102号室の玄関前で別れて、美優先輩と俺は住まいである101号室に帰ってきた。


「ただいま」

「ただいまです」


 俺達はそう言い、唇を一瞬重ねる程度のキスをする。最近は家を出発するときだけでなく、帰ってきたときにもキスすることが多くなってきた。

 寝室に行き、俺達は制服から私服に着替える。

 美優先輩とはほぼ毎日一緒にお風呂に入るし、たまに肌を重ねることもある。それでも、先輩の下着姿を見るとドキッとする。本当に綺麗だ。


「一佳先生の体調が良くなってきていて良かったよね」

「そうですね。お見舞いに行ったときの様子だと、明日は学校に来る可能性が高そうですね」

「そうなると嬉しいな。今日の成実先生は普段よりも元気がなさそうだったし」

「そうだったんですね」


 大宮先生と霧嶋先生はとても仲良しだからな。大宮先生にとっては、友達が学校を休んでしまった感覚なのかもしれない。

 その後すぐに、俺達は私服に着替え終わる。美優先輩は膝丈のスカートにノースリーブのブラウスという服装だ。よく似合っている。


「ねえ、由弦君。由弦君にしてほしいことがあるんだけど……いいかな?」

「もちろんです。俺にできることであれば」


 美優先輩のお願いはできるだけ叶えさせてあげたい。

 ただ、頬をほんのりと赤くして、俺をチラチラと見ているのが気になる。いったい、美優先輩は俺にどんなことをしてほしいんだろう?


「壁ドンしてほしいの」

「……えっ?」


 全く予想していなかった言葉が出てきたので、間の抜けた声が漏れてしまった。


「壁ドンって……相手を壁まで追い詰めて、壁にドンと手を突くあれですか?」

「うん、それで合ってる」

「でも、どうして壁ドンをしてほしいと?」

「これまで、由弦君に一度も壁ドンされたことないから」


 記憶を辿ってみると……確かに、美優先輩に一度も壁ドンをしたことがないな。


「あと、今日……由弦君は一佳先生にお粥を食べさせてあげたじゃない。それが、先生にとって、漫画の憧れのシーンに似ていた。それが分かったとき、一佳先生が羨ましいなって思ったの」

「そうだったんですね。そういえば、あのとき……美優先輩も漫画のシーンに憧れたことがあると言っていましたね。もしかして、そのシーンが……?」

「うん。憧れのシーンの一つが、壁ドンされて好きだって告白される内容なの。由弦君に壁ドンされたらどんな感じなのかも興味あるし、再現してみたいなって……」

「なるほど」


 霧嶋先生の話を聞いて羨ましいと思うとは。可愛い人だ。しかも、やりたいシーンが壁ドンというのがまた可愛い。

 俺も漫画やアニメで、壁ドンのシーンは何度も見たことがある。シーンの流れによっては見ていてかなりドキドキすることもあったな。そんな壁ドンを美優先輩にしたらどんな感じなのか。興味がどんどん湧いてくる。壁ドンだけにね。


「分かりました。では、壁ドンしましょうか」

「ありがとう!」


 そうお礼を言う美優先輩はとても明るい笑顔を浮かべていて。俺に壁ドンをしてほしい気持ちが相当強いと窺える。


「ちなみに、由弦君って今まで誰かに壁ドンしたり、されたりした経験ってある?」

「壁ドンしたことはないですね。されたことも……」


 そう言ったとき、入学直後に風花の部活用水着を買いに行った際、ショッピングセンターで出会った花柳先輩に人気のないところに連れて行かれ、壁に背中を叩きつけられたことを思い出した。あのとき、花柳先輩は手を壁に突くのではなく、俺の着ていたシャツの胸元を掴み上げていたから壁ドン……とは違うかな。あと、俺への不満が爆発したときも、胸元を掴まれて寝室の壁に背中を叩き付けられたっけ。

