4-15

 八階に降りた美月は手すりに身体を預けて呼吸を整えた。


(はぁ……やっと八階……)


 手に持っていたヒールの靴を床に置き、うずくまった。感覚が麻痺してきた足をさすって上を見上げる。

二十一階で聞いた足音はもう聞こえない。夢中で降りていたから足音が聞こえなくなっただけなのか、相手が追ってこなくなったのか、自分の息遣い以外は何も聞こえなかった。


(でもこのまま降りれば一階で待ち伏せされているかもしれない。駐車場のゲートから出よう)


 昨日、三浦との外出で地下駐車場に行かなければこの策はきっと思い付かなかった。八階から一階に出た美月はさらに下に降りた。

地下一階に降りると、廊下の先にぽっかり口を開けた薄暗い空間が見える。ガスやガソリンの臭いが混ざった地下駐車場独特の臭いが濃く漂っていた。


 階段は昇るのも辛いが降りるのにも体力を使う。三十二階から地下一階まで降りた美月の体力は消耗し、限界が近かった。


(私はキングの人形じゃない。絶対に人形にはならない)


気を強く保たなければ倒れそうだった。重たい身体を引きずってどうにか足を進める。

[出口→]の矢印に従って進んでいても、果てしなく広がる灰色の世界は巨大な迷路のよう。


三浦の車が駐車場のどの位置に停められていたのか、方向感覚も曖昧な今となっては思い出せない。でも出入りのゲートがいくつかあることは覚えている。


(あった……! これで外に出られる!)


 緩やかな上り坂のゲートに向けて走り出し、地上に繋がるゲートの坂道を必死に上った。外は太陽が眠りについた12月、冷気が肌を突き刺して寒さに鳥肌が立ってくる。


 赤坂の外堀通りに繋がるゲートから外に出た美月は足をもつれさせてコンクリートの地面に手をついた。

疲労と寒さに震えて一歩も動けない。ここまで持ってきたヒールの靴もまだ履けそうもない。


それでもここまで辿り着けた。貴嶋から逃げ切れた。あとは近くのコンビニにでも駆け込んで電話を借りて警察に連絡すれば安全だ……そう思ったのも束の間。

街の喧騒に紛れて拍手の音が聞こえた。


『お疲れ様。美月』


顔を上げて愕然とする美月の目の前に貴嶋佑聖が立っている。貴嶋の隣には三浦の姿もあった。


「そんな……どうして……」

『なかなか見事な脱出劇だったよ。あそこで一階に降りずに駐車場から出るとは。考えたものだね』


 寒さに震える美月の肩に貴嶋が着ていたジャケットがかけられた。身体が震えるのは寒さのせい? ……違う。

この震えは逃げ切れなかったことへの悔しさと怒りだ。


『さぁ、帰ろう。こんなところにいては風邪を引いてしまうよ』


貴嶋が差し出した手を払い除け、美月は彼を睨み付けた。


「私はあなたの人形じゃないっ!」

『無駄だよ。どんなに抵抗しても君はすでに私の手のひらの上』


 美月の傍らに身を屈めた貴嶋は彼女の顎に手を添えて持ち上げた。寒さと怒りで震える美月の冷たい唇を貴嶋の親指がなぞる。


『永遠に私の籠に閉じ込めてその綺麗な瞳に私だけを映させる。君は私の側に居ればいい。不自由はさせないよ』

「勝手に私の人生を決めないで! あなたに囚われているこの状況が私には何よりも不自由なのよ!」


どれだけ責めの言葉を吐いても貴嶋は緩く笑うだけ。この男には敵わないと改めて思い知らされる。


『ああ……君は泣き顔も綺麗だね。そんなに泣かれると、もっと泣かせたくなってしまうなぁ』


 溢れる涙をき止めようとしても心に反して大粒の涙が美月の頬を流れ、貴嶋が笑いながら美月の涙を指ですくいとった。

貴嶋の後方に控える三浦は無表情に傍観しているだけだ。


「お姫様は捕まっちゃったのね」


 ドレスの上に黒いコートを羽織った莉央が現れた。彼女は手にスリッパとコートを抱えている。

莉央は貴嶋と三浦を見た後に地面にしゃがむ美月と目を合わせた。


「ごめんなさい。キングはこういう人なのよ。欲しいと思ったものはどんな手段を使っても手に入れないと気が済まない、ワガママな子どもよね」

『子どもとは言ってくれるねぇ』

「そう? キングと一緒にいるとたまに大きな子どもを相手にしている気分になるのよ」


苦笑いする貴嶋を一瞥して微笑み、莉央は美月の前にホテルのスリッパを置いた。


「せっかくの綺麗な足を傷付けてはダメよ。それと、キングのジャケットじゃ落ち着かないでしょう? 私の物だけどしばらくこれを着ていてね」


 肩に羽織っていた貴嶋のジャケットの代わりに襟と袖にファーがついたグレーのコートを着せられた。莉央に支えられて立ち上がり、用意してくれたスリッパを履く。


(三浦先生も莉央さんも結局は敵なんだ。優しくしてくれても逃がしてはくれない)


