第57話 フリースクール9

サナとナユは、いつもと変わらずに館山に来た。笑いながら、外で待っていた俺に手を振った。サナとナユのお母さんは、俺によろしくと言い、帰って行った。俺は、サナの心境を思って少し複雑な気持ちになった。もしかしたら、ここには来たくなかったのかもしれない。でも、ちゃんと来た。なぜそうしたのかはわからない。自分の居場所を守りたかったのかもしれないし、ナユのためかもしれない。俺とユウナのために来たのかもしれない。この子は優しい子なのだ。そういうふうに考えていてもおかしくない。だから俺は、サナに会ったら必ず伝えようと思っていたことを、朝一で伝えた。




「サナ、一昨日の答えだけど」




 俺がそう言うと、キョトンとした顔を見せた。忘れているような素振りだ。俺は構わずに話した。




「サナ、俺はユウナのことが好きなんだ。お互いに素直になれなかったりするんだけど、俺の気持ちは変わっていない。これでいいかな?」




 サナは顔を真っ赤にして小さく頷いた。ナユは絶句していた。こんなにあからさまに伝える必要はなかったかもしれない。でも、俺なりの誠意を見せたつもりだ。子ども相手には特に、下手な小細工はしないほうが良いんだと思う。誠心誠意ぶつかれば、細かい部分は伝わらなくても、心が伝わる。俺は二人と過ごしているうちに、そんいうふうに考えるようになった。




 サナはその後、普通に過ごした。午前中は二階の洋室に一人で籠り、机に向かっていた。昼食の準備をするときに降りてきて、終始嬉しそうに手を動かした。ニコニコしながらナユに話しかけ、俺の名前を呼んで意味もなく手を振った。




 今日はランチに人を招いていた。千葉総合大学の盛田だった。俺は、二人に盛田を紹介した。既に初老の年を過ぎており、おっとりした物腰でゆっくりと話した。二人が学校を休んでいることを言うと、それをニコニコした顔で受け入れた。それで、二人とも気を良くしたみたいだった。




 午後からは、ナユは小説を書き、サナは自転車で出かけて行った。俺は盛田教授と、学校設立の打ち合わせをしていた。




「外部に広報で出す文書はできました」




「いいですね。あとは、事業の実態を作って実績を積んでいけば、自然に生徒は集まると思います。神谷くんはずっとここにいれるんですか?もし、ずっといれるわけではないのでしたら、誰か中心になって学校を運営してくれる人が必要です。私の知り合いで良ければ紹介しますが、どうしますか?」




「それは、ガバナンスというか、マネジメントの面からみて、ということですか?」




「というよりも、子どもの心に寄り添う人、そこにいると安心する人、そういう人です」




 なるほど、と思った。それなら心当たりがある。




「実は、一人候補がいるんです。公務員を退職した人なんですけど、五年前までは中学校の先生だった人です」




「それはいいですね。現場を知っている人が入るのが一番ですよ。あとは、地元の企業や団体で、協賛してくれるところを探したら良いでしょう。施設や資源を使わせてくれるところです」




 体育館や図書館だけでなく、例えば実際の企業で職業体験をしたり、畑作業の道具や知識を与えてくれるような人を、一人でも多く探したほうが良いと、盛田教授は言った。俺はそういうものも全部メモを取った。今週に入ってからずっと書いているノートは、すでに七ページ目に突入していた。結構知識もついてきた。




「それから、良ければこの実践を、論文にして発表しても良いですか?」




「もちろんです!それだったら、バカみたいな初期投資は止めたほうがいいですね。既存の建物やなんかを使ったほうが、他の地域でも参考になると思いますし」




「いえいえ。それは好きにして結構ですよ。僕は僕で勝手にまとめますから。もちろん生徒の名前は出しません」




 最後に、盛田の名前で依頼書を作って解散した。地元周りのときに、教授の名前があったほうが良いからだ。教育委員会への手配は、盛田のほうで代わりにやってくれることになった。向こうにも顔が利くからだ。これで大体の手配は整った。由利先生については、俺からお願いしたら断らないだろう。もし、断られたら、そのときには改めて盛田にお願いすることにした。こっちの事業はかなり順調に進んでいた。












