遠い花火

大澤めぐみ

遠い花火


「杏子。そんなところで寝てると風邪をひくぞ」


 そう声を掛けられて、ペディキュアを乾かすあいだ、居間のソファーで本を読んでいたわたしはゆっくりと目を開いた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。もうとっぷりと日は暮れていて、薄闇のなかにぼんわりとした影が漂っている。


「ああ、お兄ちゃん。帰ってたの」


 パチッと部屋の明かりがついて、わたしは一瞬、目を細める。曖昧だった輪郭がきゅいっと縮まって、お兄ちゃんの姿が見える。大学入学を機に家を出て東京にいったお兄ちゃんは、こうしてときどき、ふらっと実家に戻ってくるのだけれど、いつも突然で事前の連絡というのはない。けれど、そろそろ帰ってくるんじゃないかっていう予感はしてたから、わたしももう、あまり驚きはしない。


「そういえば、杏子。俺の予備の真空管を落としただろ」


 お兄ちゃんが息を吐きながら、派手な柄のシャツのボタンを開ける。ピタリとしたジーンズに包まれたおしりはキュッと小さくて、腰が細い。背が高くて手足もにょろりと長いから、まるで針金が立って歩いているみたいだ。


「あ、うん。ごめんなさい。掃除をしているときに、うっかり引っかけちゃって」

「あのさ~。あれ最後の一個だし、つぎ壊れたらもう部品を探すのも大変なんだからな? だいたい、俺の部屋に勝手に入るなよ」

「ごめんなさい。でも、そういうわけにもいかないもの。古い家だから、なにもしてなくてもあっという間に埃がたまっちゃうの。お兄ちゃんの部屋も風も通さないといけないし、こまめに掃除もしないと」

 

 お兄ちゃんがあの真空管アンプを大事にしているのは知っているし、それの予備の部品を落っことしてしまったのは悪いとは思うけれど、置いて家を出て行った人にとやかく言われたくはないとも思う。そんなに大事なら、あれも一緒に向こうに持っていけばよかったのだ。


「ああでも、外箱のプラスチックが割れてるだけで本体は大丈夫かも。付けてみないと分からないけど。まあいいや。杏子、晩ごはんはなにか食べたのか?」


 お兄ちゃんがこちらを振り返る。ここに住んでいたころと少しも変ったところのない、鋭角な顎のライン。すこし癖のある長めの髪が揺れる。女の子にモテそうな、彫りの深い整った顔だち。実際、高校生のころのお兄ちゃんは馬鹿みたいに女の子にモテていた。綺麗な顔をしていて、服装のセンスもちょっと奇抜だけど妙に似合っていて、お喋りが上手で、海外のジャズとオーディオに凝っていて、そのうえ家はお金持ちだった。この顔で、真空管アンプのプレイヤーにアナログのレコードをかけながら、マイルスデイビスがどうだこうだといった、よく分からないけどなんだかオシャレっぽい話をとても楽しそうにするのだ。そりゃあ、田舎の女子高生なんかあっという間にイチコロだ。


「ううん。本を読んでいるあいだにウトウトとしちゃってたみたい。そのときはまだ陽があったはずなんだけど。いま、何時?」

「七時半。まったく、誰かがいるとちゃんとしっかりできるのに、ひとりになるとそうやって途端にいろいろなことがいい加減にズボラになるな、杏子は。いつまで経っても変わらない」


 この家に住んでいるのは、今ではもうわたしだけだ。戦前からこの場所にあるずいぶんと古い家で、ひたすらに広い。けれど、もともとの素性が悪くないのだろう。玄関の引き戸も、むかしの規格ですこし太っちょな襖も、今でも抵抗なくスルスルと動くし、縁側の大きな木枠の窓が割れたときは、ガラスを入れ替えにきた業者の人に「これはもう文化財レベルなので、絶対にアルミサッシなんかに替えないでください」と言われてしまった。


 むかしはこの古臭い家が大嫌いで、友人たちの住むモダンな団地の暮らしに憧れたものだったけれど、今ではこの家がだんだん好きになってきた。年に一度、縁側の窓から見られる桜の花はそれは見事なものだし、欄間の彫り物もありきたりだけれど繊細で、いつまでも見飽きるということがない。


 けれど、やっぱり古いのは古いから、掃除や手入れはこまめにする必要があって、なにしろとてつもなく広いから、掃除をしているだけであっという間に一日が終わってしまう。山の斜面にたっているから、平屋なんだけど半地下みたいな部分もあって、今日は物置になってしまっているそこを久しぶりにがっちりと掃除した。たぶんそれで、疲れてうっかり眠ってしまったのだろう。