 昔の花柳先輩はとても恐かったな。あの頃のことを考えると、今のような関係によくなれたと思うよ。


「由弦君?」

「……か、壁ドンもされたこともないですよ。色々あって、背中を壁に強打した経験はありますが」

「そっか」

「美優先輩は壁ドンしたり、されたりした経験はあるんですか?」

「私もないよ」

「そうですか」


 経験なしと知ってちょっと嬉しい。ということは、これがお互いにとって初体験となるのか。そう考えると、ちょっとドキドキしてきた。


「美優先輩。例の壁ドンシーンがある漫画ってこの家にありますか? 参考に見てみたいと思いまして」

「本棚に入っているよ。ちょっと待ってて」


 美優先輩は本棚の方へ向かい、棚から一冊の本を取り出した。壁ドンシーンを見せるためか、ペラペラとページをめくっている。


「……あった」


 そんな美優先輩の声が聞こえ、先輩は俺のところにやってくる。美優先輩憧れの壁ドンシーンはどんな風に描かれているのかな。


「このシーンだよ」


 と美優先輩は言い、俺に漫画を渡してきた。美優先輩曰く、女子が主人公の作品の恋愛漫画であり、憧れの壁ドンシーンはクライマックスとのこと。

 少し目つきがキツい男子が、美優先輩に似た可愛らしい主人公の女子に壁ドンをしている。男子は女子に顔を近づけ、


『お前のことが好きだ。俺と付き合ってくれ。……悠子』


 と告白する。その言葉を受け、主人公の女子……悠子はとても嬉しそうな笑顔を浮かべ、


『……はい。よろしくお願いします。亮君』


 告白を受け入れ、亮のことを抱きしめてキスをする……というところで、開かれているページのシーンが終わる。


「壁ドンに加えて告白。しかも結ばれるので、これはキュンとなりますね。先輩が憧れて、俺と再現してみたいと言うのも分かります」

「本当にいいよね、このシーン!」


 いつになく、弾んだ声でそう言う美優先輩。そんな先輩の目はとても輝いていて。この壁ドン&告白シーンがとても好きなのが伝わってくる。


「では、この2ページを再現してみましょうか」

「うんっ。リビングのテレビの横の壁でやろうか。あそこなら少し広いし、風花ちゃんの家側じゃないから」

「外壁の方ですから、風花の迷惑にならないですもんね。分かりました」


 俺達は寝室を出てリビングへ向かう。

 例のシーンを再び読んで、男子の方のセリフを暗記する。美優先輩と相談して、セリフの中に登場する名前については俺達の名前に置き換えることに決めた。

 セリフの暗記も終わったので、俺は壁の前に立っている美優先輩と向かい合うようにして立つ。


「じゃあ、始めましょうか」

「うん。お願いしますっ」


 これから、憧れのシーンを再現するからだろうか。美優先輩の笑顔は赤みがかっていて。とても可愛いな。

 俺はゆっくりと美優先輩に近づいていく。そのことで、美優先輩はゆっくり後ずさりして。

 そして、美優先輩の背中が壁にくっつきそうなところで、

 ――ドンッ!

 右手で壁を叩き付け、俺は美優先輩に壁ドンする。その瞬間、美優先輩は「きゃっ」と声を漏らす。

 これが人生初の壁ドンだけど……結構いいな。美優先輩のことを独占できている感じがして。さっきよりも顔を赤くしている美優先輩も可愛くて。

 ……って、今は漫画の再現中だった。

 俺は美優先輩のことを見つめながら、先輩にゆっくり顔を近づける。


「お前のことが好きだ。俺と付き合ってくれ。……美優」


 漫画の亮君と同じ告白のセリフを言う。美優先輩とは付き合っているし、漫画の再現ではあるけど、先輩に告白するとドキドキするな。普段と違ってタメ口で、先輩のことも呼び捨てだし。段々体が熱くなってきたぞ。

 美優先輩は真っ赤な顔に可愛らしい笑顔を浮かべて、


「……はい。よろしくお願いします。由弦君」


 告白の返事をして、俺のことを抱きしめてキスしてきた。

 全身から伝わってくる美優先輩の温もりはとても優しくて。甘い匂いがして。先輩の唇は柔らかくて。キスした瞬間に、漫画の再現は終わっている。それでも、美優先輩と唇を重ね続ける。


「んっ……」


 憧れのシーンの再現ができて気持ちが盛り上がったのだろうか。美優先輩のそんな可愛らしい声が聞こえた瞬間、口から何かが入り込んできた。生温かくて、絡みつく独特な感触。入り込んできたものが先輩の舌だとすぐに分かった。俺からも舌を絡ませる。

 少しの間、舌を絡ませ合うキスをした後、美優先輩から唇を離した。はあっ、はあっ……と息を乱している先輩がとても艶めかしい。


「憧れのシーンが再現できて、由弦君に初めて壁ドンされたのが嬉しくて、つい舌を絡ませちゃった」

「漫画の2人は舌までは絡ませませんでしたよ。……再現してみてどうでしたか?」

「凄く良かったよ! 由弦君が相手だから、壁ドンされて凄くドキドキしたよ。あと、タメ口で私を呼び捨てにするのも、普段とのギャップがあってキュンってなっちゃった。憧れのシーンに似た体験ができて嬉しいって言った一佳先生の気持ちがよく分かったよ」


 えへへっ、と凄く嬉しそうに笑う美優先輩。そんな先輩を見ていると、漫画の再現をしてみて良かったと心の底から思う。


「由弦君はどうだった?」

「相手が美優先輩だったので凄く良かったです。壁ドンすると先輩を独占できている感じがして」

「ふふっ、そうだったんだ。由弦君がそう言ってくれて良かった。由弦君、私のお願いを聞いてくれてありがとう」

「こちらこそ。人生初壁ドンを美優先輩にできましたから。ありがとうございます」

「いえいえ」


 これからしばらくの間、雨が降ったら今日の壁ドンのことを思い出しそうだ。来年以降の梅雨の時期にも。

 漫画のシーンの再現というのは結構面白いんだな。今後も、たまにはこういうことをしてみてもいいかもしれない。

 夕食時までにはまだ時間があるので、俺達は寝室に戻って、今日の授業で出された課題をこなすのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る