エピローグ リンゴの木の下で

 

 彼女は日が昇るのを何度見たのだろう。


 そして日が沈むのを何度見たのか。


 夜に輝く星をどれだけ数え、朝には消えていく星をどれだけ眺めたのだろう。


 空に見える多くの星々。その一生に比べたら人の生など無いにも等しい。だが、彼女はそんな人の生よりも遥かに長く生きた。


 日が昇り、そして沈むように、彼女はその長い生の中で、多くの人に出会い、そして見送った。


 どれほど時が流れようと彼女は見送るだけだ。彼女が見送られることはない。常人であればその長い生に耐えられないだろう。でも、彼女は耐えている。それは約束を守るため――いや、約束を守ってもらうために。


「いつか必ず会いに行く」


 彼女はその約束の日をずっと待っている。どれほどの苦難があろうとも彼女は諦めない。その約束を守って貰う事が彼女の全てであり、彼女の幸せなのだから。




 海に浮かぶ小さな島。そこにある家のベッドで彼女は目を覚ました。


 目を擦りながらベッドから起き出し、大きく伸びをする。顔を洗い、身支度を整えてから部屋の窓を開けた。彼女の鼻を潮の香りが通り抜ける。家の外からは波の音と鳥の声が聞こえ、眩しい太陽がいつもと同じように昇ろうとしていた。


 彼女は家を出て、すぐ近くにある墓へ向かう。


 十字架が二つあるだけの小さな墓だ。名前も何も書かれていない。その墓の周囲は綺麗に手入れがされていて、花が添えられていた。


 彼女はその墓にある十字架を布で丁寧に拭き、周囲の雑草を抜いた。一通り掃除が終わった後に、両手を合わせて目を瞑り、死者を弔う。


 これは彼女の日課だ。もう、数えきれないほどの年数をそうしている。


 ここに埋葬された人の名前を彼女は知らない。しかし、誰が埋葬されているのかは知っている。知っているという理由だけで彼女はこの墓を掃除しているのだ。


 長めの弔いを終わらせてから、彼女は歩き出した。


 島の中心に一本の木がある。


 彼女の目的地はそこだ。彼女は急ぎたくなる気持ちを押さえながらその場所へ向かった。


 木に近づき、手を添える。この木は彼女が種から育てたリンゴの木だ。


 そして彼女は木を見上げる。木の枝にはリンゴが実っていた。


 この木から初めてリンゴを収穫する。そろそろ収穫してもいい頃だと、彼女はずっとこの日を心待ちにしていたのだ。


 彼女はすこしだけ震える手でリンゴに手を伸ばした。


 軽く力を入れてリンゴをもぎ取る。それを宝石のごとく大事に両手で抱えた。


 本当は踊り出したいくらい嬉しい。しかし、彼女の性格上、誰も見ていなくてもはしゃぐような真似はしない。だが、冷静に努めようと思っていても、頬が緩むのを止められなかった。


