5-16
早河は帝国劇場のエントランスに入った。中に入ると真っ先に飛び込んでくる金色の筒型照明が眩しく光っている。
東京に生まれ育って31年になるが早河が帝国劇場を訪れるのは今日が初めてだ。演劇観賞の趣味など皆無の早河にとって劇場は無縁の場所。
せいぜい元恋人で女優の本庄玲夏が出演する舞台を観賞する目的でしか劇場に足を運ぶ機会はない。こんな形で日本演劇の最高峰の場所を訪れることになるとは思いもしなかった。
紫色の絨毯が敷かれたロビーを歩く。吹き抜けの天井からはスチール製の
奇妙なことに人の気配が全くない。チケット売り場にも売店にもスタッフの姿はなく、館内は静寂に包まれている。
一階の5番扉を開けてホールに入る。明るいホールには客席が並び、緞帳の上がった大きな舞台が正面に見えた。
A席の列を抜けてS席の列に入る。R、Q、P……アルファベットを逆順に進み、ホール中央辺りJ列の横で早河は立ち止まった。
照明の灯る壇上に男が立っている。早河がホールに入った時からずっと、彼は身動ぎせず早河の動きを見ていた。
『久しぶりだな』
早河は壇上の男、貴嶋佑聖に話しかけた。ホール内では声がよく響く。貴嶋は悠然とした態度で微笑んだ。
『2年振りだね。健勝で何よりだ』
『お前を捕まえるまでは死ねないからな』
客席と壇上で向き合う早河と貴嶋。14年前は隣に並んで帰り道を歩いていたふたつの影法師はサヨナラと別れたあの日からもう並んで歩けなくなった。
『この2年間、最高にして最悪の形でどう君を葬るか計画を練ってきたんだ』
『それが一昨日からの一連の騒動か?』
『そう。私の最高傑作の人形劇だよ。君は私の計画に沿って足掻くマリオネット。愉しいお遊びだろう?』
人間を人形としてしか扱わず、高みの見物をして嘲笑うこの男には人としての大切な感情が欠落している。
14年前はどうだった? 梅雨の晴れ間に校舎の屋上で過ごした穏やかな時間を彼は忘れてしまったのか?
『その愉しいお遊びの為にどれだけの人間の命が危険に晒された? こんなものは最高傑作じゃない。ただの駄作、お前は最低な演出家だ』
『それは私には褒め言葉だよ。何の為に今まで君を殺さず生かしていたと思う?君を殺すことはいつでも出来た。だが私は君を今日まで生かした』
貴嶋が腰のホルスターから拳銃を抜いた。彼の銃はワルサーPPK。
『この3日間は君の為に用意した演出だ。私の天地創造を成就するだけではつまらない。何事も障害があればこそ、達成した時の
『天地創造か。お前……14年前も神がどうとか言ってたな。お前は神になりたかったんだ。辰巳佑吾がなれなかったものにお前はなろうとした』
早河は14年前のあの日を追想する。真夏の暑い日差しの下、蝉の大合唱に紛れて聞こえた幼さを含む声。
――“この世に神はいると思う?”――
『首相を殺し、官僚や政治家をお前のマリオネットにすげ替え、裏社会をカオスが牛耳る。いわば日本はお前のドールハウス。政治も経済も何もかもお前の手のひらの上で操られる。国民はお前の思うがままだ。14年前に辰巳佑吾が思い描いたプラン通りだな。辰巳はそうやって神になろうとした。お前も同じだ』
『父と一緒にしないでくれるかな。君がどこで14年前の父の犯罪計画を知ったは大方察しはつくが、私は父の時代以上のカオスを創り上げた。父は神にはなれなかった。でも私は違う』
貴嶋は右手に銃を、左手には小型のリモコンを持っている。あのリモコンが警視庁と警察庁、矢野がいる城南総合病院に仕掛けた爆弾の起爆装置だ。
『父は最後にミスを犯した。虎視眈々と反逆の機会を窺っていた私に気付かず、父は私に殺された。それが辰巳佑吾が神になれなかった敗因さ』
貴嶋の饒舌なモノローグに早河はかぶりを振る。
『お前も神にはなれねぇよ……』
早河の独り言と重なってホールに銃声が轟いた。呻き声をあげた貴嶋の身体が揺れ、ステージに赤い血が滴り落ちる。
さらにもう一発、貴嶋の太ももに銃弾が撃ち込まれ、貴嶋は起爆装置を手放した左手で太ももを押さえてうずくまった。
貴嶋が撃たれた瞬間も早河は冷静だった。彼は舞台の
『……なるほど』
すべてを理解した貴嶋は血が付着した自身の手のひらを見て高笑いした。やがて貴嶋の視線も下手側に向けられる。
『内通者はお前だったか。……莉央』
下手の舞台袖から拳銃を構えた寺沢莉央が現れた。平然と澄ます莉央は壇上から客席に繋がる階段を降り、通路に立つ早河の隣に並んだ。
右肩と太ももから流れ出る血が貴嶋の足元を赤黒く染める。貴嶋はシャツの袖を引きちぎり、止血ポイントに巻いた。
