第58話 フリースクール10

土曜の朝一番で、ナユから館山に来たいと電話が入った。例の小説の締め切りが明日の夜なのだそうで、ここだと集中して取り組めるらしい。俺の方は問題ないのだが、例えばこれが労働だとすると、彼女たちの要望を全て叶えていたら、俺は休みがなくなってしまう。そう思ったため、今日の夕方までしか使えないことを条件にオーケーを出した。ナユは喜び、ナユのお母さんは恐縮したが、ナユは半年以上引き籠っているのだ。このくらいは何でもないことだった。




俺は、昨日の中村との電話で参ってしまい、土日は大人しくしていようと思っていたところだった。中村にはもう地上げを任せるしかない。昨日電話をしていなければ、まだ説得のチャンスはあった。中原さんや他の誰かの力を借りてだ。しかし、単独で行動したのは思慮のなさからだった。不用意に電話をしたことで、もう説得のチャンスは流れてしまった。












俺が思ったことが稀有であればなんでもない。則ち、LGBTの支援団体が、単にこちらの要求を呑んでくれて、金で動いてくれるのであればそれで全てオーケーなのだ。だが、活動家にとって事務所は聖域のはずだ。マイノリティが目的を持って集うような場所だ。そこに土足で入っていくようなことは絶対に避けた方がいい。松戸に商業施設を建てたいと言ったあの食事会のときの中村は、市役所の市川さんや東日本建築の柴田さんが浮かない顔をしているのを全く見ていなかった。事実、柴田さんは俺にこう言った。




「あの人には誰も逆らえないですから」




中村が、人に配慮できるとは思わない。となると、中村が自ら地上げに赴くと言っているが、それは失敗する可能性が高く、一度彼女たちに心を閉ざされると、再び開くことは難しくなるように思えてならなくなった。












(思い切って、松戸に行ってみるか?)




いや、行ってどうするというのだ。中村にフライングして地上げをするのだけは絶対に駄目だ。それをやると、もう俺という人間は終わる。信頼が地に落ち、二度と金の流れに乗れなくなるというか、少なくてももう仕事は回ってこないだろう。




(単純に、美和さんと仲良くなりに行ってみるか?)




セクシャルマイノリティでもない俺が、行ってどうするというのだ。怪しまれるとまでは言わなくても、仲良くなれるとは考えにくいし、仲良くなったところで、正体を明かすわけにはいかないだろう。そこまで考えて、俺はふと携帯を取り出した。LGBTのサイトを調べまくっていたときに、ある単語に突き当たったのを思い出したのだ。




「アライ」




アライとは、マイノリティを理解し支援するという立場を明確にしている人を指す言葉らしい。別に普通のことかとも思うが、そういう立場を表明していることが大事らしい。リーブザハートのホームページにも、アライの活動について記述があった。俺はこの、支援という言葉に一縷の望みを見出だしていた。




(アライとして活動したいと言えば、いけるんじゃないか?)




しかし、再び同じ問題にいきついた。仲良くなったところで、正体を明かすわけにもいかない。俺が神谷を名乗り、月曜にでも神谷ハウジングが地上げに乗り出せば、そこに何らかの繋がりを勘ぐられたら、逆効果になることもある。俺は考えた。久し振りに、頭が痛くなるほど考えた。もう短絡的に行動して良い段階ではない。また、その立場にもない。俺は、祖父の顔に泥を塗る真似だけはしてはいけないのだ。












考えているうちに、ナユが来た。ナユは、第一声で「先生」と言った。




「先生、今日はありがとうございます!私頑張ります!」




ナユは気付いていない。俺は先生だという意識は全くなかったが、確かにナユたちからしてみれば、先生だ。




そう考えたとき、俺の脳裏にピリッとした電流のようなものが流れた気がした。




「待てよ」




そう、思わず声に出してしまった。ナユは、俺を見て不思議そうな顔をしたが、俺はもう今閃いたことで頭がいっぱいだった。




つまり、俺が館山陽だまり中学校の代表者として、LGBTについて学びに行けばいいのだ。アライの立場で子供に接したいと言って。綾子の話では、収入源の一つに、学校や企業での啓蒙活動があるらしかった。俺はそういう話を依頼しに行くという設定でも良い。とにかく、彼女と繋がりが持てればいいのだ。これだと正体を明かすのは一向に構わない。地上げの事業とは全く別の、教育関係の事業を手掛けているので、同じ穴の狢だとは思われないだろう。それは、この教育という言葉の持つ特権だ!




