第七章 月下美人

7-1

 神奈川県藤沢市の片瀬東浜海水浴場の付近にはパトカーが何台も停車している。その異様な光景を見物する野次馬達が海岸の側に集まっていた。

脱獄犯の貴嶋佑聖を乗せたパトカーが走り去る。貴嶋はこれから横浜の神奈川県警本部に連行され、その後に東京の警視庁に移送される。


 警視庁捜査一課警部の上野恭一郎は雪の砂浜を踏みしめて佐藤瞬と木村美月に歩み寄った。上野が近付いても二人は一歩も動かない。


『約束通りお前を逮捕する』

『はい』


素直に両手を差し出した佐藤に上野が手錠をかけようとした時、美月が佐藤と上野の間に入り込んだ。


「ごめんなさい。少しだけでいいんです。佐藤さんと二人で居られる時間をもらえませんか?」


涙で瞳を潤ませて美月は上野に懇願する。上野の密かな恋心を美月は知らない。それは残酷で、美しい涙だった。


『美月。無理を言ってはダメだ』


戸惑う佐藤が美月の手に触れる。佐藤もまさか美月が逮捕を拒むとは思わなかった。


「お願いします。彼は必ず警察に行きます。私が行かせます。だからもう少しだけ佐藤さんと一緒に居させてください。お願いします……」


 美月は涙ながらに上野に頭を下げた。美月にここまでされてしまえば上野も佐藤も何も言えない。

上野にとっても佐藤にとっても美月の涙は弱点だ。上野は行き場のない手錠を懐に戻し、佐藤を見据えた。


『日付が変わるまでに鎌倉警察署に出頭すると約束できるか?』


事の次第を傍観していた神奈川県警の刑事達からは批判のどよめきが広がっているが上野は気にしない。佐藤は美月と手を繋ぎ、上野に向かって頷いた。


『約束します』

『わかった。美月ちゃん、俺は君を信じてる。しばらく二人で自由にしていなさい』

「ありがとうございます」


また美月が頭を下げた。佐藤も上野に一礼する。そんな二人を見ているのが彼は苦しかった。チクリと痛む心の奥を今はまだ知らないフリをして上野は笑顔を作る。


『タイムリミットは午前零時だ。早く行きなさい』


 逃避行に旅立つ男女を急かして彼らを見送る。佐藤の車が国道の群れに消え、砂浜に残された上野の隣に早河が並んだ。


『あれで良かったんですか? 彼女が佐藤を逃がさない保証はありませんよ』

『あの子がそんなことすると思うか?』

『いいえ。俺も彼女のことは信用しています。でも県警の刑事達は渋い顔していましたよ』


目の前の海では水しぶきが上がっている。気温も下がり、冬の海辺は冷え込んできた。


『佐藤の車のナンバーはわかってる。もしもの時は手配をするさ。俺のことお人好しだと思ってるか?』

『正直なところは。上野さんらしい判断だと思います』


 上野は煙草を咥えて一服している。憂鬱に紫煙を吐く彼を見て早河は苦笑した。


『禁煙の誓い破ったって石川さんから聞きましたよ』

『こんな時だ。煙草でも吸わないとやってられないだろ。破れば最後、無性に恋しくなるんだよな。煙草も、人も……』


指に挟んだ煙草を円を描くようにクルクル回すと煙草に灯る赤い光が暗闇に輝いた。


 上野のスマートフォンが着信する。東京の小山真紀からだ。


『……そうか。ご苦労さん。俺も明日には東京に帰る。それまでそっちを頼む』


真紀と二言三言のやりとりを交わして通話が終わる。隣で会話を聞いていた早河には電話の内容は予想がついた。

やりきれない思いの溜息が紫煙に乗って空に上がる。


『土屋を逮捕したそうだ』

『やはり彼女がダンタリオンでしたね』


 東京で逮捕された警視庁捜査一課刑事の土屋千秋は上野直属の部下、事件の首謀者のひとりの篠山恵子は上野の元恋人。

今回の事件は上野に相当な心労を与えていた。


『俺は鎌倉に戻って佐藤を待つ。早河はどうする?』

『病院に寄って子ども達の様子を見てから鎌倉署に行きますよ』


 海岸を去る上野の背中に視線を送る。早河が長年見続けた上司の背中は一回り小さくなったように感じた。

いつの間にか側に来ていた神奈川県警の大西刑事が早河の顔をまじまじと見て吹き出している。


『なんだよ。人の顔じろじろ見て吹き出すとは失礼だな』

『真愛ちゃんに会う前にその顔なんとかしろよ』

『は?』

『酷いもんだぞ。車のミラーで見てみろ』


大西に促されて早河は車のサイドミラーに顔を寄せた。暗がりの中で大西がスマートフォンを使って明かりを灯してくれるとようやく鏡に映り込んだ自分の顔が見えた。


口元は切れて血が滲み、頬や目の周りにはアザができている。貴嶋と殴り合った時にできた傷だ。


『うわっ。こんな顔して会いに行ったらなぎさも真愛も驚くよな』

『この怪我はパパの頑張りの勲章だとでも言っておけよ』

『勲章なんて真愛にはまだ意味がわからねぇよ。つーか引っ張るな。傷が痛む』


 大西に頬を引っ張られて早河の顔がにこやかに歪む。そういえば何かあると大西がいつもこうして励まして笑わせてくれたと、早河は遠い過去を懐かしんだ。

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