 両親はいなくなったっきり一度も顔を出しもしないけれど、お兄ちゃんだけはこうしてときどき様子を見にきてくれる。きっと、両親はわたしのこんなズボラなところを知らないから、すっかり安心しているのだろう。わたしは、両親の前ではずっと上手に猫をかぶり続けていた。


「すこし遅いけど、なにも食べないのは身体によくない。晩ごはんにしよう。杏子、なにか食べたいものはあるか?」と、お兄ちゃんが言う。

 わたしが「作ってくれるの?」と、訊くと「まあ、ある材料でできるものなら」と、答える。

 冷蔵庫にはなにがあっただろうかと、すこし考えて、わたしは「カルボナーラ」と、リクエストする。「お兄ちゃんのカルボナーラが食べたい」


「そんなものでいいのか? もっと手の込んだやつでもいいぞ」

「いいの。カルボナーラが食べたいから」


 今からお米を炊くのはさすがに億劫だし、冷やごはんも余ってない。卵とベーコンはあったはずだから、カルボナーラならすぐできるだろう。それに、お兄ちゃんがつくるカルボナーラは絶品なのだ。生クリームを使わず、卵とベーコンとパルメザンチーズだけで作るのに、魔法みたいに驚くほどクリーミーに仕上がる。わたしがやっても、ぼそぼそのパスタの卵和えみたいになってしまってしまって、今でも真似ができない。


「よし、まかせとけ。エプロンはあるか?」

 お兄ちゃんが言うので、わたしはよいしょとソファーから立ち上がって、奥の部屋の引き出しからお兄ちゃん用のエプロンを出す。ついでに自分もエプロンをかける。普段は台所に立つときもエプロンなんかしないのだけれど、こういうのは雰囲気が大事だ。


 久しぶりに、兄妹そろって台所に立つ。お母さんが使っていた頃に一度リフォームをしているから、今となってはすっかり古くさい造りではあるけれど、家そのものの古さに比べればいくらかは近代的だ。ちゃんとガスコンロもあるし、ステンレスのシンクもある。


「寸胴鍋と……お、フライパンは新調したのか。これ、焦げつかないやつ?」

「最近のやつはだいたい焦げ付かないよ」

「ふーん、便利になったもんだ。でもすこし、小さいな」

「だって、わたしひとりしかいないんだもの。大きいフライパンなんかあっても仕方がないじゃない」

「それもそうか」


 まあ、これでもふたりぶんくらいはどうにかなるだろうと言って、お兄ちゃんはパスタ鍋に水を張って火にかける。湯が沸くまでの間に冷蔵庫から卵とベーコンを取り出し、胡椒などの調味料を用意する。ベーコンを大まかに切って、ニンニクをひとかけ、みじん切りにする。


「え? ゆで時間が四分って嘘だろう? けっこう太いスパゲティーなのに」

「ああ、それはそういうやつなの。切れ込みがたくさん入っていて、つまり、断面が歯車型みたいになっているのね」と、わたしは空間に指で図形を描く。「だから、表面積が大きくなって早くゆであがるの」

 へえ~、と、お兄ちゃんは感嘆の声を出す。「いろいろとあるな。まあでも、理屈は分かるし、要はマカロニと同じことだもんな。むしろ、なんで今までこれがなかったのかが不思議なくらいだ」


「塩はたっぷり、あと、重曹をごく少量」

「重曹?」

「うん。これで麺の食感がすごく変わる。でも、あんまり入れるとスパゲティーっていうよりラーメンみたいになっちゃうから、ここの加減が重要なんだ」


 パスタを袋から出して、くいっと捻じって鍋にいれる。花火のようにパッと均等に麺が拡がって、さい箸ですこし突くとすぐにぶくぶくと鍋の奥に沈んでいく。これも、わたしは未だにお兄ちゃんのようには上手にできない。


「さて、四分しかないから忙しいぞ」と言って、お兄ちゃんが腕をまくる。フライパンを火にかけて、ベーコンをオリーブオイルでさっと炒める。ボウルに卵をみっつ割り、パルメザンチーズを加え、泡立て器でよく混ぜあわせる。キッチンタイマーが鳴る。


「もうゆであがったのか。よし、杏子。スパゲッティーをあげて」

 お兄ちゃんに言われて、わたしは両手で寸胴を持ち上げる。「お、重い……」と、弱音を吐くと「手が離せないんだ。杏子、がんばれ!」と、お兄ちゃんが声を張る。力をふりしぼって、なんとかシンクにおいたザルにパスタをあげる。