『やはり、と言うべきかな。カオスの情報を漏らしている内通者が莉央ではないかと薄々予感はしていたよ』
「わざと私を泳がせていたのよね。スパイダーを使って私のパソコンや携帯をハッキングさせていたでしょう?」
『しかしスパイダーもお前に巧く言いくるめられてしまったようでね。莉央に反逆の疑いはないとスパイダーは報告してきたよ』
早河は四方に視線を動かして自分達のいる地点を確認した。早河と莉央がいる場所は縦に四つ並ぶ通路の左から二番目、J列23番と24番の間の通路。
ここから一番近い出入口は早河の左手方向にある1番扉と斜め方向の2番扉。
早河が動きのシミュレーションを重ねる間も莉央は貴嶋から銃口をそらさない。
「スパイダーが私の裏切りに気付いてもキングに報告しなかったのはスパイダーも気付いたからなのよ」
『気付いた? 何を?』
撃たれた痛みに時折顔をしかめる貴嶋は腰から抜いたベルトで太ももの止血を施した。莉央に銃口を向けられていても彼は飄々としている。
「貴方が辰巳佑吾のマリオネットだってことに」
それまで一貫して飄々とした態度を崩さなかった貴嶋の表情が初めて歪んだ。
『私が父のマリオネット?』
「ええ。貴方は辰巳佑吾が創り上げた最高傑作のマリオネットなのよ」
貴嶋の高笑いがホールに響き渡る。笑い転げた彼は客席の莉央と早河に侮蔑の一瞥をくれた。
『莉央。お前は昔からよく私を面白がらせてくれるね。なぜ私が父のマリオネットになるんだい?』
「14年前の辰巳佑吾のドールハウスプランの裏を知っている? 辰巳はね、貴方に殺されることまで計画済みだったのよ」
『父が望んで私に殺されたと言うのか?』
「辰巳佑吾のドールハウスプランは貴方に殺されることで完成する計画だった。辰巳は自分の力の限界を感じ、完璧主義者の彼は今の自分ではカオスを指揮できないと悟った。これは貴方のお母様が話してくれたこと」
『母が……そうか。母は莉央を気に入っていたからねぇ。私には話さないことを莉央には話していたのか』
14年前の1995年に辰巳佑吾が企てたドールハウスプランは君塚の自宅から回収したフロッピーディスクに計画の全容が記録されていた。当時の首相暗殺、政治家のすげ替えは今回の貴嶋の天地創造計画と同じだった。
首相暗殺は14年前も今回も失敗に終わったが、辰巳が進めていた政治家達へのカオスの布教活動の影響は大きく、武田財務大臣や一部の官僚を除いたほとんどの政治家と官僚は辰巳佑吾時代から犯罪組織カオスの信者、支援者となっている。
起爆装置に手を伸ばした貴嶋はリモコンのスイッチに触れた。
『どうせこれもお前が止めたんだろう?』
「さっき、ここで貴方と別れた後に早河さんに爆弾の解体方法のメールを送った。だけど解体作業の間に貴方にそのスイッチを押されると困るから早河さんには時間稼ぎをしていてもらったの」
早河が帝国劇場に到着する前に莉央から爆弾解体方法のメールを受け取り、そのメールは阿部警視に転送された。
警視庁、警察庁、城南総合病院に待機していた爆発物処理班が解体作業に入ったのを確認してから早河は帝国劇場に入った。
莉央の方には彼女の左耳に装着したイヤモニから解体完了の連絡が行っているはずだ。彼女はイヤモニを押さえて小声で早河に話しかける。
「阿部警視と機動隊が突入の準備に入った」
『わかった』
『二人で内緒話をするほど君達は仲良くなったんだね。莉央、お前は私が父親のマリオネットだから私の計画を邪魔したのか?』
身体を左右に揺らして貴嶋は身体を起こした。彼の上等な黒のスラックスは太ももから流れ出た血がこびついて変色している。
「辰巳の計画通り、貴方は辰巳を殺してキングを継承した。そしてまた辰巳の計画通りにこの国の支配者になろうとした。貴方は自分が人形遣いになった気でいたでしょう。けれど、本当のマリオネットは貴方よ。これはすべて辰巳佑吾の意志でしかない。貴方は辰巳に操られている意志のないマリオネット」
銃のグリップを握る莉央の手はわずかに震えていた。
「貴方が
彼女の脳裏に甦る4ヶ月前の夏の記憶。あの日は猛暑が数日続いた後の恵みの雨が降っていた。
貴嶋佑聖の母親、貴嶋聖子は14年前に渡米し、以降、彼女はロサンゼルスで暮らしていた。聖子が日本に戻ってきたことは14年間一度もない。
その彼女が今年の8月、14年振りに日本を訪れたあの雨の日に莉央は覚悟を決めた。
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