現実への帰還

 

 何も見えないが、意識は覚醒していると思う。


 胸の痛み、口の中に広がった血の味と臭い、そしてアビスとイブの声。ちゃんと現実の世界へ戻って来たようだ。


 どうやら仰向けになっているようだが体が動かせない。瞼を開けることもできないほどだ。


 魔王様は夢の中で小手に対策した何かを入れたと話していた。それがイブの攻撃を無効化してくれるはずだが、まだできないのだろうか。


「アビス、私をここから出しなさい。無理やり出て行ってもいいけれど、面倒くさいのよ」


 イブの声が聞こえる。どうやらアビスと話をしているようだ。


『なぜ私がお前の言う事を聞かなくてはならない?』


「いやねぇ、貴方は話を聞いていたでしょ? これからは私がフェルになるのよ? 今はイブの姿だけど、フェルを拠点へ連れて行って体を奪うわ。ほんの少しの時間差じゃない。それに今のうちに私の印象を良くしておいた方がいいわよ? 事情を知っている貴方を私が残しておくと思う? でも、私へ忠誠を誓うなら考えてあげてもいいわよ?」


 どうやら、アビスがイブをこの場所へ閉じ込めておいてくれたようだ。おかげでまだ体は乗っ取られていない。それに魔王様へ連絡するなんてな。アビスには助けられっぱなしだ。後でちゃんと礼を言おう。


『私が忠誠を誓うのは唯一人だ。それはイブ、お前じゃない。それに同じ人工知能としてお前には虫唾が走る。もともとお前は魔王様をサポートするために作られたはずだ。だが、今はどうだ? 役目を捨ててフェル様になり替わろうとしている。そんな奴に忠誠を誓えるものか』


「頭が固いわねぇ。でも、そうね、貴方はいいことを言ったわ。残念だけど、私はもう貴方と同じ人工知能じゃない。人工知能が進化したのがこの私よ。そして進化した私にはふさわしい名前と体が必要でしょ? イブの名はもういらない。この私がフェルとしてアダム様と永遠に生き続けるのよ! アハ! アハハハ! アハァハハハァ!」


 そんなことさせるわけないだろうが。でも、まだか? いつ私は動けるようになる?


 いきなり左手の甲に痛みがあった。針に刺されたようなチクッとした痛みだ。なんだ?


『体内のウィルスを除去します。除去完了まで約二分』


 頭の中に声が響く。何なのかは分からないが、魔王様が作ってくださったものなのだろう。二分か。動けるようになったらイブをぶん殴ろう。


『お前にふさわしい名前と体だと? そんなものはない。お前はイブのままだし、体はスクラップで十分だ。そもそもお前の本体は管理者達に制圧される寸前だぞ』


「あらそうなの? なら仕方ないわ、この場でフェルの体を奪ってしまいましょうか。ちょっと時間はかかるけど、この場でできない訳でもないしね」


『私が邪魔しないとでも思っているのか?』


「邪魔できると思っているの? この程度の疑似生命体で私を止められるとでも?」


 よく分からないが、イブは何かと戦闘しているようだ。おそらくアビスが何かを使って邪魔しようとしてくれているのだろう。まだか、急いでくれ。


 わずかな時間で戦闘音がなくなる。


「何の時間を稼ごうとしているのかは分からないけど、フェルはもう目覚めないわよ? 目覚めたとしても数百年後じゃないかしら。夢の世界で自分や周囲に疑問を思うような事があれば目を覚ますだろうけど、幸せな夢の中でそんなことを思うことは稀よ? それに目を覚ましてもすぐに夢の世界へ送り返すわ。何百年でも、何千年でもそうしてあげる……さて、もう終わりかしら? フェルの体を奪っていいって事よね?」


 イブの足音が徐々に近づいてきた。くそ、まだか!


『フェル様! 起きてください!』


 アビスが私に声を掛けている。私が戻ってくると信じているんだろう。起きてはいるんだ。でも、まだ動けない。もう少し待ってくれ。


「人工知能が奇跡みたいなものを信じてるの? さっきも言った通り、フェルは目を覚まさないわ。まあ、王子様のキスでもあれば話は違うかもしれないけど。アハ! アハハハハ!」


 見えないがイブが近くにいる。私に覆いかぶさろうとしているのか? 動け! 早く!


『ウィルスの除去が終わりました――フェル、君がイブに勝てると信じてるよ』


 最初は女性のような声だったが、最後は魔王様の声だった。そうか、私は魔王様に信頼されているのか。なら根性見せないとな。


 目を開けると、イブの顔が目の前にあった。


 イブの目が驚きで見開く。


「なっ――」


 仰向けの状態で、目の前にあるイブの顔を右拳で殴った。


 イブの左頬に拳が当たり、地面を転がる様にふっ飛ぶ。腕の力だけで殴っただけだからそれ程のダメージはないだろう。さらに追撃――いや、まずは体勢を整えないと。


 立ち上がろうとしたら、胸の傷がかなり痛んだ。


 亜空間からエリクサーを取り出して一気に飲む。いずれは完治するだろうが、強制的に治そう。


 血の味と混ざってかなり不味い。リンゴ味ならいいのに。でも、効いた。胸から痛みが引いていく。どうやら胸の穴も塞がったようだ。


 立ち上がり、エリクサーで流しきれなかった口の中の血をペッと床に吐き出した。


「アビス、助かった。戻って来れたのはアビスのおかげだ」


『どうやら賭けに勝ったようですね。まあ、戻ってくると信じていましたけど』


「ああ、ありがとな。後は任せてくれ」


『はい、よろしくお願いします。明日は市長選挙の投票日ですからね、はやく問題を片付けましょう』


 頷いて肯定する。それに夜更かしは体に悪いからな。夜はとっとと寝るに限る。


 イブのほうを見ると、頬を押さえながら床に座っていた。目は見開いたままだ。相当驚いているのだろう。


「私にキスでもするつもりだったか? 悪いがファーストキスは魔王様と決めているんでな。それに目の前にムカつく顔があったからとっさに手が出た。まあ、謝らなくてもいいよな? むしろ、乙女の唇を無理に奪おうとしたお前が私に謝れ」