「湯切りして。ここからはタイミングが命だから、俺が今だって言ったらスパゲティーをフライパンにいれて」

 お兄ちゃんはフライパンの火を切り、コンロから浮かせてオリーブオイルの様子をみる。タイミングを見極めて「よし」っと、ボウルの卵をフライパンに入れる。ざっと混ぜたあとで「今だ!」っと言う。

 わたしがパスタをフライパンに投入すると、中華鍋みたいにざっざっと大きくフライパンを振って、余熱だけで手早くパスタに卵を絡ませる。

 あとはお皿に盛りつけて、あらびきのブラックペッパーを振りかければ完成だ。


「マジであっという間だな。よし、杏子。食おう」


 家族が揃っていたころは、和室のちゃぶ台で食事をするのが常だったのだけれど、わたしひとりになってからは、台所の板間に小さなダイニングテーブルを置いて、そこで済ませるようにしている。


「いただきます」と、兄妹揃って手を合わせる。

「熱いから気を付けろよ」と言うお兄ちゃんに、わたしは「それくらいは見れば分かるわよ。いつまでも子供扱いしないで」と、不平をかえす。

 一口食べて「あ、おいしい」と、わたしが言うと「だな」と、お兄ちゃんが得意げな声を出す。「麺だけが不安要素だったけど、ぜんぜん悪くない。溝があるぶん、卵と絡みやすいのかもしれない」

 いつも通りの、お兄ちゃんが作るカルボナーラだった。素朴で、単純な味で、でもとても懐かしくて、たまらなくおいしい。あっという間にペロリと平らげてしまった。


 作るのはお兄ちゃんがほとんどやってくれたので、後片付けはわたしが担当する。洗い物を終え、テーブルを拭いて、食後のお茶を用意して居間に行くと、お兄ちゃんがアンプのスイッチをつけて、ウォークマンで音楽をかけていた。天井の蛍光灯を消して、笠のついたスタンドランプだけを点けているから、すこし薄暗い。薄暗くなると、お兄ちゃんの輪郭が闇にまじってすこしぼやける気がする。


 この部屋は畳敷きなのに、むかしからカーペットを敷いて無理矢理に洋風につかっていて、ローテーブルとソファーと、それからお兄ちゃん自慢のオーディオセットがある。真空管アンプとウッドスピーカーはお兄ちゃんが置いていったそのままのものだけれど、そこに接続されているウォークマンは比較的あたらしい型のもので、これはわたしが買い足した。最近は音楽はすべてハイレゾでダウンロードしている。


 ソファーに腰掛け、目を閉じて音楽に耳を傾けていたお兄ちゃんは、わたしの気配に気がつくと顔をこちらに向けて、言った。

「以前はCDの音なんかダメだよ、やっぱアナログだよねみたいなことを言ってたけどさ、これはやっぱり別格だよな。最終的にはCDでもレコードでもなく、無形のデータだけをそのまま買ったほうが音がいいなんて、なんか皮肉な気もするね」


「ほんとにね。世界がこんなところまでくるなんて、思ってもいなかったわ」と、答え、ローテーブルにお茶を置き、わたしもお兄ちゃんの横に腰を下ろす。


「これは誰?」と、耐熱ガラスのマグカップを手に取って、お兄ちゃんが訊いてくる。わたしは「えっと、ロバート・グラスパー?」と返事をして、iPadをお兄ちゃんに渡す。お兄ちゃんの影響でこういう海外のジャズとかも聴くようにはなったけれど、わたしは音楽を聴いて「あ、なんかいいな」と思う程度なので、お兄ちゃんが求めるようなミュージシャンの背景だとか文脈だとか、そういうマニアックなことまでは分からない。自分で調べてもらったほうが話ははやい。


「すごいな。ちゃんと伝統的なジャズの文脈に乗っていながらも、あらゆる音楽を貪欲に取り込んでさらにアップデートさせている」


 お兄ちゃんが、わたしの目を見て、そんなことを言う。お兄ちゃんは話をするとき、やたらと相手の目を見る癖がむかしからある。わたしなんかは、相手が誰であろうと、人の目を見ながら話をするのはなんだか気恥ずかしい。たぶんお兄ちゃんは、恥ずかしいという感情がちょっと麻痺しているのだ。こんな風に相手の目をしっかり見て「きれいだね」とか「好きだよ」とか「愛してる」なんていう、普通だったら歯が浮いちゃうような台詞も、平然と言えちゃったりするのだ。そのうえこの綺麗な顔だ。そんじょそこいらの女の子なんか、そりゃあもうひとたまりもない。