 盛田が帰ると、すぐにサナが帰ってきた。そして、ナユの隣に座り、携帯電話を操作した。ソファに両足を載せて携帯を扱う姿は、ユウナそのものだった。




「サナ、あと二時間あるけど、どうする?」




 俺はアイスコーヒーを二人に出して、サナの隣に座った。俺はサナとの間に十分な距離を取って座ったつもりだったが、サナは俺のほうに身体を寄せて、俺の腕にくっついた。サナを見ると、サナは俺の顔を見てニコっと笑った。




「私はここでいいです!」




「じゃあさ、小学校行ってみない?体育館、借りれないか聞いてみるから。」




「本当!?行きたい!」




「待ってね」




 由利先生に電話をすると、二つ返事でオーケーが出たので、俺とサナは小学校まで運動をしに行くことにした。




「ナユはどうする?」




「私はここにいます。締め切りが近いので」




「締め切り?」




「コンクールに出すんです」




「凄いじゃん」




「えー、わかりません!」




 可愛いな、と思いながら、俺はサナと二人で小学校へと出かけた。












 由利先生は昨日、元旦那と会うことができた。詳しいことは聞いていないが、夜中に電話があって、結果だけ報告を受けた。満足した声をしていた。そのことは、俺はもう問わないことにした。言いたくないこともあるだろうし、今は由利先生が自分の時間を生きることが大事だからだ。




 そして、岡本たちのことだ。思い出したくもなかった。安易に岡本に頼ってしまった自分を恥じた。こんなこと、祖父は絶対にやらなかったはずだ。計画性と意思の弱さを痛感した。計画性は、百歩譲って仕方ないにしても、二度とヤクザとは付き合わないと決めたはずなのに、なぜ俺は岡本に電話をしたのか。電話をかける瞬間も、俺の頭にはそのことがあった。ただ、黒田のお墨付きをもらったことで、大ごとにはならないだろうと高を括った自分がいた。なんとかなるだろうという精神だ。それが原因だった。




 くよくよと考えても仕方のないことだが、こればっかりは反省しなければいけないことだった。誰かにこのことを話したいと思ったが、咄嗟に頭に浮かんだのは尾見くんだった。とてもじゃないけど言えない。軽蔑されるだろう。それだけは嫌だった。とにかく自分の中で噛みしめて、消化するしかない。そして先へ進もう、そう考えることができたのは、サナとナユの存在が大きかったからかもしれない。












 体育館で、俺はサナとバドミントンをしたが、全くついていくことができなかった。校庭で遊んでいた子供たちが、由利先生に連れられて体育館まで来た。他の先生も見学に来た。俺は全くいいところがなかった。




「ちょっと休憩!」




 ラケットを置くと、途端に子供たちが俺の代わりにサナに挑んだ。結果は、誰もサナには勝てなかった。先生も誰もだ。サナは子供たちから賞賛された。特に、高学年の女子は、素性の知らないサナのことを、実の姉かのように接していた。サナは笑顔で子供たちに対応した。良い光景だった。




「子供って可愛いですね」




 帰り道に、サナはそんなことを言った。サナも子供だとは言えなかったし、俺も子供だとも言えなかった。あのときサナは確かに大人びていた。大人と子供の境目は、自覚と社会性だ。俺はどっちもない。考え方は一人前だが、いわゆる口だけというやつだ。




「神谷さん」




「ん?」




「なんでもないです!」




 そう言ってサナは走り出し、先に家に帰ってしまった。














「おまえ、サナになに言ったんだ?」




「なんで?」




「あいつ、昨日までは死にそうな顔してたのに、帰ってきたらニタニタしやがってよ。キモいわ」




「ユウナが好きだって言った」




「へー」




 ユウナは照れ隠しをした。俺たちは他愛もない話をその夜したが、俺はユウナになら全部話せるとそのとき思った。それは甘えかもしれないが、好きな人にくらい甘えてもいいと思う。そうでなければ疲れる。












 生きているだけで疲れる。息をするだけで疲れることすらある。その度に神経が磨り減る。いわゆる余裕のない状態に陥る。そういうときに、向き合ってくれるだけでいいから、いてもらえる誰かがほしい。一方通行だって構わない。そして、俺も誰かに寄り添いたいと思う。




 リーブザハートの松戸の事務所にいた、美和さんという女性は、きっとそういう空間を提供しているはずだ。俺は携帯で、ヒロコと木下くんと一緒に写る美和さんを見た。




 昨日の、竜也の店の店長の話では、リーブザハートは結構な金を稼いでいるらしいが、それはそれで必要なことだと思う。一方で、セクシャルマイノリティであることが原因で自殺をする人の割合は、そうでない人に比べておよそ六倍近いのだという。これは信頼できる数値であり、例えばイジメにあった経験や、薬物や犯罪に巻き込まれた人たち、そういった人たちよりも格段に高いらしい。俺のようなノーマルな人間でさえ疲れるのだ。彼らは一体、一日の終わりにどのくらい疲れて眠りにつくのだろうか。想像がつかなかった。




