第137話 その涙と鮮血は、雨に溶けてゆく




「ベルティーナ・ライト大佐……反応、消失しました」

「……」




 ――信じられない。あのベルが死ぬ? そんなわけ、そんなわけがない。



 リアーヌはモニターを見つめながら、そんなことを思った。ベルが死ぬなど彼女の想定の中になかった。魔人と接敵したのはすでに作戦司令部では把握しているも、その戦闘の行方まではわかっていない。



 ――もしかして、ベルが負けた?



 脳内にぎる最悪の想定。相手の魔人の魔素は、ここからでも知覚できるほどに強大なものだった。でもベルが負けるなんてことは考えてすらいなかった。それはリアーヌがベルのことを心から信じているからだ。彼女はどんな強敵であっても、必ずそれを退けて生還した。


 いつも帰って来てから、ニコリと微笑みながらベルはリアーヌの頭を撫でてくれた。



『ベル、お帰りなさい』

『ただいま……戻りました……』

『今日はケーキを焼いているの。それにベルが好きな紅茶も用意してあるのよ?』

『……それは、とても楽しみです』

『ふふっ……準備するから待っていてね』



 そんなやりとりをしたのは、つい昨日のことのように思い出せる。重要な任務の後は、こうしてリアーヌが労っていたものだった。


 それがまさか……こんなところで……終わりを迎えてしまうなんて……。



「魔人の反応は?」

「まだ生存しています。かなり消耗しているようですが……」

「近くにいる対魔師は? 特級対魔師で動けるものはいないのか」

「……先ほどリース少佐より通信がありました」

「内容は?」

「カーティス中佐、エイミス少佐が共に現場に向かったとのことです。モニターでの情報を見るに、すでに接敵したものと思われます」

「……なるほど。こちらからの指示は――」




 そんなやり取りをしているのは聞こえていた。最高指揮官である元帥はベルが敗北し、死亡したと仮定してすでに次の行動を起こしている。そんな様子を、リアーヌはただ呆然と聞いていた。



 作戦司令部は慌しい状況になっていた。他の隊も今は魔物の対処に追われている。それにユリアが目標を撃破したことで、統制の取れなくなった数多くの魔物が溢れているらしい。だが作戦は成功したに等しい。一番の目標は、古代蠍エンシェントスコーピオンの撃破だ。それが成された今、人類の手の中に再び大地が戻ってきたのだと言っても過言ではない。



 そんな中、リアーヌも指揮官としての仕事がある。やるべきことは確かにあるのだ。分かっている。分かっているとも。リアーヌはそれをしっかりと認識していた。



「……」



 だが動くことはできなかった。彼女はこの場にいる人間が懸命に動いているのを見ている。作戦内容の変更を、そして伝えられる情報を整理しているのも聞こえている。皆が人類のために、こうして戦っているというのに自分は何もできない。無力だった。何も、何もできない。今すぐベルの元に駆け寄りたい。そんな想いがあった。でもそれは叶わない。リアーヌはかろうじて残っている理性で、自分をその場に縛り付けていた。



 そうしてリアーヌはそのまま、呆然とその場に立ち尽くすのだった。





 ◇




「……」

「……先生? どうしたんですか? 寝るにはまだ早いですよ?」

「……」

「……先生ッ!! 先生ッ!! まだ、まだ大丈夫ですッ!!」

「……」



 体を揺らす。もう何を喚いているのか、シェリーは自分でも理解できていなかった。今はただ、ベルの意識を取り戻そうとあらゆる手段を講じている。人工呼吸はすでにしているし、心臓マッサージもしている。だがベルは最期の言葉らしきものを紡ぐと、バッタリと力が抜けるように息を引き取った。



 先ほどまでは、まだ手に力が残っていた。でも今となっては、それはだらりと垂れ下がっている。



「……先生ッ!! 先生ってばッ……!!」



 依然としてシェリーは叫び続ける。


 分かっている。分かっているとも。


 すでにベルティーラ・ライトという人間の意識はこの世界には残っていない。この場に残っているのは、ただの意識の抜けた残骸に過ぎない。それでもシェリーはまだ最期の希望を捨ててはいなかった。



 いやそれは……厳密に言えば違う。


 シェリーはその現実に直面したくないだけ。


 認めたくないのだ。



 誰よりも強い、自分の師匠がこんなところで……道半ばにして死んでしまうなど、到底許容できるものではなかった。



「先生……どうしたんですか? まだ……まだ……先生は……」



 徐々に認め始める。すでに体に力は入っていない。それに開いているその双眸は完全に瞳孔が散大している。



 死の定義には、呼吸や脈拍の停止、瞳孔の散大、それに加えて脳死の状態がある。その中でもベルは確実に一つを満たしている。そしてシェリーはさらに、ベルの首元に恐る恐る手を当てる。



