閑話 魔王を観察する日記

 

「――はい、これで終わりよ」


 老婆は自分の膝に座る孫にやさしくそう言った。一週間かけて日記の内容を全て読んであげたのだ。


 この日記を気に入ってくれたのか、毎日のように早く読んでとせがまれた。この一週間は孫を独占する感じでなんとも気分がいい。だが、それも今日で終わりだ。老婆はちょっとだけ残念な気持ちになりながらも日記をそっと閉じた。


「どうだった? 面白かった?」


「うん、面白かった。でも、おばあちゃん。こういう面白い物を一人で独占するなんて、人としてどうかと思う」


「ち、違うのよ。色々と難しいお話だし、まだ早いと思ったの。独占するつもりなんて全然なかったのよ? ……本当よ?」


 孫に疑いの眼差しで見つめられて老婆は慌てた。本当に独占するとか隠すとかは思ってない。いつかは聞かせてあげようと思っていたのだ。


 その説明が功を奏したのか、孫は「うん」と頷いた。


「確かにまだ早かったかも。ところどころ分からなかったし。でも面白かった。また後で読みたい」


「ええ、文字の勉強をしたらまた読みましょうね。自分で読めるようになったらもっと面白いわよ」


「勉強は嫌だけど、これを読めるなら頑張るかも。それに日記を書いた魔王が素敵。大きくなったらパン屋じゃなくて魔王になる。そして魔神にクラスチェンジして、いつかは神に至る」


 魔王が素敵。その言葉に老婆はちょっとだけ嫉妬する。


「ちなみに勇者はどう? なかなか格好いいと思うけど? 目指すなら勇者にしない?」


「あの嫌な奴のこと?」


「嫌な奴じゃないのよ? ちょっとだけ人生に絶望していたけど、最後は魔王と和解してたでしょ? それにほら、家族想いのところは素敵じゃない?」


「家族想いなのはポイント高いけど、勇者は魔王におんぶに抱っこ。色々な事を解決したのは魔王。それに勇者は余計な事しかしてない。ダメダメ」


 老婆は傷ついた。人生の中で一番のダメージを受けたかもしれない。ここにはいない日記の筆者を恨んだ。


「そういえば、この日記を書いた魔王は誰なの? 名前は出てこなかったけど、知ってる人?」


「そうね、知ってる人よ。だれか分かるかしら?」


 名前の書かれている最後のページは意図的に見せなかった。当てられるだろうか。老婆は楽しそうに孫の答えを待った。


 孫は首を傾げながら考え込んでしまった。腕を組み、首を左右に傾けながら「うーん」と唸っている姿はとても可愛い。老婆は傷ついた心を癒すべく、孫を見つめていた。


「魔族のお客さんならいっぱい知ってるけど、こんなに恰好良い魔族は知らない」


 その回答に老婆は心の中で笑ってしまう。孫があんなに好きな彼女のことなのに日記の魔王とイメージが重ならないのだろう。そう思うと、吹き出しそうになる。


「ふ、ふふ……あら、そうなのね? でも、ものすごく知ってる人よ? 実はね――」


「待って、答えは言わないで、当てて見せる。あ、そうだ、その前に別の事を聞いてもいい?」


「なあに?」


「この勇者の名前ってセラだよね? 最後のほうに名前が出てた」


「ええ、そうよ。勇者セラ。魔王の永遠のライバル――そして親友よ」


 孫は老婆をジッと見つめた。


「おばあちゃんの名前もセラだよね? セラおばあちゃん。もしかしてこの日記に書かれている勇者なの?」


「……そうねぇ、どう思う?」


 老婆はいたずらっぽく笑い、孫にそう聞いた。


 だが、その孫はすぐに答える。


「ないと思う。おばあちゃんは家事も炊事も洗濯もできない。それに筋力もない。勇者どころか、普通の人よりも弱い」


「そ、そうね。でもね、おばあちゃん、昔はこれでも――」


「でも、おばあちゃんのことは好き。お母さんもそう言ってる。おばあちゃんはおかあさんをすごく頑張って育ててくれたっていつも言ってるよ。だから今度はおばあちゃんをゆっくりさせてあげられるように頑張ってるんだって」


 孫のその言葉に老婆は息を詰まらせた。


 そんなことを娘から言われたことなんてない。でも、娘はそんなことを孫に言っている。


 老婆は膝に乗せた孫をぎゅっと抱きしめた。


 あの子も、そしてこの子もなんて愛おしいのだろう。こんなに幸せでいいのだろうか、老婆はそんな風に思い、次の瞬間には罪悪感が心を埋め尽くした。


 自分は幸せになった。でも、彼女はどうだろう。


 彼女は気の遠くなるような時をずっと待たなくてはならない。そこに彼女の幸せはあるはずだ。でも、その幸せを手に入れるまでに、どれだけの辛さや悲しみを背負わなくてはいけないのだろうか。