「俺が聴いていたジャズとはぜんぜん違うけれど、なんていうのかな、このエッセンス、このスピリットはむしろマイルス・デイビスとかがやっていたような正統派のジャズだ。すごい時代になった。これからも、もっと世界はよくなるよ。きっと」


 ああ、懐かしい。

 

 お兄ちゃんがまだこの家に住んでいた頃は、よくこうしてソファーに並んで腰かけ、お兄ちゃんが流すレコードを聴きながら、ふたりで本を読んだりしていた。あの頃はiPadなんてものもなかったし、まだロバート・グラスパーもいなかったけれど、お兄ちゃんがときどき思い出したように口にするジャズ関係のうんちくは、今と変わらずわたしにはまるでちんぷんかんぷんだったけれど、内容を理解できないお兄ちゃんの話し声もまるで外国の歌を聴いているみたいで、それさえも音楽の一部のようで、とても耳に心地よかった。


 いろいろなものが変わってしまったけれど、そのエッセンスやスピリットのような部分は今もなにも変わることがなく、心地いい。なにもかもがとても自然で、当たり前だった。


「そういえば、お兄ちゃんがここに女の人を連れてきたことも何度かあったよね。えっと、なにさんだったっけ?」と、わたしはふと思い出して、呟く。


「ああ、あったな。もう随分とむかしの話だ。初子ちゃんかな。いや、杏子と会ったことがあるのは、英子ちゃんか、佳子ちゃんだったんじゃないかな」

「ナントカ子ばっかりね。誰が誰だか区別がつかないわ」

「時代だよ。あのころはナントカ子っていうのが流行ってたからな。でも、俺はみんなちゃんと覚えてるよ。どの子も、ちゃんと好きだったし、今でも好きだ」

「軽薄にそんなことばっかり言っているから、思い詰めた女の子にブスッと刺されちゃったりするのよ」

「あれな。あれは本当に痛かった」


 お兄ちゃんがそう言って、なんでもないことのように笑う。


「そういえば、お前もなんかいい感じの人がいたんじゃなかったっけ? 前に言ってただろ。えっと、なんていう名前だったかな」

 斜め上に視線を向けて唇をつまむお兄ちゃんに、わたしは「え? 啓二くんのこと?」と訊く。

「あ、そうそう。啓二くん。あいつはどうなったんだ?」

 無邪気な笑顔を向けてくるお兄ちゃんに、わたしは溜め息をひとつついてから「死んだわ」と、返事をする。


「え、なんで?」

「胃ガンだって」

「そうか……」

「あっという間だったわ。言ってもまだ若いから、見つかってからの進行が早かったみたい」


 お兄ちゃんはしゅんと肩を落として、しばらく言葉もなくうつむいていた。なんとも言いようのない気まずい沈黙がしばらく続いて、思い出したようにぽつりと「死ぬにはまだ早いよなあ」と、呟いた。


「ねえ、お兄ちゃん」

 わたしが声を掛けると、お兄ちゃんはこちらに顔を向けて「ん?」と、言う。しっかりと目を合わせてくる。わたしはお兄ちゃんの手を握る。お兄ちゃんの手を、握ることができる。


「綺麗な手」と、わたしは呟く。大きいというよりも、すべてが細長い。痩せていて、節のところがごつごつと骨ばっているけれど、それさえもなんだかバランスがよくて、ほれぼれとしてしまう。つるりとした、とても綺麗な手だ。醜いわたしの手とは、ぜんぜん違う。手だけじゃない。顔も、身体も、眼のしろいところまで、お兄ちゃんはあのときのまま、ずっと綺麗なままだ。


「なんだよ、急に」

「ううん。握れるなと思って」


 派手好きで社交的なお兄ちゃんに、東京は性に合っていたのだろう。水を得た魚のように遊びまわり、あっちでこっちで好きな女の子ができては真剣に愛を囁いていたら、あっという間にこんがらがって女の子に刺されて死んでしまった。わたしはお兄ちゃんの死に顔も見たし、焼いたあとの骨まで拾った。間違いなく死んだのを確認した。