 一通りリンゴを眺めた後、亜空間へしまった。そして別のリンゴへと手を伸ばす。


 そこで背後に人の気配を感じた。


 この島に住んでいるのは彼女だけだ。この島に来られるような人物は彼女の知っている中では一人だけ。それに気づいた時、彼女は手を伸ばしたまま、動けなくなってしまった。


「やあ、何をしているんだい?」


 男の声が聞こえた。


 もう何年も聞いていない声。だが、彼女がその声を間違えるはずはない。背後に誰がいるのかを彼女は確信した。


 リンゴを取ろうと伸ばしていた手が自然と下がる。そして彼女は振り向かずに下を向いた。


「リンゴを、取ろうと、していました……今日、初めて、この木から、リンゴを、収穫、するのです……」


 震える声、つっかえながら、しかも蚊の鳴くような小さな声で彼女はそう言った。


 その声とは反対に男の声は明るい。


「なら、そのリンゴをいただいてもいいかな? いままでずっと寝ていてね、今日起きたばかりだから、お腹がすいているんだよ。どうかな? お礼はするよ?」


「お礼、なんて、いりません。約束を、守って、くれたのです、このリンゴは、ご馳走します……」


「ありがとう。なら早速食べ――」


 男が言葉を言えるのはそこまでだった。


 下を向いていた彼女が男の方へ振り向いたからだ。


 彼女は涙を流していた。それは悲しみの涙ではない。喜びの涙だ。


 彼女は男へ視線を移す。ぼやける視界で男の姿を確認すると何も言わずに走り寄った。


 そして男の胸に頭を押し付けて抱きしめる。


 彼女は声を出さずに肩を震わせて泣いていた。


 男は戸惑っていたが、彼女の背中に両手を添える。


「ただいま、フェル。遅くなってごめんよ」


 彼女は何も答えない。ただ、強く抱きしめるだけだ。


「あの、フェル? かなり遅くなったから怒ってるのかな? その、角が胸に当たって痛いんだけど」


「耐えてください……」


「ああ、うん。あと、力を入れ過ぎて、背骨が折れそうなんだけど」


「耐えてください……」


 彼女に男を痛めつける意図はない。ただ、力のかぎり抱きしめていたいだけだ。


 彼女は待っていた。今日、この日を、何千年も待っていたのだ。


 本当は今日という日を色々とシミュレーションしていた。最高の演出を考えていたのだ。だが、そんなことはすぐに忘れてしまった。いまの彼女にそんな余裕はない。


 男は微笑みながらあやす様に彼女の背中を優しくさすった。


 どれくらいこの状態が続いただろう。


 彼女の両腕から力がなくなった。そしてゆっくりと男から離れる。


 彼女は笑顔だった。照れも何もない、満面の笑み。そして頭を下げる。


「おかえりなさいませ、魔王様。お戻りになる日をずっとお待ちしておりました」


「うん、ただいま。ずいぶんと待たせてしまったね。ごめんよ」


「いえ、大丈夫です。魔王様は約束を守ってくれました。それだけで十分です」


「……そっか。それじゃ言い換えるよ。ありがとう、フェル。ずっと待っていてくれて。それに、この島をずっと守っていてくれたんだね? それもありがとう」


 彼女は首を横に振る。


「問題ありません。魔王様に救われたあの日から、私は魔王様の忠実な部下ですから。それにここは魔王様の家族が眠る場所。守るのは当然です」


「相変わらずだね……それじゃ家でリンゴをご馳走してもらってもいいかな?」


「はい。まだ食べていませんが、きっとおいしいはずです。それに魔王様にはお話ししたいことが沢山あります。食べながらで構いませんから聞いてもらえますか?」


「もちろんだよ。これまで何があったのか、ゆっくり教えてもらおうかな」


 二人は並んで歩き出した。


 だが、直後に遥か北の方で光が立ち上った。遠くに見えるその巨大な光の柱を見る限り、明らかになにかしらの問題が発生しているのが分かる。


 彼女はそれを表情のない顔で見つめていた。


「あれは何だろうね?」


 見かねた男が彼女に問う。


 そんなことを分かる訳ないが、彼女はどうするべきか分かっていた。


「見なかったことにしましょう」


「いや、そうもいかないでしょ。せっかく浄化された魔界でまた変な事が起きたら大変だからね。行ってみよう」


「なら、せめてリンゴを食べてからにしませんか? もう少し余韻に浸りたい……!」


 なんとか食い下がろうとする彼女の頭に言葉が届く。


『フェル様。北の大地にある遺跡で魔物暴走が起きたようです。それに強大な魔物の気配もあります。近くの町が巻き込まれるかもしれません。我々スライム部隊とアビスが先行しますので、すぐにいらしてください』


 それは彼女の従魔からの連絡。こちらの状況を全く考慮しない要請。彼女は悟った。行くしかないと。


「あの、フェル、大丈夫かい? ものすごく疲れた顔をしているけど」


「……いえ、大丈夫です。どうやら遺跡で魔物暴走が起きたらしいですね」


 彼女は思う。のんびりするよりも、こういうほうが合っているかもしれない。タイミングは悪いが、自分らしいと言えるじゃないか。彼女はそう思い、男のほうを見た。


「行きましょう、魔王様。目を覚ましたばかりですが、寝ていた分、しっかり働いてもらいますよ。リンゴは問題が片付いてからです」


「そうだね。でも、お手柔らかに頼むよ?」


 彼女はその言葉に笑顔で頷き、魔法で巨大な門を作り出す。


「私と魔王様の邪魔をする奴なんてすぐに叩きのめしてやります。とっとと解決して、二人でリンゴを食べましょう! さあ、行きますよ、魔王様!」


 彼女は笑顔のまま男の手を引いて、門の中へ入っていった。







 二人はこれからも多くの人を救うだろう。


 しかし、二人に安息の日が訪れるかどうかは分からない。


 男は過去の罪をずっと償いながら生きていく。


 彼女はそれを支えていく。


 そんな二人には、これからも多くの困難があるだろう。


 それはずっと続くかもしれない。


 でも、二人は幸せだ。


 お互いに必要としている人と永遠に一緒なのだから。







 魔王様観察日記 完


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魔王様観察日記 ぺんぎん @penguin2000

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