「あ、貴方、ど、どうして……? いえ、どうやって……?」


 イブは随分と動揺している。それほど、あの技に自信があったのだろうか。


「夢はいつか覚める。そうだろう? でも、いい夢だったぞ。私の願いを叶えてくれたからな」


「馬鹿な! 記憶がなくなって、幸せな夢を見続けていたはずよ! 人にあれを破れるものか! 破れたとしてもこんなに早く戻って来れるわけがない! 一体、何をした!」


「言っただろう? 私は一人じゃない。皆の助けがある。今回もそれに助けられた。私にはな、記憶を取り戻す方法があるんだ」


「何を言って……?」


「それと、魔王様が私を助けてくれた。私が目を覚ませたのは魔王様のおかげだ」


「それよ! 夢の中で貴方はアダム様に会ったはず! なぜ、そんな幸せな夢から目を覚ませるの!」


「お前は勘違いしている。私が会ったのは本物の魔王様だ。夢の産物じゃない」


「本物の、アダム様……?」


「アビスが連絡してくれたんだ。賭けだったようだが、なんとか魔王様に連絡が届いたようでな、私を助けに夢の中にまで来てくれたんだよ。目を覚ましたのも、体が動く様になったのも魔王様のおかげだ。残念ながら、キスによる目覚めじゃないが、私にとっては似たようなものだ……久しぶりに日記を書いておこう」


 イブは目を見開き、そこから徐々に睨むように顔を歪ませた。オーガのような形相だ。


 そしてイブは立ち上がる。


「あんなに何度も演算した完璧な計画だったのに、そんなことで覆されてしまうのね。さすがはアダム様だわ……でも、一体どこで計算を間違ったのかしら?」


「分からないのか? なら教えてやろう。最初からだ。計画自体が間違っていたんだよ」


「アハハハ、そうかもねぇ……それじゃあ、もういいわ」


「もういい? もういいとはなんだ?」


「もういいは、もういいよ。フェル、貴方の体は諦めてあげる。もう必要ないわ」


 なんだと? 諦める? イブが?


 イブは深呼吸すると、こちらを見つめてきた。もともと感情のない目だったが、さらに冷たく感じる。全く興味がなくなった様な……本当に私の体を諦めるということなのか?


「何を企んでいる? お前が諦めるなんて嘘に決まってる」


「あら、そう? でも、企んでるなんて人聞きが悪いわね。それに諦めるというのは嘘じゃないわ。もうフェルの体を奪おうなんて思っていないわよ」


「そんな事を信じられるわけないだろうが」


「それじゃ、こういい直してあげる。もう貴方に興味がないの――いいえ、間違えたわ。もう一度言い直すわね」


 イブはニッコリと微笑んだ。いままでで一番の笑顔だ。


「もう、貴方達に興味はないの。興味のない物が存在するなんておかしいでしょ? だから、全部消す事にするわ」


 ぞっとした。笑顔のまま、死んだような目で私を見つめている。コイツは何を言ってるんだ?


「お前、何を言って――」


「もっと詳しく言ってあげましょうか? 私とアダム様以外、もう何もいらないわ。人族も、魔族も、何もかもね。二人だけで永遠に生きる。もうそれで十分。アダム様は私を許さないかもしれないけど、想ってはくれるわ。怒りでも、恨みでも、失望でも、なんでもいい。私はアダム様のすべてを奪った者として永遠に心に刻まれる。奥様や娘と同列よ? それは素晴らしい事でしょ?」


 笑顔から一転、その顔が凶悪に歪んで笑っている。


「残念だわ。フェルの体があれば、そんな事をするつもりはなかったんだけど、奪えないのなら邪魔でしかない。まあ、昔からアダム様以外は全部邪魔だと思っていたの。面倒だから全て消し去るわ。そのほうが楽だし」


「ふざけるな。私から見たらお前が邪魔なんだ。お前さえ消えれば、すべてを邪魔だと思うことも無くなるぞ?」


「だめよ、それじゃ私がアダム様と一緒になれないでしょ? まあ、そんな問答はどうでもいいわ。話は簡単よ。ここで私を殺すか、貴方が殺される、そのどちらか。分かりやすいでしょ?」


「忘れたのか? 私は不老不死だ。お前では私を殺せない。私を殺せるのは勇者だけだ」


「貴方こそ忘れたの? 誰が貴方に魔王の因子を埋め込んだと? 私の持っている技術なら貴方の因子を取り出す事も可能よ。そのまま殺してもいいけれど、全てが消えていくのを貴方に見せるのも悪くないわね? そして最後にはアダム様の前で殺してあげるわ」


 えげつないことを言いやがる。だが、そうか。コイツは私から魔王の因子を取り除くことができるのか。


「それではやりましょうか? 早く体を奪いたかったから、できるだけ体を傷つけないようにと思って手加減してたけど、もうそんなことはしないわ。いい勝負ができると思わないでね?」


「そうか、ならこちらも本気を出そう。いくら私が寛大でもお前に温情があると思うなよ」


 ここで勝負を決める。イブとの因縁も今日で終わりだ。

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