 ある与党衆議院議員が、『同和問題は解決されなかった』、と発言した。同和問題については、全てをタブーにしてしまったこと、つまりあれも差別、これも差別、差別的な言論は全て排除するという世論になってしまった。結果として、同和問題が遠ざかってしまったという側面があるのだ。




 それと同じことが、セクシャルマイノリティの問題に起こらないとも限らない。そうなると、彼らがどれほど疲れているかということは、闇に葬られるだろう。それでいいのだろうか。




 そこまで考えて、俺はやはり、リーブザハートとの交渉には、俺が直接出向こうという結論になった。中村社長には悪いが、相手をただの金の亡者で考えてはいけない。しっかりとした対話が必要だ。それなしに、どんな交渉もあり得ないだろう。時間は夜の十時を過ぎていたが、俺は構わず電話をした。




「おじさん、松戸のマンションの地上げの件ですが、リーブザハートの事務所は俺に行かせてくれませんか」




「会長、私が行くことになっていたでしょう。どうしたのです?」




「知り合いが、あの事務所にいるんです」




「会長、これは仕事ですよ」




「ええ」




「ええ、じゃないでしょう。この際だから言いますが、ビジネスに関しては会長は素人です。もちろん、グループをここまで成長させたのは先代会長です。それは感謝しています。ですから会長の要望にも応えたいと思っていますよ。ですが、この大事業を前にして、なんですか。知り合いだからという理由はないでしょう。はっきりと言います。私どもでやります。会長のお力が必要になったらこちらから言いますから」




「いや、知り合いだからって訳じゃないんですけど。ただ、俺はLGBTについての理解もありますし、知識とか、あの代表の人とも話が合うんじゃないかって気がするんです」




 そう言うと中村は電話口で、深くため息をついた。




「話になりませんな」




 俺はその言い方に、かなりカチンときた。




「いや、そんな言い方ないじゃないすか」




「言い方の問題ではないでしょう。会長、ビジョンが甘すぎます。そのまま進めても決してコンセンサスは得られないでしょうな」




「じゃあ、おじさんはどういうふうに進めるんですか」




「どういうも何も、地上げの基本は誠心誠意です。条件を提示して、それに応えてくれるまで何回も通うだけです」




「それなら、何年かかるかわかんないじゃないですか」




「地上げを甘く見んでくださいよ!」




 中村は声を荒げた。早口で一気にまくし立てた。




「地上げはすぐには成りません。幼稚園ビルのとき、金田は最後まで店側を説得することができませんでしたな。そこに生活している者にとっては、地上げ業者は敵ですから。私たちはそこのギリギリのラインで勝負をしているのです。中途半端な覚悟でやってはいないのですよ」




「俺も、中途半端な覚悟でこんなこと言いませんよ!」




 電話口は沈黙を刻んだ。俺は間違ったことは言っていないはずだ。だが、得も言われぬ不安が込み上げた。俺は立ち上がり、意味もなく部屋の中をウロウロと歩きまわった。




「慎重になるべきです」




「そんなことはわかっている!会長こそ、ご自分をなんだとお思いですか!まさか、何でもできるスーパーマンのつもりでいないでしょうね」




「もちろん、そんなつもりはないです。でも、俺だってグループのことを考えての話なんです」




「私だって考えている!企業よりもグループ全体のことをいつも最優先にしている!それがなんでわからない!」












 議論は平行線で終わった。いや、俺が負けたと言ってもいい。中村の気迫にだ。自分が正しいという手応えはあった。だがそれだけだ。それを押し通す勇気を持てなかったし、確信も持てなかった。経験値が圧倒的に足りなかった。結局、俺は蒸し返す必要のないところにメスを入れてしまった。中村からすれば、さぞ腹の立つ話だろう。自分のことを信用していないのだから。中原さんなら俺の好きにやらせてくれた。でもそれは他の人にはできないだろう。そして中村の対応が普通だ。




 雨が降ってきた。六月の雨は夜通し降り続けた。俺は外に自転車を出しっぱなしだったことを思い出したが、もうどうする気も起きなかった。

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