 彼女は優しい。自分のためではなく他人の幸せのために力を振るうことができる。計算ではない。本心でそのように動いている。だからこそ彼女は他人のために傷つく。どれほど傷ついても、彼女は人を助けるだろう。


 自分も彼女に救われた一人だ。老婆はそれを思うと胸が張り裂けるほど痛かった。


「おばあちゃん、大丈夫?」


 孫が心配そうに老婆の顔を見上げていた。老婆はもう一度だけ、ぎゅっと抱きしめてから「大丈夫よ」と言った。


 彼女に連絡してみよう、そう思った直後だった。


 部屋の扉をノックする音が聞こえる。


『おかあさん? フェルさんが来てるわよ』


 扉の向こうからそんな言葉が聞こえた。あまりのタイミングの良さに老婆は驚く。


「フェル姉ちゃんだ!」


 老婆の膝から孫が勢いよく飛び降りて、扉の方へ駆けだす。そして両手でノブを掴み、扉を開くと、そこには魔族の少女がいた。


「フェル姉ちゃん、いらっしゃい。お土産は?」


「……その前に右足を離してくれ」


 少女は複雑そうな顔をしてから、小さな犬のぬいぐるみを取り出す。


「これでどうだ? なかなかいいワンコだろ?」


「うん、素敵。宝物にする」


「こら。その前に、ありがとう、でしょ。お礼が言えないならそれはフェルさんに返すわよ?」


「あ、そうだった。ごめんなさい、おかあさん。ありがとう、フェル姉ちゃん」


「どういたしまして。大事にしろよ?」


「もちろん大事にする。名前も付けた。この子はメガロドン」


「それはサメの名前だぞ? ……おい、背中によじ登るな。もう、おんぶはしないと言っただろ?」


「フェル姉ちゃんは甘い。今日はおんぶじゃなくて肩車。いつまでもおんぶだと思ったら大間違い」


 孫が親友のフェルと遊んでいる。


 フェルは嫌そうにしながらも、孫の願いを叶えている。なんて素敵なのだろう。永遠にこの時が止まってくれればいい。老婆はそんな風に思い、目元を拭った。


「ほら、フェルさんはおばあちゃんにご用があるのよ。遊んでもらうのは後にしましょうね?」


「うん、分かった。じゃあ、フェル姉ちゃん、あとで遊んで。今日は私が魔王をやる。フェル姉ちゃんは勇者」


「いつもと逆だな?」


「うん、魔王の方が格好いい。第二形態で魔神になるから勇者にも勝てる」


「……それ、誰から聞いた?」


 その問いに答える前に連れ出されてしまい、部屋には老婆と少女だけになる。


 少女は机の上に置かれている本を見て、嫌そうな顔をした。


「日記を見せたのか?」


「ええ、私が楽しそうに読んでいたから一緒に楽しみたかったらしいわ。なんて可愛いのかしらね。そうそう、好評だったわよ。将来、魔王になるんですって……絶対勇者の方が恰好良いと言わせるわ。負けないわよ?」


「まあ、頑張ってくれ」


「それで今日はどうしたの? いきなり来るなんて。ちょうど連絡しようとしていたのよ?」


「そうなのか? 特に理由はない。近くに来たからな、パンを買って行こうとしただけだ」


「嘘ね。だったらあんなお土産を持ってくるわけないわ。あれって迷宮都市で売っている新作のぬいぐるみでしょ?」


「ぬいぐるみを神眼で見るなよ。それに分かっても分からない振りをするもんだぞ? まあ、バレているなら仕方ない。喜ぶと思って買ってきたんだよ」


「いつもありがとう。娘も孫もフェルのことが大好きでね、貴方が来た日の夕食はいつも貴方の話題よ?」


「あることないこと言いふらしていないだろうな?」


「あまりにも評価がいい時はフェルの駄目なエピソードを言うわ。だって悔しいじゃない?」


「嫉妬するな。私を貶めても、お前の評価が上がるわけじゃないんだぞ?」


 遠慮のない会話。だが、老婆――セラにはそれがとても嬉しい。しかし、こんな会話があと何回できるだろうか。それを思うと寂しくなってくる。


 それは目の前の少女、フェルも同じだろう。そして彼女はずっと生き続ける。出会いと同じだけ別れがあり、ずっと寂しい思いをしていくのだ。


「ねえ、フェル、貴方は寂しくない? 貴方は一人、魔王君が目を覚ますのを待っている。それは気の遠くなる先の話……私はそれを思うだけで心が痛いわ。そろそろお迎えが来そうだからかしらね、私だけが幸せになっていいのかしらって、最近、思うようになったわ」