 だから、いまここにいるお兄ちゃんは、たぶん幽霊ってことなんだろう。


 幽霊のくせに妙に存在感があるし、お腹を空かせるわ料理はするわパスタを食べるわで、こうして手を握ることもできるし、ちゃんと温かいし、なんだか道理に合わないっていう気もするけれど、でもまあ、現にそういうものとしてここに存在しているのだから、そういうものなんだろうなと納得するしかない。


「ああ、ちょっと眠くなってきちゃった」

 そう言って肩にもたれると、お兄ちゃんは「おい待て、杏子。いまここで寝るな。寝るならちゃんとお風呂に入って、自分の部屋のベッドで寝ろ」と、揺すってくる。


 揺すられながらもウトウトとしていたところで、不意に部屋のなかがパッと明るくなった。遅れて、どーんという遠い低い音が木枠の窓をカタカタと揺らす。


「あ、花火だ」と言って、お兄ちゃんがソファーから立ち上がり、窓辺に寄る。眠りに落ちかけていたわたしも頭を振って立ち上がり、ゆっくりとした動作であとを追う。


「そうか、今日は花火大会の日か。いいタイミングで帰ってきたもんだ」


 続けて二発三発と、つぎつぎに花火があがって夜空を明るくする。ふもとの河川敷から上がる花火は遠く小さいけれど、山の斜面にたっているこの家からは、遮るものもなく見通すことができる。わたしもすっかり忘れていたけれど、そういえば、子供のころは毎年この日を指折り数え楽しみに待っていたものだった。ここでこうして、家の窓から見える小さな花火を見下ろすのが恒例行事だった。


 お兄ちゃんがネジ式の鍵をあけ、窓を開ける。またどーんと小さな花火がひらいて、お兄ちゃんが楽しそうに「たまやあ」と、声をあげる。


「綺麗ね」と、わたしが呟くと、お兄ちゃんは満面の笑顔で「ああ、楽しいな杏子。そうだ、踊ろうか?」と、唐突に言って、わたしの手を握る。


「ええ? 無茶を言わないで、そんな若い娘さんみたいなこと」と、わたしは眉をひそめる。「いつまでも若いままのお兄ちゃんと違って、わたしはもう、こんなしわしわのおばあちゃんになっちゃってるのに」


 兄が死んで、もう半世紀になる。その間にわたしは結婚して、子供が生まれて、子供がひとり立ちしてからずいぶん経って、思い出したように夫と離婚して、またこの家に戻ってきた。両親もとっくに他界して、もう十年以上もひとりきりでここで暮らしている。それだけの時間が、老いが、ちゃんとわたしの身体を弱らせている。


「来年には孫が中学を卒業するのよ?」

「いいじゃないか、別に誰が見ているわけでもないんだし、気にするなよ」


 そう言って、お兄ちゃんは握った手を引きながら高く掲げて、わたしをくるりと回らせる。視界がぐるりと回って、ときどき光る花火が、薄闇ににじむお兄ちゃんの輪郭をシャープに浮き上がらせる。


「はは。楽しいな、杏子。もっと笑えよ。こういうのは気の持ちようが大事なんだ」

「もう。自分が老いないからって、そうやって気安く言うんだから」


 なにもかもが失われていった。ずっと続くと思っていたもの、この手にたしかに握ったと感じたものも、みんな掌から零れ落ちていってしまった。死んでしまおうかとまで思い詰めた手痛い失恋も、幸せだった新婚時代や、毎日が上に下に狂乱だった子育ても、夫からも子供たちからも顧みられない平板な日常も。


 夜空に光る花火のように、パッと光っては消えていく。わずかな余韻だけを残して。幸福も不幸も等しく薄れ、やがて失くしたことさえ忘れていく。けれど、すべてが消え去ったあとでも、心の奥底に残るなにかのエッセンスのような、スピリットのようなものだけはたしかにあって、それだけはいつまで経ってもなにも変わることがない。


「ああ、やめて。これ以上はしゃいだら本当に死んじゃうわ」と、わたしが言うと「冗談じゃない。お前がいなくなったら、僕ももうこっちに戻ってくる縁がなくなっちゃうからな。僕はまだまだ、現世のジャズに興味があるんだ」と、お兄ちゃんが笑う。


「もう、それだけが目的?」と、わたしは口を尖らせる。お兄ちゃんは笑って、そんなわたしの手を、また別の方向へと引く。わたしは不格好に、すり足みたいなステップを踏む。


 引っ張られる。ただ流されていく。なにも持たず、逆らわずに、身を委ねる。いつか、今はまだ思いもよらないような、美しい世界をこの目で見られるまで。


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遠い花火 大澤めぐみ @kinky12x08

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