莉央が纏うローズの香りが着せられたコートからふわりと漂う。優美な彼女の香りが美月の心を複雑に掻き乱していた。


 再び赤坂ロイヤルホテルの3003号室に逆戻り。暖房の効いた室内に入ると冷えた足元がじんわり暖まってくる。

ここまで美月を連れてきた莉央も一緒に部屋に入り、莉央はまず洗面所で濡れタオルを作ってくれた。


「汚れた部分はこれで拭いた方がいいわ」

「ありがとうございます」

「私は飲み物の用意をしてくるね。今度はちゃんと待ってるのよ?」


ふふっと微笑んで莉央はダイニングルームに向かった。

莉央が作ってくれた温かい濡れタオルを足の裏に当てる。本当はシャワーを浴びたいがそんな気力はない。足や手の汚れを拭き取るので精一杯だ。


 リビングにいる美月には飲み物の用意をする莉央の後ろ姿が見えた。赤いロングドレスから覗く華奢な肩と背中、細くくびれた腰のライン、女性として完璧な莉央のプロポーションに羨望の溜息が出る。


(莉央さんって、隼人と似てる。綺麗でスタイルが良くてきっと頭も良い。見た目も中身も完璧って言うか……隼人はあれで完璧過ぎてはいないけど、でも二人はよく似てる)


 莉央が貸してくれたグレーのコートを脱いで裏返しにして畳み、傍らに置く。パーティーで泣いてしまった時もハンカチを借りた。

莉央には物を借りてばかりだ。


非常階段で落としてきた片方のイヤリングはエステサロンの借り物だった。何階に落としてきたのか思い出せない。どうしたらいいだろう。


(変なの。こんなこと悠長に考えてるなんて……)


 決死の脱出劇は失敗に終わり、身体も心もくだびれていた。何もかもどうにでもなれと投げやりな気持ちになってくる。


「お待たせ」


 莉央が二つのカップを載せたトレーを運んで来た。カップの中身は白い液体、ホットミルクだ。

トレーにはチョコチップクッキーも一緒に載っていた。この部屋にクッキーの用意があったことを美月は初めて知った。


「何もお手伝いできなくてすみません」

「いいのよ。あなたが一番疲れているんだから。さ、飲んで」


ホットミルクは甘さの中にピリリとした辛さがあり、辛みが全身を巡って手足がポカポカと温かくなる。莉央が飲んでいる飲み物も同じ物だ。


「美味しい。これ、入っているのは生姜……ですか?」

「そうよ。ハニージンジャーホットミルク。これはね、私が初めてキングと出会った日に飲んだ飲み物なの」

「キングと出会った日?」


 莉央は美月の斜め前に座っている。彼女はドレスから覗いた細い脚を組み、脚の上に両手を重ねた。


「キングと出会ったのは高校3年の夏だった。暑い夏の夜。家出して行き場のなかった私の前にキングが現れたの」

「それでカオスに?」


莉央は頷き、ホットミルクを一口飲む。


「莉央さんはどうしてキングの側にいるんですか?」

「キングは私の居場所なの」


 心地良いソプラノの声が紡ぐ言葉のひとつひとつが謎を残す。どこに向かわせればいいかわからない様々な感情が美月の心に渦巻いた。


「貴女にとってはキングは悪人に見えるでしょうね。そんな男の側にいる私を理解できなくても無理ないわ」

「当たり前です。だってとんでもない極悪人じゃないですか。犯罪組織のトップで、親を殺して、他にも沢山の人を殺してる」


丸いチョコチップクッキーを品よくかじって莉央はまた微笑する。すべてを包み込む女神か天使のような神々しい微笑みだ。


「とんでもない極悪人か。確かにそうよね。実際あの人はとんでもない悪人よ」

「それなのに……キングが莉央さんの居場所なんですか?」

「そう。キングの隣にいることを私が選んだ。キングと出会わなければ私はとっくに死んでいたでしょう。だけどキングと出会わなければこの手で殺人を犯すこともなかった」


天井に向けてかざされた莉央の白い手。彼女の華奢な手で人が殺されていることが美月にらいまだ信じられなかった。


「でも出会わなければよかったとは思わない。キングは私の人生で必要な人だから」

「……愛しているんですか?」

「愛している。彼がとんでもない極悪人でもね。愛しているから側にいる」


 当事者の二人にしかわからない感情がある。恋愛とはそういうもの。周りから見えているものとは違う、二人にしか見えないものがある。

だけど莉央の本心を聞けば聞くほど、謎が増える。モヤモヤとした感情が増幅する。


「じゃあどうして……隼人と……」


 聞くつもりのなかった言葉が口から出ていた。隼人と莉央、どこか似ているこの二人には二人にしかわからないところで強く結び付いている気がしてならない。

その結び付きに嫉妬した。隼人の心に居続ける莉央の存在にどうしようもなく嫉妬している。


「会いたかったから。木村隼人……彼と一緒にいる時の私は自分の立場を忘れてただの寺沢莉央で居られた。それがとても心地よかったの」


 莉央は美月の嫉妬の眼差しをやんわり受け止める。何もかもをわかった上で彼女は素直な言葉を吐露した。


「でも貴女が心配することは何もない。木村隼人は貴女を本気で愛している。それは信じてあげて」


優しい微笑みにつられて頷きそうになったが、この異常な状況を思い出して美月は我に返った。


「だけどこのままじゃ隼人にも会えません。もう一生会えないかもしれない」


 項垂れる美月に莉央が言葉をかけることはない。莉央は二人分のカップを片付け、美月に貸したコートを持って3003号室を後にした。

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