 フェルは呆れた顔をして首を横に振った。


「いきなり何を言うかと思えば……まず前提が違う。私は一人じゃない。同情される事なんて何もないぞ。今だってお前がいるじゃないか」


「でも、私も近いうちに――」


「お前の娘もいる。それに孫もな。そして私はいつかセラのひ孫にも会えるだろう。これからも私が一人になることはない。だから気にするな」


「フェル……」


「それに同情するならお前にだぞ? あの子の子供は可愛いだろうな。セラはその子を見ないまま向こうへ行く気か?」


「何言ってるのよ! 近いうちって言うのは二十年、三十年先よ! あの子の子供が生まれるまで、死ぬ気はないわよ!」


「まあ、そうだな。大事に扱えば、まだまだ長生きできる。無理はしない事だ」


「……ええ、そうね。ねぇ、今日は泊まっていきなさいよ。みんな喜ぶわ。もちろん私もね」


「そうだな。セラの駄目なエピソードを伝えておかないとフェアじゃないからな」


「ちょ、ならフェルの恥ずかしいエピソードを言うわよ! 日記でちゃんと読んだんですからね!」


「私だってお前の日記を読んだからな。いくらでもネタはあるぞ?」


 セラは思う。


 フェルだって本当は苦しいはずだ。辛いし、寂しいだろう。でも、私に心配をさせまいと気丈に振る舞ってくれる。フェルが自分のために気を使ってくれていると思うと、涙が溢れそうになる。


 私は素敵な親友を持った。娘にも、孫にも、そしてひ孫にも、そんな素敵な親友の事を伝えていこう。貴方達が生まれてきたのはフェルのおかげだと。


「ねえ、フェル。貴方の日記だけど、子供達へ託してもいいかしら。子供達が貴方への感謝を忘れないようにずっと手元に残しておきたいの」


「感謝なんかしなくていいぞ」


「駄目よ。それは絶対に駄目」


「相変わらず頑固だな。その日記で感謝が伝わるとは思えないが、構わないぞ。私は別の日記に書き込んでいるからな」


「そうなの? なら、それも頂戴」


「なに言ってんだ?」


「この日記、書き込みがいっぱいでもう新しく書かれないのよね。タイトル詐欺だから、書き込みされる日記を頂戴よ」


「タイトル詐欺ってなんだ? 日記なんだからタイトルなんてないだろ?」


「だって、これは『魔王様観察日記』でしょ? 貴方の事が書かれなくなったらタイトル詐欺じゃない」


「なんの話だ? 確かに付けるならそんなタイトルだと日記には書いたが、魔王様とは眠られている魔王様のことだぞ? 私の事が書かれなくてもタイトル詐欺にはならないだろ?」


「やあねぇ。これは魔王君じゃなくて、貴方を観察する日記でしょ? ねぇ? 魔王様?」


 フェルはこの世の終りのような顔をしている。その顔を見たセラから笑みがこぼれた。


「ふ、ふふ! そんなに嫌がらなくてもいいじゃない」


「……言っておくが私は魔神だ。魔王じゃない。でも、お前に魔王様と言われたら全身に鳥肌が立った。絶対にもう言うなよ?」


「今になってフェルの弱点を見つけるなんてね。もっと若い頃に分かっていたら、あの時、フェルに勝てたかしら?」


「さあな。でも、負けて良かったろ?」


「……そうね。そのおかげで今の私や子供達がある。貴方が強くて良かったわ」


 そしてセラが改めてフェルに感謝を述べようとしたときに、部屋の扉が少しだけ開いた。顔を半分だけ隠した孫がこちらをジッと見つめている。


「おばあちゃん、フェル姉ちゃんを長い時間独占するのは人としてどうかと思う」


 孫がご立腹だ。これはまずい。セラはそう思ってフォローを開始する。


「大丈夫よ、いま終わったから。ほら、フェルと遊んでもらいなさい。そうそう、おばあちゃんは勇者をやった方がいいと思うの。魔王より強いわよ!」


「騙されるな。勇者よりも魔王や魔神の方が強いぞ?」


「うん、フェル姉ちゃんは分かってる。今は悪が栄える時代。それに変身できる方が強い」


「いや、魔王とか魔神は悪じゃない。そこ大事だぞ」


 セラはフェルと孫が遊ぶのを見ながら、ずっと微笑んでいた。


 自分の命は残り少ないだろう。


 子供達を残して死んでいくのはとても悲しい。でも、心配は一切ない。目の前にいるフェルがずっと子供達を見てくれる。自分が死んだあとの事を押し付けてしまうのは申し訳なく思うが、フェルは気にせずにやってくれるだろう。


 私は本当にいい親友と出会えた。あの世であの人に話したいことはたくさんある。最初にこの事だけは絶対に伝えたい。自分の事よりも周りの人のために行動する偉大な魔王がいたことを。


 そして祈ろう。フェルが魔王君と再会して大きな幸せを手に入れることを。


 セラはそう思いながら、ずっと二人を眺めていた。

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