page 46 バイバイ

 すっと恐怖を感じた。胃をつかまれて、そのまま内臓全部抜かれるような。

 消えてしまう。そう思ったら、耐えられなくなった。

 俺は振り返り、リリスが逃げる前に抱きしめた。


「ナオ?」


 俺は泣きそうで。声を出せば涙声になるとわかっていたから、ただ息をゆっくり吸って吐き出した。鼓動の音がリリスにも聞こえていたはずだ。いれていた腕の力を少しだけ抜く。もぞもぞしてリリスが顔を上げた。


「なに?」


 顔を見られたくなかったから、リリスの頭を左手で押さえて、あごをのっけた。苦しいのか、「もう」と悪態をついて身動きする。


「ごめん。でも、どうせ俺、忘れるんだからさ」

「なに、なんなの?」


 リリスの声に、戸惑いが混ざる。体が強張り、声が固くなっていた。


「へ、変なことしないでよ。わかってる? 私、あんたをこの状態からだって魔法でこっぱみじんに出来るんですからね」


「どうぞ」


「本気よ、本気!」


 ジタバタ抵抗するかと思きや、リリスは大人しく、ただ「爆破するわよ」と物騒なことを言い続ける。


「どうせ、俺。忘れるんだよな」


「だ、だからってなんなのよ。そ、そそ、それに、逆に忘れるんなら、あんた、意味ないじゃない」


「意味?」

「い、意味って言うか、その」


 ちょっと体を離して顔をのぞくと、リリスは暗がりでもわかるほど涙目で、ゆらゆらと星のように瞳が輝いていた。


「息苦しかった?」

「そ、そうよ。放しなさいっての」


 つんつんした態度がおかしくて、大胆になっていた俺は、リリスのまぶたにそっと親指を当てた。


「なにすんの」


 リリスは目を固く閉じてしまった。そのまま、しわのいった眉間を指でこする。


「や、やめなさい」

「しわ伸ばし」

「やめろ」


 指を離して、前髪をなでると、リリスは「木っ端みじんにするぞ」と言った。声に力がなくて、ぜんぜん脅しにはなってなかったけれど。


「俺、忘れるし」

「だ、だから?」

「何しても、何やっても、俺、憶えてないんだよなって」

「つ、つまり?」


 完全に警戒している姿に思わず吹き出しそうになって、手で口を押えて視線を外した。リリスは「な、なによ?」とうわずった声。でも、さっきから横っ腹に彼女の手を感じていた。にぎっているんだ、俺のシャツをさ。無意識だろうか。


「憶えてないんなら、何したっていいかと思って」

「ふ、ふざけないでよ。あんたが忘れても、私は憶えて」


 最後まで言わせずに、俺はリリスを抑え込んだ。

 覆いかぶさって、耳元でささやく。


「好き。会いに来てくれて、嬉しかった」


 体を離して、笑う。


「ありがとう」


 硬直して寝ころんだまま動かないリリス。

 部屋で爆笑したら妹に怪しまれると思ったから、なんとか声は抑えたけれど、おかしくて腹がよじれそうだった。


「なにされると思った?」


 愛想よく首をかしげて問う俺の腹に、リリスの右足がとんで来る。


「ふ、ふざけるなぁぁ」


 足首を捕まえて引っ張ると、「ひぃっ」と叫び声。

 手を離すと、また蹴られそうになった。


「なんだよ。せっかく勇気出して告白したのに」

「こ、告白ぅ?」

「聞きたかったんだろ、生告白。もしかして、ちゃんと聞いてなかったのか。じゃ、もう一回」


 体を倒そうとすると、「ひえっ」リリスは大慌てて体を反転させて体を丸めた。

 防護の姿勢のつもりだろうが、お尻が突き出た格好で、しかも、暴れたからか、スカートがめくれあがっていて太ももが半分以上見えている。


「リリス」

「な、なに?」

「俺、忘れるけどさ」


 しばらくの沈黙。その後、リリスはちらっと警戒する視線をこちらにやると、安全と見てとったのか、のそのそと服を整えながら体を起こした。


「記憶、消えるけど」


 俺はリリスの手首をさわって、軽く持ち上げた。いやがる素振りを見せないので、そのままつかんでいた手首を引き寄せながら手を下にずらし、リリスの手に指をからめた。握り返す反応に、俺は目をそらして、二度、もう一度合図のようにゆっくりと手を握った。


「俺は魔女に恋してる。忘れたくないけど、この気持ちも消える?」

「そうね。消えると思う」

「じゃ、案外、夏休み明けには彼女出来てたりするかな」

「あの子?」

「美丘はないと思うけど」


 それとも、あっさり美丘と付き合っているかもしれない。

 人気があるし、タイプではないけど、好かれて悪い気はしないはず。

 それに、あの提案も、考えようによっちゃ気楽で面白い。


 この記憶が感情ごと消えさってしまえば、いまの俺ではない、べつの俺が生まれるはずだ。ただおぼろげに、幼い頃見ていた夢の記憶だけをもち。その女の子に淡い恋を抱きながらも、遠い初恋として終わらせて。そうして、現実の誰かと付き合うようになる。


「試験、合格するといいな。エロオヤジに魔力奪われるなよ」


 リリスは微笑み、ぎゅっと俺の手を握った。


「偉大な魔女になるから。あなたも友達つくんなさいよ」


 それから、リリスは魔法円の続きを書き、俺は眠ったふりをした。

 やがて、静まり返り、眠っているのか、起きているのかわからない中、俺はそっと起き出して、最後にこれを書いている。


 まだ、リリスはいた。眠っている。

 俺がちゃんと眠らなかったから、帰れないのだろうか。


 穏やかに眠る姿は愛おしくて、まだ何か伝えきれていないもどかしさでいっぱいだけれど、もういい加減、終わりにしないと。


 リリス。君がこれを読むことはないのかもしれない。

 試験官さま。あなたはこんなものを読まされて、嫌気がさしているだろうか。


 どこからが魔法で、どこからが俺の本当の感情なのかわからない。

 

 ただ、いまの俺はリリスが大好きで、リリスと別れるのが辛い。

 泣いてしまいそうで、あまり深く考えないようにしている。

 いまも、うっかりすると、これを濡らしそうで、目をこすってばかりだ。


 最後にキスくらいしとけばよかったかな、なんて思うけど。

 リリスに悪いから、我慢した。

 彼女、たぶん、まだキスしたことなさそうだし。

 いつか、ちゃんと恋して。そいつとすればいいさ。残念だけど。


 この瞬間、抱いている悲しみや切なさを、全部忘れるなんて信じられないが、それでも、忘れるというのなら、魔法というのは、すごい力があるんだな。


 もっと魔法について詳しく知りたかったし、リリスと離れないでいられる方法だって見つけ出したかったけど、迷惑だろうから、それも我慢だ。


 リリスへ。

 俺に会いに来てくれて、ありがとう。

 愛してる。たぶん、もう一生分の恋を、君にしたと思うよ。


 魔女って、おっかねーよな。

 俺、いま、死にそうなほど、苦しいから。

 呼吸するのも、たいへん。なんだか、息が重い。


 

 あ、そうそう。


 ホストへのお礼に、何でも願いをってやつ、どうなったんだ。

 慌ただしくて、忘れたってことかな。ま、いいや。俺の願いは叶ったから。

 彼女作ってくれるってやつ。一応、叶ったと思う。


 好きな人といっしょに生活したんだから、彼女作るより最高でしょ。


 さ、寝よう。

 寝て、忘れよう。


 バイバイ。君の夢が、叶いますように。


 倉田 尚(漢字でこう書くんだ。読めるか?)

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