方向が決まった。そこからの俺の行動は、完璧だった。まず、杉本くんに車を出すよう指示して、次に由利先生と連絡を取り、ナユの相手をしてもらう段取りをつけた。ナユは、一度会っているし、基本的には一人で取り組むだけなので、嫌だとは言わなかった。十時過ぎに由利先生が家に顔を出すと、後を全てお願いして、俺と杉本くんは松戸に向かった。家には、代わりに磯崎さんに来てもらうことになった。




松戸までたっぷり三時間はかかったが、その間俺はノートに作戦を考えていた。まず、ヒロコの知り合いだと美和さんに明かす、そして、フリースクールを営んでいるがアライの立場で子供と接したいという旨を伝えることにした。その上で、とにかく美和さんの信頼を引き出すために、セクシャルマイノリティについて思っていることや、感じたことを率直に伝えるのだ。幸いにも、俺は基本的に彼女たちの活動には賛成の立場だ。ちゃんと話せば伝わるはずだ。そこで信頼を勝ち取れたら、仮に中村が失敗しても、俺という窓口ができるはずなのだ。とにかく、誠意を見せることを第一にする。それ以外にない。




俺は綾子に電話をして、中村の動向を探ったが、予想通り土日は会社自体が休みで、どのような活動も予定にはなさそうだった。これなら、ハウジングの社員とも鉢合わせする危険性がない。途中で買った手土産を持参して、俺は単身リーブザハートの松戸事業所へと乗り込んでいった。












時刻は昼の一時を過ぎていた。事務所の中には、思っていたほど人の影はなかった。ショートヘアーの若い女性が二人、中年の男性と初老の男性のペア、大人しそうな女性、そして美和さんがいた。美和さんは、ボヘミアンのような派手な透けているシャツを着ていて、下はジーンズ生地のホットパンツだった。男性のカップルと親しげに話していたが、俺の顔を見るとすぐさま俺に話しかけてきた。




「こんにちは!初めてね。どうぞ」




俺は男性カップルと同じテーブルを案内された。二人に軽く礼をして椅子に座った。




「あの、何日か前にきたヒロコって子の紹介で来ました。」




俺は携帯の画面を見せた。ヒロコと木下くん、美和さんの三人で写っている写真だった。




「ヒロコちゃんの友だちね。ゆっくりしていって!」




美和さんは、パッと目を輝かせて、俺の隣に座った。この人は、接客業をやっていると思った。服の上から細い身体のラインが見えた。胸はしっかりと出ていた。甘い匂いが鼻から直接脳に届いた。むき出しの太ももが、嫌でも目に入った。俺は若干目のやり場に困ったが、しっかりと目を見ながら話した。




「ありがとうございます。ヒロコに聞いたのですが、セクシャルマイノリティに関連した本とか、パンフレットもたくさんあるって。僕は、小さいですが学校を運営しているんです。それで、生徒にもそういう知識とかを教えたいんです。」




「学校の先生!?あなた、何歳なの?」




「今年二十歳になります。学生なんですけど、縁があって子供を預かることになって。けど、資格もないですし、全部一からやってるんです。」




「すごいね!そうだ、待ってて」




美和さんはそう言って立ち上がると、冷蔵庫を開けてお茶を出してくれた。




「ストレートティー。シロップ使う?」




「大丈夫です」




「あなたの話、聞きたいな」




「はい。僕は神谷一樹、大学生です。館山にある実家を使って、フリースクールを開いています。子供たちはのびのびとやっていますが、もし性に関する悩みを抱えていたらと思うと、心配なんです。ネットで、自殺者の数を見ました。ノーマルの人の六倍もあるとか。僕は子供たちをそういうふうにはさせたくありません。リスクがあるならやれることはやっておきたいんです」




美和さんは興味深そうに俺を見た。俺はなおも続けた。




「子供たちは僕には何でも話しますが、言えることと言えないことがあるはずです。もし彼らがそういう悩みを抱えているのなら、僕はどういう姿勢で彼らに接すればいいのか、毎日考えています。だからこちらに来ました。こちらの活動をネットで見ましたが、サポート体制もしっかりしていますし、力になってくれるんじゃないかと思いまして」




先にいた男性二人は俺に気を遣ったのか、笑顔で立ち上がると、美和さんに挨拶をして出ていった。




「なんか、すいません」




「ううん。あなた、優しいのね」




「どうでしょう」




「優しいと思うよ。私、あなたのことよく知らないけど、あなたなら大丈夫だと思う」




美和さんは俺の目を見て優しく微笑んだ。




「私は中学生のときには、自分の身体の違和感についてわかっていたの。でもね、それを周りにはずっと隠していた。オカマって言われるのが嫌で、他の人の前でも平気な振りをして過ごしていたのね。でもね、それってすごく辛くて」




美和さんは、笑顔のまま語った。




「高校は別の県に行ったの。そこは進学校で、本当の私を受け入れてくれそうな雰囲気はあった。でも私はカミングアウトなんてできなかった。男として三年間過ごしたの。この頃は、違和感じゃなくて、はっきりと嫌だったわ。でも、カミングアウトをしなかったっていう判断は間違っていなかったと思う」