 なかった。彼女の脈拍は完全に停止している。もう……脈動を打つことは決してない。まだ暖かい。その体は熱を有しているも、明らかだった。



 死んでいる。シェリーはそれを認識すると、自身の両手を、ベルの血で染まった両手を自分の顔へと持っていく。そうして徐々に体の震えが大きくなり、シェリーは理解した。



 ベルはもう……死んでいるのだと。




「あぁ……あああああ……あぁ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」



 慟哭。この感情の行き場など知る由はない。


 ただただ、シェリーはあらゆる感情に支配されていた。どうして、どうしてこんなことに。なぜベルが死ぬ必要がある。彼女が一体、何をしたというのだ。



 しかし、そんな問いは無意味である。


 ベルは弱いから死んだ。その明確な事実は何よりもシェリーの心を抉る。それに改めてベルを見つめると、そこには左腕がなく、袈裟を綺麗に裂かれ、さらには腹には貫通した傷跡が残っている。そこから流れ出る血液はまだ暖かい。シェリーは膝に触れるその血の暖かさを認識しながらも、ベルの死を嘆いた。



 それと同時に、この世界も嘆いているのか雨が降り始める。



 ポツ、ポツポツポツと一気に勢いを増すそれは、彼女の慟哭をこの世界に顕在化したものだろうか。



 シェリーはその雨を受け止めていた。空を見上げ、そしてこの雨を見つめがら……ある感情に支配される。



 ――殺す。先生を殺したあの魔人は何が何でも……殺すッ!!




 慟哭は確かに心にあるも、シェリーを支配しているのは純粋な怒りだった。



 復讐の鬼と化したシェリーは悠然とその場から立ち上がる。ベルから譲り受けたその刀を腰に差し直すと、フラフラと立ち上がる。



 その双眸には何が映っているのか。何を映し、そして何を想ってその剣を振るうのか。



 ――殺す。絶対に、あいつを殺す。殺す。確実に殺すッ!!



 殺人衝動に支配されたシェリーは朧月夜を抜き出すと、勢いのままに、感情のままに、大地をかけていく。今はユリアがあの魔人と戦っている。でもそんなことは、目に入っていても意識はしていなかった。今はただ、戦っているユリアさえも無視して、この憎しみを晴らす必要があると、無意識下でそう判断していた。



「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」



 そうして交戦距離キリングレンジに入るも……シェリーの攻撃はあまりにも単調すぎた。二人の間に割って入ったというのに、何の策も弄せずにただ無闇に突っ込むだけ。


 もちろんその隙を見逃すアルフレッドではなかった。彼は先ほどのベルとの死闘、それにユリアの相手をしていることで確実に疲労困憊の状態。しかしそれでも、上位魔人なのに変わりはない。



 彼はユリアの動きも考慮しながら、ただ突っ込んできたシェリーの顔面にそのまま魔剣、十六夜の切っ先を向ける。



「あああああああああああああああああああああああッ!!」


 

 悲鳴。



 それは綺麗に彼女の右目を縦に切り裂いた。低い姿勢でただ突っ込んだことが仇となったのだ。


 

 シェリーはそのまま切り裂かれた右目を抑えていると、次は蹴りが飛んできて後方へと吹っ飛ばされる。ろくに受け身を取ることもできずに、彼女はゴロゴロと転がっていく。だがその攻撃はアルフレッドのものではない。それは……ユリアのものだった。



「邪魔だッ!! 下がっていろッ!!」



 そんな怒声が聞こえてきた。大声をあげるユリアを初めて見たが、その言葉を聞いて悟る。



 ――そうか……今の私は、邪魔でしか……ないのか……。



 感情に支配されたシェリーはまともに剣を振るうこともできない。ただただ邪魔な存在でしかなかった。



 そうしてシェリーは雨によってドロドロになった地面を滑るようにして転がっていくと、それは何の因果か……ベルの死体のところに戻ってきてしまった。



 シェリーは泥だらけになった軍服など気にせずに、ただ右目を抑えながら天を見上げる。そこから流れ出る血は、決して止まることはない。でもそれでよかった。


 これは、情けなく、惨めで、愚かな自分への罰だと知る。


 ただ感情的になって、自棄やけになって突っ込んでも、敵うことはない。敵はあのベルを屠った相手なのだ。こんな精神状態では勝てるわけがない。




「……」



 ベルが教えてくれたものの中に、心技体という概念があることをシェリーは思い出していた。


 それは心と体が一致してこそ、剣技はその真価を発揮するというものだ。今のシェリーは心が足りていなかった。ただ無闇に暴れる子ども。それが今の自分だと認識すると、シェリーは側にいるベルの死体に手を添える。



 雨が止むことはない。



 無限に振り続けるように思えるそれは、シェリーの左目から流れる涙と右目から流れる鮮血に、溶けていくようにして混ざっていく。



 再び空を見上げる。この世界はたとえ雨が降ろうとも、紫黒の光が途切れることはない。延々と降り注ぐ黄昏の光に、慟哭の雨。シェリーはそれらに打たれながら、こう言葉にする。




「先生……私は……私は……まだ弱い……弱いままです……でもきっと、きっと……果たしてみせます……この復讐を……必ず……」




 誓い。


 もう、弱い自分はいらない。


 必ず、必ず果たす。この復讐は絶対に自分が成し遂げるのだと。この右目の傷とともに、シェリーは刻む。その誓いを果たすために、もっと、もっと強くなるのだと。ベルを超え、そしてベルに勝利した魔人に勝つために……これからも戦い続けるのだと。



 ベルの死を、決して無駄にしないためにも――。



 

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