7-2
国道134号線を走る佐藤の車が道の途中のコーヒーチェーン店の前で停車した。
『何がいい?』
「ホワイトモカのホット」
『了解』
美月の注文を聞いて彼は外に出た。四階建てビルの一階に構えるコーヒーチェーン店に佐藤が入るのを美月は車内で見ていた。
上野にワガママを言って佐藤の逮捕を先延ばしにした。佐藤の生存を知った日からいつかこの日が来ると覚悟していてもいざ目の前に手錠が出された瞬間、美月は佐藤と上野の間に飛び出していた。
上野でなければ美月の非常識な願いは聞き入れられなかっただろう。
母親として早く斗真の顔を見て抱き締めてやりたい。妻として早く隼人に会いたい。
東京に残してきた美夢にも会いたい。
だけど今は女として、悔いの残らない時間を過ごしたい。
母親でも妻でもない、“浅丘美月”として。
これは美月と佐藤の最初で最後のデートだ。
コーヒー店の紙袋を提げて佐藤が帰って来た。彼は紙袋から二つのカップが入るカップトレーを取り出し、ひとつを美月に渡す。
『美月の分』
「ありがとう。あったかい」
美月のホワイトモカのカップのスリーブには猫のイラストが描いてある。イラストの横にはThank youの文字とハートマーク。店員の粋なサービスだ。
西浜歩道橋を過ぎて湘南海岸公園の駐車場に入った。駐車場は営業時間外で車は一台もいない。
湘南海岸公園は相模湾沿いの県立公園。園内には芝生の広場や砂浜に続く海岸通路があり、夏には家族連れやカップルで賑わう場所となる。
『足元気を付けろよ』
「うん」
暗い小道を手を繋いで歩く。夜の公園には誰もいない。こんな寒空の下で海を眺めに来る物好きは美月と佐藤くらいなものだ。
「夜の学校にこっそり忍び込んじゃったみたい」
『夜の学校に忍び込んだことあるのか?』
「あるよ。中学の夏休みに一度だけ、友達と夜の学校でスパイごっこして遊んだの」
怖がりの美月は夜の校舎も夜の公園も、ひとりでは入れない。昔は友達が、今は佐藤が一緒に居てくれるから怖くない。
『肝試しじゃなくて?』
「そうなの。私の友達みんな刑事ドラマやアクションものが好きだから夜の学校こっそり入ってミッション決めてスパイごっこしたんだ。拳銃は百均のオモチャで。でもバレて先生にすごーく怒られたけどね」
美月が中学時代の思い出話を語るうちに砂浜に面した海風のテラスに出た。ウッドデッキに並んで座る。
波の音は海の心臓の音。一定の感覚で刻まれる波の音に耳を傾けた。
美月は佐藤の黒いコートを羽織り、佐藤は車に備えていた別のコートを着こんでいる。
寄り添う二人分の体温、冷めていく二つのコーヒー、潮の薫りを運ぶ風、いつかはこの瞬間も記憶の彼方の思い出に変わる。
「9年前にお母さんと会ってたんだね。お母さんに聞いたよ」
『キングの逮捕の後、俺がお母さんに連絡したんだ』
「お母さんが佐藤さんに会ってたことはびっくりしたよ。それに佐藤さんが生きてるの知ってて私に内緒にしてて……」
美月は佐藤の脇の下に潜り込んだ。佐藤が美月の肩を抱いて潮風に流れる彼女の髪をすく。
『お母さんを責めないでくれ。俺の存在は知らない方が美月のためだからと俺からお願いしたんだ』
「わかってる。びっくりはしたけどお母さんを怒れなかった。お母さんも佐藤さんも私のためを思ってくれたんだよね」
――“美月が大人になるまでは美月の前に現れない―― 佐藤が美月の母親と9年前に交わした約束だった。
「ねぇ。海……ちょっとだけ入りたい」
『かなり冷たいぞ?』
「ちょっとだけだから」
美月は砂浜に続く階段の下に降りた。ブーツとタイツをその場で脱いで裸足になった彼女は砂浜に立って佐藤を手招きする。
「佐藤さんも早く早く!」
『はいはい』
無邪気な美月に誘われて佐藤も裸足になった。結局いつも美月の可愛いワガママを聞いてしまう自分は、とことん美月に骨抜きにされている。
雪がまばらに散る砂浜はひやりと冷たい。打ち寄せる波が足元に触れた。
「冷たい!」
『だから言っただろ。冬の海なんて足だけでも入るものじゃないのに』
冬の海の冷たさにはしゃぐ美月を佐藤は隣で見守っている。美月は足で水を蹴り、しぶきをあげる波から逃れて波打ち際を駆けた。
波と遊ぶ美月の腕を引いて佐藤は彼女を抱き寄せる。二人の足元で水が揺れ、耳元を風が抜ける。
『俺が結婚してくださいって言ったらどうする?』
「……言ってみて?」
月明かりに照らされた佐藤の微笑みが美月だけを見つめている。
『俺と結婚してください』
「はい……」
叶わない夢だけのプロポーズ。まるで幼稚園の学芸会だ。
いい歳した大人の男と女が叶わない夢を見て、何を馬鹿なことをしているのだろう。
それでも今は叶わない夢に溺れていたい。
その気になれば生命を一瞬で飲み込める夜の海は、穏やかで優しい波をタイムリミットの迫る恋人達に届けた。
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