「辛かったですか?」




「うん。新しくできた友達が離れていったの。あいつキモいって。それだけじゃない。ある日、先生がね、セクシャルマイノリティの授業をしたんだ。先生なりに私のことを思っていたんじゃないかな。でもね、その授業をやったの、私のクラスだけだった。みんなそれで、私がそうだって確信したんじゃないかな。そこからは誰とも話さなくなって、高校もやめちゃった。でもやめたらすっきりしたな!」




こんなに重たい高校時代の話は聞いたことがなかった。俺は高校のとき、悩みなんてなかった。部活をやって、帰りに俺のアパートに皆を集めて、好き放題やっていた。そういう高校時代しか知らなかったから、ショックだった。話を聞いた俺は、ひどい顔をしていたらしい。




「一樹くん、そんな顔しないで。あなた優しいから、私のことも心配なんだよね?ありがとう。私は今が幸せだから大丈夫よ。夜にはショーパブで働いているけど、私を見に来てくれる人も結構いるし、ちゃんと恋愛もしてる」




「美和さんは強いんですね。」




「うん!自慢じゃないけど私は強いよ!」




美和さんはニコッと笑った。白い歯が可愛かった。




「でもね、私はたまたま強く産まれた。そうじゃない人の方が多いの。抑圧されて虐げられて、自分を殺して生きている人の方がずっと多いの。だから私はここで、そういう人たちの居場所を提供しているの。あなたはそこにいてもいいんだよってメッセージを送ってる」




店内を見回した。女性同士のカップルは、楽しそうに談笑している。




「私が高校のときに一樹くんみたいな人が先生だったら、やめなかったかもしれない。一樹くんは、そのままで十分だと思うよ。でも何か行動を起こしたいのなら」




美和さんは丸いバッジを差し出した。虹の七色を縦縞にしたものだ。




「これを買ってくれると嬉しいな。そのお金は私たちの活動費用になるし、あなたがこれを持っていると、それだけで身近にいるセクマイの人たちへのメッセージになるから」




美和さんは、俺の夏用カーディガンの胸元に、バッジをつけてくれた。細い指だった。しかも綺麗なネイルがしてある。本当にこの人は男なのかと疑いたくなるくらい、美和さんは綺麗だった。肩幅は多少あるが、男よりは格段に狭い。身長は百七十センチの俺より低い。何より全体的にスマートで綺麗だし、身体から流れ出る甘い匂いは、俺の頭をクラクラさせる。




モノトーンのサンローランのロゴの下に、レインボーカラーが映えた。美和さんはそのまま、俺の髪をスッと撫でた。




「一樹くん、髪痛んでるね」




「そうですか?最近、疲れることばっかりで、それが髪にも出てるかもしれない」




「綺麗な顔しているのに、もったいないよ」




美和さんは、今度は手の平で俺の頬を撫でた。凄く近くで、目と目が合った。長い眉毛に二重瞼、薄いアイラインとチークは全然嫌味にならないほどだ。唇には、薄いピンク色のジュエルのようなリップを塗っていた。美和さんは、俺が会ったどの女よりも綺麗だった。しばらく、昼下がりのときが止まったような錯覚に陥った。




頬に当てている美和さんの手に手を重ねると、美和さんは目を閉じた。俺は思わず美和さんの腰に手を回した。あまりにも細いウエストに驚いた。




「待って」




「あ、ごめんなさい」




「ううん」




すぐに俺たちは人の目を気にして離れた。幸いにも、女性カップルと、もう一人の大人しい女性は、こっちを見ていなかったようだ。俺たちは微笑み合った。気持ちが通じたような気がした。












俺と美和さんはラインを交換した。俺はパンフレットや本を一式買い揃えて、飲み物代とバッジ代を支払った。結構な金額になった。




「一樹くん、この後どうするの?」




「今日はもう帰ります。ここに来れて良かったです。」




「私も一樹くんに会えて良かった」




俺と美和さんは、ずっと見つめ合いながら会話した。




「一樹くん、こっち来て」




帰り際に、美和さんが俺を呼んだ。給湯室と書かれたスペースがあり、そこは誰からも死角だった。美和さんは俺の手を引いてそこにいくと、いきなりキスをした。




「嫌だった?」




キスをしてからそう言った。俺は返事をする代わりに、自分から唇を求めた。俺が腰に手を回すと、美和さんは俺の首を抱いた。俺たちはそこで、音が鳴るほどキスをした。やはり甘い味がした。




「嬉しい」




美和さんは、俺の腕をさすりながら、俺の胸に顔を埋めた。

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